三代王権の成就された心情圏のもとで分かる真のお父様の蕩減復帰完了の偉大さ尊さ!(前半) | 聖霊のもとにーメシヤの涙

聖霊のもとにーメシヤの涙

心の中に神様が入ってこられ、いらっしゃれば心が分かります。
神様が心の中に入ってこられれば、壁も突き通して見ることができ、
じっと座りながら何千年前に死んだ聖人たちを運行させることもできます。

先回記事後半部分より

 

さらに、最初の真のお母様には、キリスト教全体を代表した基盤の上に立ち得なかったので、教えられなかったとあります。

 

真のお父様のみ言から、最初の真のお母様と結婚された時には、文家においても崔家においても、原理を学ばなくても、アベルカイン一体の基台が出来ていたことがうかがえます。つまり、真のお父様は家庭的メシヤの為の基台の上に立って、キリストとして立っておられたということです。理論的に説明できなくても、信仰と心情においてキリストとして立っていたのです。

 

しかし、キリスト教全体を代表した基盤・・・つまり、キリスト教信徒のアベルカイン一体の基台が立ってこそ、世界の前にキリストとして立つことが出来るし、証しすることも出来るということです。「夜の神様、昼の神様」の解説による証しが無ければ、心の内にキリストが臨んでくださっていても、自覚できるものとはならないのです。

 

ですから、亨進様は世界会長時代に「夜の神様、昼の神様」について、次のように語られたのです。

 

「今日、特別に皆さんにお話したいことは『夜の神様、昼の神様』についての内容です。天福祝祭の期間が終わりに近づいている今、私たちはもう一度、真の父母様がどのような方であるかについて考えてみなければなりません。これを正しく知らなければ、すべての統一家の価値が無意味なものになるかもしれません。」

 

「夜の神様、昼の神様」が解説され、「聖父・聖子・聖霊の三位一体」のキリストを迎えられる今だからこそ、真のお父様が語られた最も初期の摂理の事が説けていくのです。

 

この本質が理解できなければ、三代王権の尊い価値が、あなたにとっては無意味なものになるということなのです。

 

  *****

 

崔仙吉(チェ・ソンギル)女史は最初の真の母として立ち、長子・聖進様をお産みになられました。しかし、洗礼ヨハネとして立てられた使命者が再臨主を背信したがゆえに、キリスト教徒が二千年の歴史をかけて立ててきた「メシヤの為の基台」が崩れ去りました。それで真の母の位置が失われたので、崔仙吉女史を立てた崔家が再臨主に反逆したのです。

 

その反逆の中で真のお父様は、失われた真の母と長子を、最も神様から遠い、サタンのエバ国家であった日本から取り戻さなければなりませんでした。そこで、真の母となるべき金明熙(キム・ミョンヒ)女史を日本に送り、長子・喜進様を産むことになるのです。ここには、とてつもなく重要な蕩減復帰とともに、真の母を立てる究極の摂理があったのです。

 

それさえもサタンに砕かれ、最後の母性の心情の砦としての三番目の真の母の位置は、もう失えない極地での位置となっていたのです。つまり、失えない位置なので、人類の女性を代表する祝福家庭婦人たちが、妾の位置で一体化し、絶対死守するべき真の母の位置でした。

 

その妾の立場で真の母の位置を守り抜かれた方こそ、康賢實真のお母様であり、その真の母の位置を守り抜いた日本の祝福家庭が築いた「涙の海の心情圏」なのです。

 

つまり、真の母を立てて三代王権成就まで達成する本質摂理は、母国日本の最前線の祝福家庭が立てた「涙の海の心情圏」によって、第一の真の母から第三の康賢實真のお母様まで、一直線上の心情圏で繋がっているのです。韓氏オモニはサタンに、その位置を売り渡してしまったので、箸にも棒にもかかりません。

 

康賢實真のお母様が立ったことの尊さを理解するためには、1993年12月に16万人日本女性修練会で語られた「蕩減復帰の峠を越えましょう」を理解する必要があるのです。長いみ言ですが、ぜひ読むだけではなく、理解していただけることをお勧めします。

 

  **16万人女性修練会のみ言より引用開始**

 

蕩減復帰の峠を越えましょう(前半)

旧約時代、新約時代、成約時代の目的

 

 聖書では、「再び蘇るという」ことをいっているのです。再び生まれなければなりません。それで、イエス様にニコデモが夜に訪問して尋ねました。「いかにすれば救われますか?」と。その時、イエス様は「再び生まれ変わらなければ、それは救われません」と言いました。それでニコデモが言うのには「いかにして、大きくなって再び腹の中に入って生まれることできますか?」。「それも知らずして、イスラエルの先生になっているのか」と、イエス様が反問したことがあるのです。だから、重生の意味は重ねて生まれるということです。最初に生まれたことが間違っているから再び生まれ変わらなければならないという意味です。イエス様は、はっきり話しましたが、その内容は説明しなかったのです。言葉では言っているのです。


 旧約時代、新約時代、成約時代です。

(先生が黒板に図―1を書かれる)

 

 こうなるのです。神様の摂理の中心思想は、真の父母を再び取り返してくることです。創造するのではないのです。

 

 サタンによって盗まれていったのだから、もとがえしてこなければ、探し求めてこなければなりません。きのうの「真の自分を探しましょう」と同じく、失ってしまったということです。分かりますか? そうするには、良心を絶対なるものとして、それと一つとなる道以外には、自分を探すことができないというのです。それでは誰によって教わるのかというと、自分ではないのです。良心は何も知らないのです。堕落圏において長成(期)完成(級)基準の未完成期において、知らないで堕落した基準を凌駕する者が一人もいなかったのです。それを凌駕しないというと、サタンの支配下に永遠に止まります。

 

 それで、神様は真の父母として、蘇生(期)完成(級)基準ではなく、それを凌駕している完成(期)完成(級)基準に到達した場合には、神の直接主管圏に入るのです。だから間接圏は、神様の直接主管圏を中心として主管されるような基準に及んでいないので、その下に行って愛の問題を完成するようにはなってないのです。分かりますか? (はい)。何も知らないで堕落するのは、その知らない基準に神様は降りていくことができないから、そのまま待っている立場ですから、それを見ながらも、堕落することをほうりっぱなしにしました。それでアダムは分からなくって、知らないうちに堕落しました。そうなるというと、完全にアダム自体が分かるような基盤を、再び探してこなければならないのです。

 

 それを探してこられる方が、この世の中の救世主であり、宗教圏ではメシヤというのです。日本では、メシヤのことを食堂の親父と言ったね。(笑い)最初に先生に言ったのです。「メシヤは食堂の親父だ」と。(笑い)本当ですよ。霊的な食物の親父がメシヤです。そう考えてみると、それは間違いではないのです。

 

 旧約時代、新約時代、成約時代の目的は何かというと、アダム・エバが完全に完成し、完全なる真の父母の立場に立つべき立場を失ってしまったのだから、地上のサタンから、真の父母たる者を再び取り返してこなければ復帰ができません。復帰は反対の道をたどっていくので蕩減復帰しないといけないのです。だから、これは皆、連関関係を持っているから一つでも抜いたら説明に困るのです。

 

 本当は、きょう「蕩減復帰の峠を越えましょう」という話をしたいのです。

(先生が黒板に図―2を書かれながら説明される)

 

 神様。これはアダムです。エバです。カインです。アベルです。サタンです。アダムです。エバです。カインです。分かりましたね。アベルです。堕落しなかった場合には、神様の命令にアダムが従えばいいのです。アダムの命令にエバが、エバの命令に長男が、長男の命令に弟が従った場合には、それで済むのです。主体のプラスの前に横的になって、一つになればいいというのです。だから、アダムの命令をエバが守ればいいのです。エバがアダムの命令と一体になった場合には、相対関係だから、神様の直接命令を受けなくても完全なる完成の立場に立つのです。
 

 中央政府を中心として、国会を中心として、行政機関を中心として、中央の下には県があるのです。県知事を中心として、県全体が県知事と横的に一つになれば、中央政権の干渉がなくても、国家という木の枝の立場を守ったと同じような価値の位置に立つことができます。郡は郡の長を中心として横的に一つになればそれでいいのです。県の知事に聞く必要はありません。分かりましたか? (はい)。こういうふうになっているのです。

 

 だから、この前にも言ったように、良心は神様の前には第二の神様の立場であるのだけれど、自分には絶対なる神様であるというのです。だから、神様が干渉しなくても、プラス・マイナスが一つになれば、それで「オーケー」です。分かりましたか? (はい)。


神の創造と人間の堕落

 

 そういう観点から見た場合に、神様の命令をアダムがエバに命令すれば、それで下が完成されるのです。エバはアダムの次に、カインと一つになればいいのです。アダムの指示する方向にコントロールする方向に相対的に合わせていけばいいのです。母を中心として、長男と母が一つになった場合には、お父さんに聞かなくてもいいのです。家庭の規則がそうなった場合には、規則を子供に言い聞かせて、母の言葉と一体となった場合には、お父さんとお母さんの話を聞いたと同じであり、それから神様の話を聞いたと同じであるというのです。分かりましたか? (はい)。便利なようになっているのです。だから、カインはアベルを重視し、アベルとカインが一つとなったら、主体・客体関係で収まるようになっていたのです。

 

 こういう者が堕落したために、みな怨讐なのです。怨讐になってしまったのです。アダムはサタンに対して、「この野郎! 君は神様の王子となるべき者を堕落させて、地獄の王にさせた!」と言うのです。怨讐です。分かりましたか? それでアダム・エバ同士でも、エバはアダムに対して讒訴するのです。「私は堕落したけれど、あなたが主管圏を転倒したから堕落したのだ」と。責任を転嫁させてしまうのです。それは堕落の傾向です。女はみなそうするのです。女のけんかを聞けば、みな偉そうに、みんな自分が全部いいように、相対は全部悪いように言うのです。みな被せて責任を転嫁してしまうのです。だからみな怨讐です。「この野郎、何をやってるのか! 君が堕落して、みんなを誘致して!」と、そんな馬鹿なことを言っている怨讐です。それで、子供は「お母さん何で堕落して、地獄の長男になるようにして、何です!」と。みな反対なのです。だから、カインがアベルを殺したように、みな反対するのです。みな怨讐になっているのです。

 

 怨讐を植えてしまった家庭だから、世界は、みな分散するのです。怨讐のサタンの子供たちが成長して皆、サタンと同じくなったのだから、みな成熟して、自分なりの主張をして誰も聞かないのです。「お父さんは何だ?」「サタンだ!」。「君は何だ?」「夫婦だ!」。「旦那は何だ? 妻は何だ?」「君が悪いじゃないの!」。お母さんは子供に「君が悪いじゃない!」。「お母さんが悪いじゃないか!」。兄さんは「何だ! 弟が悪い」。弟を殺して、「この野郎!」。全部、そういうようにして、みな別れていくのです。

 

 だから、植えたとおりのことが結実されるのです。アダム、エバの堕落の実です。それは、いちじくの木の下でもって淫行行為をして堕落した青少年の倫理問題がなぜこうなるかというと、エデンの園においてそういうようなティーンエージャーによって人類が堕落して、自由行動でもってめちゃくちゃにさせたものを植えたのだから、末の結実の収穫期、秋の収穫期になると、全世界のティーンエージャーの混乱期になり、そのために国も世界も収拾の道がないのです。全部、地獄化していくのです。一番犯罪の多い年齢は二十歳、その三年前後のティーンエージャーが大変なことになっているのです。それを収拾する道は、なぜこうなったのかという原因を知らなければなりません。結果は動機があるからそうなったのであり、その動機を知らなければなりません。動機がこういうものであり、その堕落の結果、このように乱れてきたということです。分かりますか? (はい)。植えたとおりに収穫するのです。

 

 蕩減原則によって、エバといえば韓国語では、「イゴッパ」「これ見なさい」。「イゴッパ」「早くしろ。エバ」となるのです。「これ見なさい。悪くなった」と言うのです。エバは堕落のために何をしたかというと、アダムをだましたのです。それから親です。神様は親です。父子をだましたのです。こういうふうにして、堕落したのだから、こういうふうに落ちていったのだから、それを反対にして上がってこなければなりません。同じものをひっくり返して上がってこなければなりません。分かりましたか? 堕落した正妻の道では、復帰の女、真のお母様が生まれることができないのです。

 

図-3


 

 転覆して反対に上がるのだから、正妻一人では、二人のことができません。二人が必要です。そして、こういうふうになったのです。(先生が黒板に図―3を書かれる)こういうふうに降りていく者が、こういうふうにして行くには、これは正妻ではできません。正妻は、それ本妻というのです。本妻としては上がることができないのです。これが妾です。妾、妾です。 妾の系統を中心として上がっていくのです。

 

 だからサタンは、ヤコブの時に、ヤコブは神の選民として帰る代表の家庭です。そのヤコブの家庭によって、堕落したすべてを清算していかなければならないのです。神の血統を考えて見た時、堕落したために生まれたサタンの血統をみな殺してしまうことはできません。殺してしまった場合には、女がなくなるのだから、メシヤという真の父母が生まれる基地がなくなるのです。分かりますか? 残さないわけにはいかないのです。それで女をたくさん持たないといけないのです。それで、妾として、妾の女を連れて神のほうへ戻っていかなければなりません。そうなるというと、妾は本妻の、正妻の怨讐です。地獄にみな同じく入ります。抱き合って転んで、そこに行こうというのです。大変なことです。これをなだめて一つにならなければならないという、復帰された家庭にはそういう内縁があることを知っているのだから、神様はそれを収拾するために、「怨讐を愛せよ」ということを発布せざるを得ませんでした。分かりました? (はい)。 

 

 聖書の「怨讐を愛せよ」という話は何かというと、一家においては、兄弟です。レア・ラケルと同じように、姉妹の関係が共に一つの愛の後孫を取り合って戦うようになっているのです。それを一つにしないというと、天国に入れないのです。それで神様は未来の世界を望みながら、こういうような愛の怨讐圏が一家にかかっており、それを収拾しないといけないことを知っている神様は、遠い未来世界に向けて「怨讐を愛せよ」ということを発布、発表せざるを得なかったということです。分かりましたか? (はい)。どんなに難しいことであっても、これを収拾せざるを得ないのが女たちの十字架です。堕落した女が蕩減復帰の道を逆さまに行く、この運命を避けることはできません。こういうような内容です。


ヤコブ家庭の摂理

 

 それで、ヤコブ一代において、ラケルを中心として、ラケルを七年間、ヤコブが精誠を尽くして相対として求めたにもかかわらず、結婚の初夜に、それはラケルではなく、レアをヤコブの所に入れさせたのです。それで起きてみれば、大変なことです。「神様が、なぜそれを許したのか」と。こういう復帰の中心の家庭に、なぜこういうような悪辣な問題が起こるようにさせて、神様は保護されなかったかということが問題なのです。

 

 その時、ラバンはサタンの側に立って言うのです。「神様。神様の家庭を復帰していくには、正妻では復帰できないことをあなたは知っています。それでも正妻で復帰するのだったら、サタンと共に人の家でもって交代に愛する立場に立ちますか?」と。絶対できないのです。怨讐の立場です。怨讐の立場でもって、憎む怨讐の立場から手を着けるようになっているのです。分かりますか? それは愛の一家という、独特の一人の旦那さんを中心として二人の女の怨讐圏、愛の相対関係の怨讐以外にありません。だから正妻と妾の関係です。分かりましたか? (はい)。

 

 それで、ラケルが妾ではなくて、本妻になって、ヤコブと一つになっていたらそれでいいのに、堕落の系統から復帰されるには、正妻ではできないのです。分かりますか? 正妻の怨讐の女からです。それは分かりますね? (はい)。だから妾です。妾は正妻をさておいて、二番目のもっと過去より高い愛でもってつなぐのです。そこに、復帰伝統に一致する内容があるのです。

 

 それで終末の時には、妾の子供たちが世界を指導していくのです。出世する者がたくさんいるのです。大概、自分たち女は言わないのだけれど、そういうような関係の因縁で、はらんで身ごもった子供たちがたくさん世界的な指導者になっているというのです。お母さんにはみな隠してしまっても、自分の旦那さんが横で三角関係を結んではらんで生まれた者が、天下を治めるということがたくさん起きているのです。分かりますか?

 

 末の時期は、妾の子供が世界を指導して、こういうふうに切り返していくのです。(先生が黒板に図―4を書かれる)だから、なぜ離婚が末の時期に許されるようになったかというと、妾が離婚することによって、正妻の立場に立つようになるのです。分かりますか? これが離婚したとするならば、このヤコブとラケルが一つになるのです。また離婚することによって反対するようになれば、この離婚した本妻が元の旦那さんを探していくのに、何の差し支えもないのです。

 

図-4


 

 再臨のメシヤが来た場合には、正妻も離婚することによって、妾も離婚することによって、本当の再臨の主の所に行くことができるのです。それはサタンに、「行くな!」とぶたれてもです。だから、末の時期において、離婚をなぜ神様が許したのかというと、神のほうに自由自在に、完成の旦那さんを訪ねて、神に帰る道を開いてやるために離婚という問題を、常識みたいな環境にしてきたということを知らなければなりません。分かりましたか? (はい)。君たちもそうでしょう。旦那さんをだましてここに来たのだけれど、すぐに帰れば離婚もできます。離婚は難しくないのです。それは誰が決めるかというと、男が決めるのではなく、女が決めなければなりません。優先権は女にあるのです。女はアダムの実体の女王様です。男は天使長です。金とか全権は、子供と共に女が持っています。

 

 だから追い出した場合には、「君が子供と出ていけ」とは言わないのです。「私が出ていく」と言うのです。(笑い)分かりましたか? 心配しなくてもいい、そういう時代が来たのはなぜかというと、再臨のメシヤは泥棒みたいに来るというのです。サタンの世界から横的に見た場合、何の関係かというと、縦的には関係があるけれども、横的に見た場合には外の橋の向こうの陰で、内緒の奥間に住んでいる奥さんに、「来い、来い」と誘うことです。それは天使長がエバを「来い、来い」と誘ったと同じように、誘っているのです。そして目が合った場合には、惚れて大変です。死んでも離れることができないので、「垣根を飛び越え、家を飛び出していく」と言って、部落の騒動問題を統一教会が起こしてきたのです。だから、「家庭崩壊! 文先生は家庭破壊の大将だ! 悪者だ!」と、自分の力ではできないので警察に頼むようになったのです。先生が動機になったのではなく、女がみな動機になっているのです。

 

 だから、ラバンが言うには、「復帰路程は、正妻でもってはできないことを知っているのではないですか?」。そうであれば、ラケルは本妻になれません。妾にならなければならないのです。それで、レアを許さざるを得なかったのです。分かりますか? レアは完全にサタンのほうです。自分の僕の三人の女を通して、十人の子供を生んだのです。ラケルは二人の子供を生んだのです。十二人です。これはレアの作戦で、ヤコブ家庭を自分のほうに完全にとりこにしたのです。ヤコブ自体もそれが分からなかったのです。こういうように内的に絡み合って、それで峠を越えて、明らかな道を開拓していくことを知らなかったのです。こういうふうにして、ヤコブ家庭はこうなっているのだから、こういう二つになって、これが一つになるのです。正妻は妾と一つにならないといけないのです。

 

図-5


 

 一つにならなかったのはなぜかというと、ラバンの妻、レアの母の補助が必要であり、ヤコブのお母さん、それと姑と婿の補助が必要だったのです。この二人の母が一つとなったとするならば、それでラバンに対して、「何だ! この悪辣な者! 二人の女を売ってしまう! そんなことはない!」と言うべきです。それから、レアを呼んで「この者! 妹の愛を盗んだ泥棒!」と言うのです。ラケルを中心に心情的な痛みを残してはいけないのです。「君は妾だ!」そういうふうに言うべきです。分かりますか? 本当にそうなるべきです。「君が妾である」と。夫婦が共に公文を出して、舅と嫁がレアに対して、「この者!」と、一人が主張した場合には、本妻は妾の立場で一つにならなければ駄目です。レアの子供たちとは、カイン・アベルです。これを屈伏させて家族を統一するのです。二代の女が一つにならなければならないのです。分かりますか?(はい)。

 

 第一代のアダムの奥さんを殺したのは女だから、第一代のアダムの代わりのお母さんが、自分の娘を一つにして、方向転換してやらなければならないのです。それを知らなかったのです。これが問題になったのです。一つにならなかったから、これがだんだんと民族的になって、北朝十支派を中心にして、南朝の二支派に分かれて争ったのです。(先生が図―5を書かれる)家庭で統一できなければ、民族的に戦うのです。


エリヤの使命と洗礼ヨハネ

 

 北朝と南朝が一つになるための、イスラエルとユダヤの聖書の中の絡み合いの戦いなのです。それを成すために、中間の調和のために送ったのがエリヤです。エリヤは、北朝のバアルと偶像アシュラを崇拝する者たちを集めて、その祭司たちをみな動員して、南のほうのユダ支派の祭司と共に、「生きた神がいかなるものかを試して、それを証しした方向に南北を行かせよう」と提唱してやったのです。北方の十支派の祭司、偶像崇拝、サタン的な祭司たちを八五〇名が、みな祭壇を作って燔祭をささげ、「そこに水をかけて祈った場合に、天から火が降りてみな焼いてしまうような実証をしよう」と準備して、まず、八五〇名の北朝の十支派のカイン的な祭司たちは、いくら祈ってもびくともしないのです。それで、エリヤが一人で祈ってみると、天から火が降りてきて、祭壇とともに、祭物とともに祭司たち八五〇名をみなさーっと焼いてしまったのです。

 

 そうなると大変です。北朝の人々は自分たちの崇拝した祭司たちがみな死んだのだから、「このエリヤ!」と。約束したこともさておいて、「自分たちの信奉する祭司たちを殺してしまった」と、みな殺そうとしてきたので、エリヤは逃げて、山へ行って祈ったのです。「神様、あなたの命令によって、一つとなるように思ったのに、一つとなるどころか、みな私を殺そうとするのです。こういうふうになったのだから、私の生命を取ってください」と祈ったのです。その時、神様が言うのには、「いまだに、バアルに屈伏していない七〇〇〇人が残っている」と。その七〇〇〇人を中心として一つになる時までは、復帰はできません。カイン・アベルの二人を立たせないと、神の国に帰ることができないのです。

 

 そういうような言葉を残して、エリヤは昇天して使命を果たせなかったのだから、それを再びイエス様が、国家次元でなさなければならないのです。国家次元でイエス様が来られる時、イエス様は国家の王様として来られるのだから、その前に起こる支派的民族的な争いは大変なものです。それを平定して、エリヤの統一の理論を再びなさなければならないので、エリヤの再臨という概念が再び生まれてくるのです。それで、エリヤが九〇〇年前に火の車に乗って昇天していったと同じような姿で、再び降臨すると思っている旧約聖書を徹底的に信じていたのです。分かりますか? (はい)

 

 エリヤが来るといっても、火の車に乗って行ったので、火の車に乗って帰ってくると思っていたのですが、火の車に乗ってエリヤの霊人体が来て、何をするというのですか? 地上でもって、平面でもって、完成するようになっているのです。分かりますか? ヤコブの家庭のレアとラケルは、地上において家庭で完成するようになっているのです。イエス様はその失敗を国家的になさなければならないのです。家庭でできなくて、氏族的にできなかったことを国家的基準において統一するために来るのだから、氏族の失敗を延長させてエリヤが再び来て、主の道を正しておくと旧約聖書で約束していたので、降臨なさる時は火の車に乗って来ると思っていたのに、人として生まれてきたということは大変なことです。

 

 それで、イエス様の弟子たちが伝道に行くと、「君たちの先生が、もしメシヤだったら、エリヤはなぜ来なかったのか?」と言うのです。これが問題です。何も知らない、旧約聖書も知らない者たちが、イエス様に感化されて、伝道に行って「自分の先生がメシヤだ」と言った時、それを突っ込まれて、何も知らなくて、それで帰ってきて先生に質問するのです。「人々が言うのには、メシヤが来る前に、エリヤが先に来ると言うのですが、それは何のことですか?」と。それでイエス様は、はっきり言っているのです。マタイ伝の十一章にあるのです。「エリヤはもう既に来ている。それは洗礼ヨハネとして、エリヤは来ている」と。それは大変なことです。旧約聖書では、昇天した者が降臨すると思っていたのに、イエス様は、「そのエリヤが降臨するのではなく、もう既に洗礼ヨハネがエリヤとして来ている」と言ったのです。

 

 そうなると、その当時のユダヤ教会の信者たち、旧約(時代の)信者たちは、「この悪辣なイエスのやつ、悪魔の王者よ! 自分がメシヤになるために引っ張りだして、つくりあげたのではないか! 我々はそう思わない」と言うのです。だからといって、そのように追われたイエス様は、追われたままではいけないのです。死んでも、そのみ旨の道を発展させていかなくてはならないのです。それを消化していくために、どんどんどんどん、伝道を続けることによって、ローマの法廷闘争で、十字架上に、はりつけになって死んでいくのです。そのことは、イエス様をローマ自体が、ユダヤ人が殺したのではないのです。エリヤが来なかったからです。分かりましたか? (はい)。

 

 イエス様の言ったとおりに、イエス様はメシヤになりました。その当時、イエス様を誰もメシヤとは知らなかったのです。メシヤは神様が決めるのだから、いかに世の中が反対しても、神様の公認する基準に立ったイエス様の教えの教会を中心として、歴史以来初めて宗教、文化を通して、キリスト教が世界を統一したのです。第二次戦後にです。分かりましたか? (はい)。

 

 メシヤと神様が決めたのならば、それは絶対的なメシヤであり、ユダヤ人が否認したとしても、メシヤになれないことはないのです。だから、この世的にいって、(エリヤとして来た)洗礼ヨハネがイエス様と一体となった場合には、イエス様は死なないのです。洗礼ヨハネの率いる者はカイン圏です。七〇〇〇名以上のバアルに屈しなかったそういう群れをまとめて、イエス様が来る時に、それを一つにさせて家庭をつくるために祝福してやった場合には、ヤコブ家庭失敗と氏族、民族失敗が、ここで再び統一されたとするならば、イエス様を中心とした右翼と左翼、右の強盗と左の強盗も生まれてきません。

 

 バラバはイエス様の代わりに復活しているのです。死ぬべき者が、悪辣な暴動を起こしてローマ転覆運動をしたバラバが、イエス様の代わりに生きているのです。イエス様の体の代わりに生き残ったバラバの基準が今の回教圏です。イエス様が亡くなって七世紀、六〇〇年を超えて七世紀に始まったのです。

 

 イスラエル民族が六数の通過過程で悔い改めて一つになって、イエス様をメシヤとして侍ったとするならば、バラバ圏はなくなっていたのです。それで、イエス様を中心として、中近東が体の代わりです。イエス様の体は国家を代表しているので、その国家基準が統一された場合、ユダヤの国は、こういうような紛争の立場には立たないのです。イエス様を殺したために、それ(ユダヤ民族)はジプシーのように、世界的に追い出されて、二〇〇〇年の歴史にも蕩減の量がまだ満ちないので、ヒットラーを中心として六〇〇万の犠牲者を出すようになって、蕩減の量を越えることを神様はなさっているのです。


洗礼ヨハネの失敗

 

 それを蕩減して、第二次大戦で連合国が勝利することによって、アメリカが中心となって、日独伊が完全に負けたのだから、一体になっているのです。それでキリスト教文化圏は霊的救済を目的としてきたので、肉的救済の基盤を引きつけないというと、再臨の主が来て霊的救済ばかりではなく、肉的救済もともに成すのだから、霊肉共にカイン・アベル一体を成すために、第二次大戦後の連合国家勝利基準のカイン・アベルが一体となった所に、お母様を中心として新郎が、再臨の主が一つになったとするならば、それで世界は七年の間に統一されて、地上天国、天上天国が、アダム家庭でなすべき基準をイエス様が国家的基準で失敗したのだから、今度は世界基準によって、すべてを勝利するのです。

 

 ヤコブの家庭、モーセの七十二長老、イエス様の一二〇門徒がみなイエス様の氏族として、国に入籍するような基盤なのです。そこには、家庭が入っているし、氏族が入っているし、民族、国家が入っているのです。失敗した内容を全部引っくるめると一二〇軒です。一二〇軒の門徒たちが祝福されて、地上のイエス様の後孫と共に、血統の組み合わせをなすような相対関係になった場合には、その一族は世界を動かして余るようになるのです。死なずにイエス様が二〇〇〇年の歴史を通して、世界を統一したとするならば、生きた血統を持ったイエス様の直系のその民族は、国家基準を超えて、世界は既に一つの地上天国になっているはずです。だから、再臨ということはないのです。

 

 今、先生が語っている成約時代は、その時に始まって、先生がなしている氏族メシヤも派遣されて、家庭的メシヤ、そしてアダム家庭を復帰して、血統転換、所有権転換、心情転換を一族で成して、神の国に入籍した場合には、イエス様を先祖として、その次に弟子たちがみな十二弟子を中心として、こういうふうにつながって、結婚することによって、どんどんどんどん、祝福でもって世界をまとめていくことができたのです。そうなったら、先生みたいに、金もかかりません。分かりましたか? (はい)。

 

 そういうふうにして、イエス様が死んだために、大変なことになったのです。イエス様は、なぜ死んだのかというと、レアとラケルが一つにならなかったことを、イエス様の家庭において蕩減復帰しなければなりません。分かりましたか? (はい)。そうなるというと、イエス様のお父さんは誰ですか? これは奥さんのエリサベツ、これはマリヤです。(先生が黒板に図―6を書かれる)マリヤは妾の立場です。エリサベツとマリヤは、ちょうどレアとラケルと同じです。姉妹関係、母同士がいとこ関係です。分かりますか? 姉妹です。姉さんであり、妹です。これは姉さんであり、妹を蕩減復帰しないといけないのです。

 

図-6


 

 母の系列が間違ったから、母のほうでもって組むのです。分かりますか? それが蕩減復帰です。こういうふうにして誰が正妻かというと、これが正妻です。これが妾です。しかし、レアとラケルは反対です。まるっきり反対です。それでエリサベツは、マリヤを自分の旦那さんの所に紹介してあげるのです。こういうことは有り得ないことです。蕩減復帰をするには、マリヤは妾の立場で心情的な絡み合いをしなければならないのです。分かりますか?

 

 こういうふうにして、イエス様をはらみます。これはヨハネです。エリサベツは、マリヤが身ごもった子供が、女であればいいと思ったのです。しかし、女では何もできません。女はお嫁に行ったら、それで問題ないと思うのです。しかし、男の子供を生んだのです。それが問題です。

 

 そうなると洗礼ヨハネとイエス様は、異母兄弟です。それを洗礼ヨハネは知っているのです。こういうような非公式な血統関係の者がメシヤになるとは、夢にも思いませんでした。ヨルダン川で、神様の直接の命令で天の門が開かれて、聖霊が鳩のように降臨して、神様の直接の命令によって、洗礼ヨハネに告げられてメシヤとして証し、天の命令どおりにしたのだけど、考えてみれば、(神様が)こういうような非公式な血統でもってメシヤを送るとは思えないのです。だから疑ったのです。イスラエル民族は、イエス様が「洗礼ヨハネがエリヤだ」と言うのだから、それは問題です。しかし、洗礼ヨハネは「自分はエリヤではない」と否定したので、大変なことになるのです。

 

 なぜ洗礼ヨハネがヘロデの奥さんと、妾の問題を中心にうんぬんして、それで首を飛ばすのですか? マタイ伝の十一章を見れば、イエス様は泣きながら言ったのです。「君たちは何のために野原に出ていったのか、それは洗礼ヨハネを見るためにか、それはきれいな着物を着た者を見るためにか? 結局は、メシヤを見るために行ったのではないのか」と言ったのです。「女のうちで一番、女が生んだ者で、洗礼ヨハネより大きい者はいなかった。しかし天国では一番小さい者になってしまった」と、反対のことを言っているのです。地上で大きい者だったら、天国でも大きくなるべきなのに、なぜ小さいのですか? 地上で、イエス様を王様と認めた場合には、天上では一番大きい者になっていたのに、それを地上で否定してしまったのだから、天国には住めなくなってしまうのです。

 

 聖書を見れば、それを否定できないのです。なぜ洗礼ヨハネが、主弟子にならないのか? そう見た時に、天(国)は戦う者が勝ち取るという結論です。洗礼ヨハネは戦えなかったというのです。それはペテロに取られてしまったのです。無関心で、放棄した者はみな天の栄光が取られてしまうことを、はっきりと記載しているのです。マタイ伝の十一章を読んでみなさい。そういうことを今まで知らなかったのです。

 

 だから、洗礼ヨハネの失敗のために、洗礼ヨハネの弟子がみな十二弟子になるべきなのに、主弟子が洗礼ヨハネであるべきなのに、主弟子はペテロです。それは誰が反対したからですか? 十二弟子、一二〇門徒などはいらないのです。昇天しないうちに、十二人、一二〇人の家庭基準を残していかなければ、未来の国家的一二〇国家を求めて来られないのです。みなそんなことを知らないで、洗礼ヨハネが切ってしまったのだから、証しするために、主の前の道を正すために送られた神のみ旨とはまるっきり反対に、一人の女のことにかかわって首を切られてしまうのです。イエス様を受け入れなかった罰です。 

 

 そういうふうにして、なぜイエス様が三十三歳まで結婚できなかったかというと、(イエス様は)マリヤに何回も言ったというのです。マリヤに何回も、三回も懇切に、「神の摂理からして、こういかなければならない」ということを話したのです。お母さん(マリヤ)が中心になってエリサベツと共に、夫婦、姉妹が一つになって収拾しないと大変なことになるのです。それができなかったのです。

 

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