何故知り得なかったのか?三代王権が成就したからこそ理解できるようになる「霊人体」の真相! | 聖霊のもとにーメシヤの涙

聖霊のもとにーメシヤの涙

心の中に神様が入ってこられ、いらっしゃれば心が分かります。
神様が心の中に入ってこられれば、壁も突き通して見ることができ、
じっと座りながら何千年前に死んだ聖人たちを運行させることもできます。

先回記事重要部分より

 

ここでは、アダムとエバのどちらからも、霊人体を引き取られたと記しています。それで、人類始祖が堕落するに当たって、神様が引き取られたという「霊人体」とは、なにを指しているものなのかという疑問が生じるはずです。

 

アダムから引き取られた「霊人体」とは、それが「夜の神様」であることは、二代王様の「夜の神様昼の神様」の解釈から理解できるはずです。

 

それではエバから引き取った「霊人体」は何なのかということになります。それこそが「エバの神」と真のお父様が原理原本執筆の段階で、称さざるを得なかった「聖霊」のことに他なりません。原理原本で真のお父様が用いられている「聖神」とは、「聖霊」のことで間違いありません。二代王様が「聖霊は女性ではない」と語られたみ言を、ヨナ様が図に書き記した時、そこに「聖神」とハングルで書かれています。

 

まとめると、アダムの生心には夜の神様が直接に臨在され、エバの生心には聖霊が臨在されるという事になります。聖霊とは「聖父・聖子・聖霊の三位一体」から発動されますから、「お父様の聖霊」という事になります。これはエバだけではなく、エバから産み増える人類全てに臨んでいるという事になるのです。つまり、お父様の聖霊は、人間が誕生した時から生心に臨在していたという事実を、真のお父様は原理原本に書き込んでいるのです。

 

人類始祖の堕落によって、アダムの生心に臨在していた夜の神様が離れざるを得なくなり、エバの生心に臨在していたお父様の聖霊も離れざるを得なくなったという事なのです。

 

ですからそのままで、生心に「お父様の聖霊」が臨在してくれるようにならなければ、動物の生体と同じようなものなのだという事になります。

 

  *****

 

真のお父様は、キリスト教を失った蕩減復帰摂理の出発点で、原理原本を執筆されました。世界的メシヤの為の基台が崩れたので、自らが「父と子と聖霊の三位一体」のキリストであることや、聖霊について具体的に解説することができませんでした。

 

そこで、真のお父様は比喩と象徴の詩的文体で、お父様ご自身でなければ真意が読み取れないほどの文章形成と、全体の構成で執筆されたのです。

 

しかし、亨進様と国進様がカインアベル一体を勝利し、キリストと聖霊の真相を公表できる時代となったのです。

 

本来は、神様の息子娘である人間の生心には、生まれた時から聖霊が臨在して導いているものだったのです。アダムの生心には夜の神様が直接に臨在し、エバの生心には、お父様の聖霊が臨在していました。堕落せずに初夜を迎え、息子娘が産み増えていたならば、全ての人類の一人一人が生命を授かったその時から、聖霊が臨在し導くようになっていたのです。

 

原理原本には、その事がはっきりと書き記されています。先回記事で引用した、原理原本89pと682pの「霊人体」に関するみ言を、再度取り上げます。

 

第一章 第四節 創造原理と堕落原理(三)堕落の始まりを調べてみよう 89p

 アダムとエバが罪を犯すと、本来、アダムとエバに注入して授けた神の根本の基となる生心を中心に成長し、神が臨在できる基そのものであったアダムの霊人体は、悪に犯された自らの体にいることができないため、神が引き取られたのである。そして、罪を犯す前の霊が神の右側に座し、第二アダム格として送られたのである。その方が正にひとり子イエスであった。

 

第二章 第四節 「父なる神」にのみ侍る霊人(霊人体)は未完全な生 682p

 そして、堕落は少年時代にしたため、アダムとエバは未成熟期であった。その霊人体が未完成の立場で堕落したことから、神は罪を犯した人間から霊人体を引き取られた。これがエデンの園から追放されたということである。そうして人間は肉身から動物の生体と同じような状態となり、根本性から遠ざかるようになったのである。

 

どちらも、「霊人体を引き取られた」という表現になっていますが、この「霊人体」について、真のお父様は1977年2月6日に具体的に語られています。長い引用になりますが、お父様の聖霊を迎えるべき聖殿食口の王王妃には、必須のみ言だと思っています。

 

  **天聖経「地上生活と霊界」より抜粋引用**

 

地上生活と霊界 第3章 霊界 2)霊界はどのような所か①霊界と肉界 イ. 霊界、肉界の中心

 霊界と肉界、霊的な存在と肉的な存在も同じです。ここは神様の愛、神様が中心になっています。我々が普通考える堕落した人間は、神様が中心になっていません。

 人間は、心と体から成っていますが、それは違います。次元が違うのです。心と霊界は違うのです。霊界と肉界とは、神様の愛を中心として言うのです。したがって、霊界と肉界が一つになるためには、必ず神様が介在しなければなりません。神様の愛を介在せずには霊界はありません。神様を中心として霊界というものがつながるのです。

 皆さんには良心があります。良心と霊界は、どのように違いますか。心と霊界は、どのように違うのですか。「自分の心も霊だろう」と、このように考えるかもしれませんが、混同しています。心は霊界ではありません。堕落したために、心は霊的世界と関係を結んでいません。いわば、骨のない人のようなものが、堕落した人間たちの心です。「骨のない人のようなものが、堕落した人間たちの心である」と考えれば実感がわきます。骨のない人のような形態が、堕落した人間たちの心というものです。

 霊人体を見るようになると、霊人体も体的な要素があり、心的な要素があります。霊人体の心のようなものが、霊的世界です。それは必ず神様と関係を結んでいます。

それゆえ、神様と関係を結ばずには、霊人体の心のようなものが生じないのです。霊と心が違うということを知るべきです。心は、神様と関係がないのです。神様が離れたのです。神様自体が関係することはできません。神様が直接主管できないのです。皆さんの心は、「こうだ、ああだ」と変わります。しかし、霊的世界、霊的存在は変わりません。それは、永遠に一つの目標を立てて、絶えず行くのです。それは、なぜそうなのでしょうか。神様の側に立っているためです。心は、人間内に属しています。行ったり来たりする人間内にいるのです。

 皆さんは原理を習っているので分かりますが、生心とは何でしょうか。 生心とは、心と霊が合わさって、新しく一つの目的に向かって動くものです。神様を中心として、我々の良心と一つになり、理想的な自分をつくり上げ得る動機的心です。それで、その生心がなくては、霊界と真なる愛と関係を結べる、自体の根源を探すことができません。 

 生心が自分に生じれば、体も喜び、全部それについていきます。自動的にこれらが一つになるのです。今まで、人間において一番問題になることとは、体と心が互いに離れているということです。霊的な力が自分に臨んで生心的起源にさえなるようになれば、心と体が自然に一つになるのです。そのような根本から革命が起こり、根本から是正する根源を発見できない限り、我々は理想を尋ねていく道理がありません。動機があってこそ結果が出てくるのです。

 宗教は生心を植えておこうということです。生心を中心として多くの宗教があります。ありとあらゆる形態があるのです。(91-142, 1977.2.6)

 

  **引用終了**

 

三代王権が成就され、二代王様は2021年3月23日に聖霊について、はっきりと女性ではなく、男性格主体の神様の霊なのだという事を明らかにされました。「聖父・聖子・聖霊の三位一体」の夜の神様から、人間一人一人に注がれる愛の働きこそが、「お父様の聖霊」として現れるのです。

 

人類始祖が堕落していなければ、人間の生命が与えられると同時に、聖霊が心に臨在し生心を形成するのです。

 

「生心とは、心と霊が合わさって、新しく一つの目的に向かって動くものです。神様を中心として、我々の良心と一つになり、理想的な自分をつくり上げ得る動機的心です。それで、その生心がなくては、霊界と真なる愛と関係を結べる、自体の根源を探すことができません。」

霊的な力が自分に臨んで生心的起源にさえなるようになれば、心と体が自然に一つになるのです。そのような根本から革命が起こり、根本から是正する根源を発見できない限り、我々は理想を尋ねていく道理がありません。動機があってこそ結果が出てくるのです。」

 

「心と霊が合わさって」と語られた、「霊」とは「お父様の聖霊」に他なりません。私たちは心に「お父様の聖霊」を迎え、臨在していただけるようになってこそ、三代王権の王王妃だと誇れるようになるのです。

 

「お父様の聖霊」が心に臨在するようになれば、夜の神様の存在が真のお父様の存在となり、常に私とともにいてくれることを実感できるようになるのです。それは形あるものとしての認識ではなく、霊性で感じる普遍的存在なのです。

 

二代王様も常にその事を訴え続けておられます。

 

  **2024年4月28日英語日曜礼拝二代王様み言より**

 

 私たちの共同体には中心があります。そうです。キリストが共同体の中心でなければ、その共同体は崩壊するのです。

例えば、家庭詐欺連合は明らかに崩壊しています。そして、彼らは、私たちが持っている福音主義的精神の多くをコピーしようとしています。

 しかし申し訳ないが、本物であるものをコピーすることはできない。彼らは、お父様から何十億ドルも盗んだんでしょう?お父様の血統と王権を排除しようとしたのです。

文字どおり、摂理歴史全体に、反対する罪を犯したのです。

 だから、今更なりふり構っていられない。彼らは、その組織は崩壊しているのだから。

 プロテスタントか何かのように、両手を広げて、物事が好転するふりをするのです。いや、あの共同体全体の誰もが、自分たちがしたことを理解しているからです。

 彼らは不義を追求したのです。一時的な権力を、彼らは追い求めたのです。だから、聖霊を無理やり連れてくることはできない。そのようなふりをすることはできない。見せかけではないのです。

 私たちが霊、聖霊を持つとき、お父様の霊がここにいて、私たちに触れて下さる。そして私たちは泣き崩れ、床に叩きつけられる。それは作り話ではない。聖霊がここにいるのです。お父様の霊がここにいるのです。

 なぜかというと、私たちは義を追い求め、権力や名声の代わりにお父様を追い求めたからなのです。それが私たちがしたことであり、それが現実であり、本当のことなのです。そして聖霊は、本物の信仰と本物の愛があるところにしか宿ることができないのです。アーメン。

 だから、福音的なスタイルで話したり、福音的なスタイルで歌ったりするだけでは、それを再現することはできない。それでは再現できない。

 彼らがやっているのは宗教的なショーなのに、彼らは文字通り、お父様を裏切った。彼らは文字通り、お父様の基盤をすべて盗み、破壊したのです。しかし今、最後にそれを切り替えて、彼らが忠実であるかのように、従っているように見せかけることができます。

 私の言っていることが分かるでしょう。どうなるか分かりますか?

 いや、お父様の権威の下に来た人々は、そのために大変な苦労をしたのです。あなた方は皆、呪われた。全員が憎まれた。友を失った。中傷された。

 しかし、だからといって、私たちがお父様を追い求めることから、目を背けたことはありませんでした。

なぜなら、最終的にはあなたが得ることができるからです。

 

  **引用終了**

 

「聖霊は、本物の信仰と本物の愛があるところにしか宿ることができないのです。」

 

本物の信仰と本物の愛とは、心情の動機が問題になるという事です。真のお父様が公表された、「真の愛に絶対服従して生きるという心情の動機」こそ、聖霊を迎える重要なポイントとなるのです。それはアベルカイン一体による「メシヤの為の基台」が立ってこそ、その心情の動機が理解できるものとなるのです。

 

三代王権の聖殿食口の摂理的活動が、人間的なイベントで終わってはなりません。人間中心ではなく、キリストが中心にある共同体の、心情一体の摂理的活動となっていかなければなりません。

 

 

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