三遊亭鳳笑 五代目円楽一門会 の ブログ -8ページ目

 実家から 昨日送られてきた うがい薬 だ。

 処方の 余りらしい が明治から 市販されてれば イソジン だ。
 
 私は 昨今の 両親、特に 父の 思考が 老いたなっと 思ってしまう。
 定年後、地域に 馴染んだと 言うべきか?? 地域で 老後を 楽しんでるのだ。
 
 姉は 旅行会社に 勤めてる。
 千葉市 に 住んでるから GOTO   が 使えるし 推進する 立場にある のだ。
 
 休みがとれたから 夫婦で 実家へ旅行 を計画… 即座に 来るな! と 断られたらしい。
 
 だが 母親は 電話の翌日は、クラスター 発生中の 浜松へ 行くらしい。
 
 理由は 桃の お菓子を 買いに行く と 勇んでる。
 
 姉は 当然 見送れ と 注意 …帰って 来るな! と言いつつ 自身は 特定されてる クラスター付近に 行くのだ。
 
 母は 強情だから 父に 止めてくれと 頼んだ。
 
 すると 父も 平然と 。
 
「桃んのは、期間限定だで 行かにゃ いかん だい!」っと  遠州訛り で 答えた。
 
 無茶苦茶だね。
 会社が 東京 だからとかでなく、東京だろうが 千葉 埼玉 神奈川は 父の中で 一緒なのだ。
 
 関東圏 からの 来客は 有無も言わさず、シャットアウトだ。
 
 でも 桃のお菓子は クラスター発生源 だろうが 命がけで 買いに行く 執念は 何だろう?!
 
 関東に 住む 子供 が 帰郷すると、村八分になるという 強迫観念が あるのだろう。
 それは 分からんでもないけど…。 コロナ後 私も 帰ってない。
 
 コロナは 仕方ないこと。
 でも 体裁を 気にする 家では なかったし、両親は 変わってた。 思考的には さばけてて、合理的な 方だった と思う。
 
 ガキの頃は 服、自転車、学校の必須品 まで おさがり で 育った。
 情けないが、未だに、着物は おさがりばかりだ。
 
 幼稚園では 姉のが使った  ランドセル。当時、ロゴは変わっていたのに、、、。
 
 リコーダー は 卒業した、近所の お兄さんの おさがり。
 メロディオンは どこで貰ったのか 不明、学校指定では 見たことない 色だった。
 
 姉のおさがり 、女子用を 制服シャツを 着せられていた。
 
 しまいには 女子用シャツですら ない 、よく わからない ガーゼ生地の ポロシャツらしき もの。
制服との 共通点は 白いってだけだ。白にしても 色もデザインも 違いすぎた。
 
 嫌だったけど まあいい… 弊害はなかった。
 このことで、からかわれた、 記憶は ない。
 
 
前座時代 以外で イジメ?って程の、通うのが 憂鬱に なった 経験は ない。
 
 でも 子供心に 恥ずかしさは、味わっていた。 みんなと 同じが 良かった。
けど 違ってても大丈夫だと いう気持ちは 年々育った で 今に至る。
 良し悪し? うーん 良くはないね…
 
 両親から 家には お金の 余裕は ない! とも 言われてたしね。そう思ってた。
 
 挙句、男の子は 短髪が多かったが、母の趣味で 髪を 伸ばし、ゴムで 結ったり、飾り留め まで つけられた。
 
 母に 嫌だと 言うと 怒るし💢
  ウチはウチ、よそはよそ!
  悪いことした訳では ないのだから、人の 顔色を 伺う 人間に なるな! 堂々としてろ!
  と 一蹴される。
 
 父は 父で どんな時も、特に 政治的な プロパガンダ に 踊らされな!と 教えられた。
 
 ファシズム、スターリニズム、文化大革命、カンボジアの ポルポト政権下の 恐怖などを 語っていた。
 
 大義を 操る者 、狂信するものが 一番残酷な 事を成す。と 教えられ、 踊らされることなく、国際感覚 を 身につけろ! が モットーだった。
 
 昨日は 広島かぁ、この世に、原爆を 二発 投下するほどの 大義ってあるのか…。
 
 父は 間違った 政治下で 、危険を 感じたならば 、国籍よりも 、命と 個人を 尊重を 守るために 国を 出よ! と 教わった。
 
 どこでも 暮らせるようにしろ! 
 
  そして 体現するように 家には 外国人の 来客が多かった。趣味かな?父が  異文化 コミュニケーションを 好きなのだ。
 
 欧米人、アジア人 、ユダヤ系レバノン人、華僑、など、国籍、民族、宗教を 問わず 家に 招き 食事を 共にした。ともかく 知らない文化に 興味津々なのだ。
 
 
 無論 禁忌 の 食べ物 が 違うし、対応するのだ。
 
 一時期は インドネシア人が 多かった。
 私が 学校から 帰ると インドネシア少年が 留守番 しとるのだ!
 
 言葉が ほぼ 通じない 少年 が 家にいることが 危ないとは 思わないのだ。
 留守番を 任せちゃうのだ。母と インドネシア少年 は 言葉が 通じないが 何とかなる。
  少年 (歳上) は 私と歳ちかく 顔が 似ていたのだろう 親身になってた。
母は 名前すら 発音できなかった。それでも、仲は 良いらしい。
 
 60歳を 少し 超えて から 四年間、夫婦で 中国に 移住しちゃったしね。
 
 同僚に バラモン教の バラモン夫妻が いたらしい。で 家に 招かれた。
 中々 バラモン は 平民さそってくれないぞ〜 、というか バラモンと 遭遇する ことがない!
 
 ともかく バラモンの 家に 行った。バラモンは 昼食後 昼寝するのだ!
  仕事の日でも 帰って 昼寝するのだ。
 
 昼寝用の 寝室が ある。バラモンの嫁が カーテンを 閉めて さあ 寝てくれ! ときた。
 
 寝られないよなー と言いつつ 従った… 結果。
 
 寝過ぎだ! と バラモン夫が 起こしに 来た。 
 家訓、カーストは おそるべしだ。
 
 家の 電話の前 に、インドネシア 用に Sampa magi と 挨拶するように メモが貼って あった時期がある。
 
 挨拶したところで、インドネシア語 を 話せる訳もなく 片言の 日本語と 片言の 英語 で 用件 を 話さにゃ ならんのだ…
 
 しかも さっき sampa magi  調べたところ 「魔法まで!」 と 意味不明な 訳が 出た。
 
 念のため 発音を 聴くと 、懐かしい 響き だった。
 
 我々は 電話口で 「魔法まで!」 っと 口走って いたのだ。
 
 でもね、間違っていようが、仲良くなれる 魔法の 言葉だった こと は 確かだね。
 
 そんな 両親も 老いる。
 
 父の 書棚にあった。 カミュ『ペスト』は  真偽を 問わず  右往左往してしまう 市民 が描かれてる。
 
 執筆当時を 重ねる、ファシズム に 無意識に 呑み込まれてしまう 政治的空気感 への 反抗。
 
 個人が 立場を超え それぞれの 良心 誠実 掲げ 連帯し 立ち向かう 姿では 無かったか??
 
 
 英語も 話せない  私を 英国に 送り込んだ。
 当初、日本人と 知り合わず アラブ諸国と 中国、台湾人 に 囲まれてた。 
 
 寮の 共同キッチンは ナイジェリア ギリシア トルコ が 共同、冷蔵庫は およそ 食材とは 思えない においを 発していた。
 
しばらくして 別の町に 越してみた。 ホームステイ 。
一年 過ごした。英語は すでに 忘れた。
 
 暮らしてりゃ トラブる、スマホも ネット予約も ない時代 だ。頼りは プリペイド式 ボーダフォン だけだ。
 
  旅に でりゃ 真っ暗 バス停で おろされる。
 道も分からない 街。 安い B&B を探す。
 ロンドンで パスポート 盗まれたこともある。
 別に 大したこともない。警察、大使館 行けば いい。日本大使館は 親切だった。発給してもらった 書類で 帰国できた。パスポートなしでだ。『シンドラーの リスト』みたい?
 
 留学生が 旅行で 一旦英国を出ると 書類揃えても 再入国できない 強制送還 こともあるらしい。
 日本の 信用は 大したもんだった。 
 
 パスポートより 代わりの書類より、 一緒にとられた コンタクト を 作るほうが 面倒だった。
 
 おかげで 外国で 一人されようが 街なら 怖くない。
 
 現地人に 道を聞かれる ほど 違和感は無くなってた。
 
 家族が 来た。
 カーディフ駅で 待ち合わせたのだが 何時間も 会えなかった… 
 
 息子の 髪と 顔 が 変わってて 分からなかったらしい… 
 
 確かに 日本人 でも 確実に 英語で 話しかけてきた。
 
 渡英は、外国で 言葉もままならなくても 暮らせる 力を 養えという教育 では 無かったのか??!
 
 今は完全に 遠州袋井の 一夫婦だ。 
 世間の 空気に 感染した 考えに 基づいたり、近所の 目を気にしたりね。
 
 挙げ句の果てに 素早く イソジン! 姉が 売っていないと 言った途端 送ってくれた。
 
 構わないが、商売柄、うがい手洗いは コロナ以前から 徹底してる。
 
 判断は 昼の テレビを チラ見して 頭の中が イソジン しか無くなったのだ。
 姉が、仕事帰りの ネットの ウワサ を みて 姉が 追い討ちをかけた。
 
 『ペスト』 の 意味は、病気そのものより、周りの 環境 、閉塞した空気 に 思考を奪われる こと。
 
 ペストに 感染した 典型だね。頭の中を うがい 、出来たらいいのにね。
 
 でもね 心配は 有難い。使うよ。
 
 バファリンの キャッチコピー 「半分は やさしさで できている 」って 聞いたことがあるしね。
 
 イソジンの 半分は 親心で できてる!