映画『無名』の先行上映会が、5月2日、ヒューマントラストシネマ渋谷で開催されるとのこと。
ネット予約で、あっという間にお席がほぼ埋まりました。
夜分で、しかも、渋谷なので、私は申し込みませんでした。
ここにきて多様なグッズが、ネット販売に続き、劇場でも販売されることが発表され、劇場によってはコラボドリンクまであるようで…。
急なイベント化? に、少々戸惑いを感じています。
お祭り騒ぎは似合わない作品と思いますし、しみじみ堪能したい私は、地元のミニシアターが合っていますね。
どうにか、お席が取れますように。
* * *
さて、わずか9秒ですが、Zhan Zhan がアップした谷雨の動画、とてもきれいで、心を奪われました。
肖战 一起收藏春天的尾巴
「谷雨」は「穀雨」のこと。
簡体字表記では「穀」が「谷」となるので「谷雨」です。
これは少し中国語に親しんでから知りました。
以前、歳時記の「穀雨」の項で「中国語では谷雨」という記述を目にした記憶があり、「谷雨」という言葉をおぼえていました。
単に、日本語漢字と中国語簡体字の表記違いとして記してあったのか、それとも「谷雨」という言葉があるのか、今回、気になって確認しました。
でも、自宅にある歳時記・季語辞典のどれにも、「谷雨」の単語が見つかりません。
たしかに見たのです。
その時は、まさか Yiboくんや Zhan Zhan のファンになるとは思ってもいなかったので、中国語にも興味がありませんでした。
中国語の発音ではどのように読むのか、そのようなことも、まったく考えず、日本語で、「穀雨」と同じように「コクウ」と読むことができる、と思ったことをおぼえています。
いくらなんでも、夢でこのようなことを見るとは思えず、何かの辞典で目にしたはず…。
おぼろげな記憶を探っているうちに、「インターネットの記述だったのかもしれない」と、思い至りました。
ネット上の記事は玉石混淆。
「日本語漢字と中国語簡体字の表記違い」であることを省いて記していたのかもしれません。
あるいは、孫引きで、書き手がそのことを知らずに記していたのかもしれません。
ネット検索はとても便利で、簡便に知識を広げてくれますが、理由の記載がないものや出典が明らかではないものは鵜呑みにはできませんね。
今年の穀雨は4月19日。
Zhan Zhan が Weibo にアップしたのもこの日でした。
穀雨は、「春雨が降って百穀を潤す」(広辞苑)の意。
二十四節気の、春の最後の節気です。
それで Zhan Zhan は肖战工作室 Weibo に「一緒に春の終わりを感じましょう」と綴ったのです。
『広辞苑』の見出し語【こくう】には、【虚空】と【穀雨】の他、「空を暗くするような大雨」として【黒雨】が記されています。
気象学者で気象エッセイストの倉嶋厚さんの『雨のことば辞典』の【こくう】には、【穀雨】と【黒雨】の他、【谷雨】が記されています。
ただ、この【谷雨】についての解説は、「谷に降る雨。青葉を煙らせて谷に降りかかる雨。紅葉をうるおしながら谷に吸い込まれていく雨」とあり、「穀雨」の別名ではありません。
Zhan Zhan の短い動画から、「言葉の国」への小旅行という至福を得ました。
* * *
同じように心を奪われ、つかの間の至福を得る短い動画といえば、これを外せません。
王一博 『时尚芭莎』1月刊预告
* * *
先日、毎週たのしみに見ていた NHK BS の『ドラマ 舟を編む ~私、辞書つくります~』が終わりました。
三浦しをん著『舟を編む』は、原作小説の他、これまでも映画化、アニメ化、漫画化されています。
原作小説がある場合、私は大抵、「小説を先に読んでいる」のですが、この作品はめずらしく、アニメ → 映画 → 原作小説、という順で触れました。
最初にアニメを見たからか、実写映画にはなんとなく入り込むことができず、豪華キャストでしたのに、主演の松田龍平と宮﨑あおい以外の記憶が残っていませんでした。
原作小説にいたっては、読んだことをすっかり忘れてしまっていました。
先日、Amazon を開いた時に、何気なく原作小説本を検索したところ、「購入済み」と書かれていて、びっくり…。
おそらく、映画を見たあと、原作上のストーリーやキャラクターを知りたくて読んだのでしょう。
アニメと映画を見たので、物語もわかっているし、NHK BS のこのドラマは、見なくても…と、思っていました。
でも、やはり、「辞書」とか「本」とか「言葉」とか、私の食指が動いてしまうのです。
番組欄の説明を読むと、主役が「辞書編集部主任 馬締光也」ではなく、池田エライザ演じる「新任編集部員 岸辺みどり」と、わかりました。
作品の切り口が異なることを知り、また、エライザちゃんは、大好きなドラマ『名建築で昼食を』でも好演していましたので、とりあえず第1話を見てみることにしました。
第1話から、「言葉」好きにはたまらない、すばらしい脚本でした。
ためらうことなく、毎週録画予約に設定を変更しました。
どのようなドラマなのか、ひと言で説明するとしたら、「なんて」という言葉から始まり、「なんて」という言葉で終わる、秀逸な脚本…でしょうか。
すべてのキャストがぴったりで、登場人物が皆、魅力的。
「言葉」の語釈が、ストーリーにとても巧みに絡ませてあり、「言葉の国」のたのしさにあふれ、しかも、コロナ禍ともみごとにリンクさせている。
「〇〇〇なんて」から「なんて〇〇〇!」へ変わっていく主人公。
「なんて」という一つの言葉が持つ多様の意味、謂れ、解釈を知り、「言葉の海を渡る舟を編む人たち」の一員になってゆく。
直接、辞書づくりに携わる編集部の人びと、その周囲の人びと、辞書づくりに関わる社内外の関係者たち、誰もが生き生きと描かれ、リアルでした。
つい、ドラマであることを忘れてしまい、仕事の現場でお目にかかる方がたのように錯覚するくらいでした(笑)
ロマンス要素はごく薄く、「辞書づくり」を真っ向から描いているところが、私好みだったのだと思います。
とくに、辞書の頁となる用紙、紙へのこだわり、その試行錯誤が描かれていて、強い関心を抱きました。
私は書籍の、とりわけ辞書の「紙質」にすごくこだわりがあります。
新しい辞書を買っても、紙質が合わないと、結局、引かない…ということがあるくらい。
辞書を早く引くことができるか否か、快適に引くことができるか否かは、紙質にかかっていますから。
ドラマでは「ぬめり感」と呼んでいました。
「ぬめり感」というと、革や布の風合い、質感を表す言葉と思っていましたが、紙にも使うのですね。
辞書にとって「捲りやすさ」はとても重要です。
私は比較的早く辞書を引くことができるので、紙質に対するこだわりが強いのかもしれません。
ネット検索が主流の若者たちには、わからない感覚でしょうね。
このドラマは、辞書づくりの地道な作業に、情熱をもって携わる人びとのお話ですが、初めから辞書づくりに情熱をもっていた人ばかりではありません。
仕事を通して、仕事に対する情熱を得ていった人たちも描かれています。
また、そうした情熱をもつ第三者に、自分の情熱を託す人も。
それが、このドラマのよさの一つに思いました。
仕事では、苦手なことも、嫌いなことも、こなしていかなくてはなりません。
新人の時には苦手だったことが、中堅になった時、自分の得意分野になっていた…というような経験は、社会人ならば誰もがしているでしょう。
好きなことを、とことんきわめていく ”趣味” では得られない可能性です。
これだけ細やかにつくられたドラマですから、地上波 NHK でも放送するのではないかと、期待しています。
* * *
ブック型辞書好きの私でも、最近はネット辞書を利用することが多くなりました。
なかでも『広辞苑』は重く、「書棚から出してきて頁を捲る」よりは、アプリで調べるほうが、ずっと便利。
それでも、紙を捲る「本」の辞書は、偶然の “知” との出会いを多くあたえてくれる貴重なツールと思っています。
今は何でもピンポイントで、瞬時に必要なことだけを得ることができ、タイパ(タイムパフォーマンス)重視の傾向ですが、アナログ人間としては、寄り道の副産物があるからこそ「知ること」がたのしい。
それに、データよりも紙のほうが、経年劣化しないのです。
私の『岩波国語辞典』は、中学入学祝いに贈られたもの。
表紙は幾度かテープで修復済みというボロボロですが、今も愛用しています。
ここに載っている言葉ならば「一般的に使う言葉」と、勝手なマイルールもつくっていました。
最初に手にしたのが、岩波書店の辞書だったので、その紙質に馴染み、『広辞苑』や『岩波国語辞典』が手放せなくなったのかもしれませんね。
手許にあるいちばん古い『広辞苑』は第二版。
1969年刊行で、親が買ってくれたものです。
小学生に『広辞苑』とは、どういう教育方針だったのでしょう(笑)
第四版が1991年に刊行されるまで、私はずっと第二版を使っていました。
若い頃は暇な時に頁をパラパラ捲っては、気になる言葉にラインマーカーを引いたりしていたので、その目印が便利で、いまだにこの第二版を引くことが多いです。
本の多い家に生まれ育ち、父は「本を買う」といえば、お小遣いをくれました。
実際、本を買い、他のものに使ったことはないので、信用していたのでしょう。
母は少女時代の蔵書をすべて戦禍で失い、父も若い頃は高価な専門書を自由に買うことができなかったので、ふたりとも「本」に対する思いが深かったのかもしれません。
私は書店の空間も好きで、いちばん本を読んでいた30代は、神保町の古書店にもよく足を運びました。
新書を探すのは、東京堂書店。
銀座にあったイエナには、美術やデザイン関係の洋書を買いにいきました。
町の本屋さんの棚にはなかなか並ばないようなマイナーな出版社からは、手の込んだ新刊案内が届きました。
ネット書店ができる前でしたが、当時、クロネコブックサービスというのがあり、はがきで注文すれば、複数の出版社の本でも、まとめて自宅に配送してくれました。
このサービスは、インターネットが普及してからはメールで注文ができるようになり、現在では楽天ブックスに統合されています。
この時代は映画も、演劇も、よく見ました。
20代から30代に得た “知” と “感受性” の貯蓄で、今は生きています。
さすがに、社会人になってからは、自費で購入しましたよ。
お気楽な新人時代、そのために仕事をしている感もありました。
そういえば、学生時代でも、自分で買った辞書がありました。
『カラー図説 日本大歳時記』
季節ごとの分冊のほうが幾らか高かったので、分厚い一冊編集のものを買いました。
当時の私には高価な書物でした。
ふしぎですね。
その頃、俳句にはまったく興味がなく、17音の短い文学はいちばん遠いところにあると思っていました。
ただ、季語とその語釈には興味がありました。
あれから40年以上経ち、私が携わる文学は俳句になりました。
大きくて重たいこの歳時記を開く度、もう少し奮発して分冊のほうを買えばよかったと、悔やんでいます。
どれほどの人びとが関わり、どれほどの情熱がこめられてこの歳時記がつくられたのか…。
執筆者も錚々たる方ばかり。
そうしたことを考えれば、決して高いものではありません。
そのようなすばらしい辞書でも、今ではすっかり古書となり、古本屋さんでは千円前後で売られていて、ちょっと、せつないです。
前出の『岩波国語辞典』の奥付の余白には、ウィリアム・ブレイク(William Blake)の詩「Auguries of Innocence」の一節が、原語で走り書きされています。
高校生くらいの時に書いたのでしょうか。
自分の好みが、今もあまり変わらないことを知り、ちょっと愉快になりました。
「Auguries of Innocence」
To see a World in a Grain of Sand
And a Heaven in a Wild Flower
Hold Infinity in the palm of your hand
And Eternity in an hour
「無垢の予兆」
一粒の砂に世界を
一輪の野の花に天国を
てのひらに無限を
そして、ひと時のうちに永遠を見る
あらためて Zhan Zhan の「谷雨」や、Yiboくんの「『时尚芭莎』1月刊预告」の動画を眺めたくなりました。