彼らの歌を聴くうちに、その歌詞の世界観を、メロディやリズムにのる日本語で再現したいと思うようになりました。中国語は入門編レベル。個人で歌って愉しむための日本語訳。間違いが見つかりましても、笑って目を瞑っていただければ幸いです。
干支かまぼこ、初めて買ってみました。
兎年から辰年へ。白いうさぎと、ぼーちゃんカラーの緑の龍です。
小さなお椀は、三が日の神仏お供え用、黒塗りもあります。お餅は紅白ランダムに。
(実は、わんこも同じ器を使っています。もちろん、印をつけ、違う箱に入れて保管。メニューもわんこ用で別物です)
暦はすでに七草も過ぎ、お屠蘇気分も払拭。日常が始まっているのですが…。
お正月は何かと慌ただしく、自分の時間がとれるようになるのは、いつも今頃です。
本年も超マイペース更新のブログですが、どうぞよろしくお願いいたします。
お元日からの未曾有の大災害。胸が痛むことが続いております。
心から「おめでとう」とは言えない年明けになりました。
友人も被災しました。幸いご家族揃ってご無事。私もほっとしました。
自然は偉大ですね。うつくしく、雄大で、気高く、恐ろしく、激しい。
* * *
そうしたすべてを受け容れると、森羅万象を歌った Yiboくんの『旁观者 / 傍観者』。
湖南卫视跨年演唱会でのパフォーマンス、すばらしかった。
ものすごく私好みのステージでした。
なんとなく昨年の『像阳光那样 / 像陽光那様』に通じると思っていたら、同じ方の作曲でした。
作詞家は異なりますが、詩の世界観は似ています。
Yiboくん、『廿』から『像陽光那様』、そして、この『傍観者』。
偉大なる自然、森羅万象すべてに対する想い、輪廻転生の自然の営みの崇高さ、そうした中でちっぽけな人間の存在、でも、自分を信じ、ひたむきに生きる強さ、地道で懸命な人の生のうつくしさ、この世の生きとし生けるものの命の尊さを、慈しみ深く歌っています。(と、私は解釈しています。一案と思っていただければ幸いです)
大きな折鶴が登場したのも、日本人として、うれしかったです。
今は「平和を願う」ことの象徴として、世界で認められている折鶴ですが、日本のものですもの。
冒頭、端正なロングコートに身を包んで登場した途端、震えました。
シャンソンだと感じました。
胸の白い花は清楚。なのに華やか、という、圧倒的な存在感。
自分が望まなくても、どんな暗闇でも、静かに輝く。いかにも彼のイメージです。
そして、「願い」を、渾身で歌う。
その姿は、もはや演者ではなく、表現者でした。
曲のメロディやリズムに合わせるため、個人的解釈の意訳が含まれます。
メロディにのせながらお読みくださいましたら、とてもうれしいです。
* * *
「傍観」という言葉を広辞苑で引くと、「かたわらで見ること。そのことに関わらないで、傍(はた)で見ていること」とあります。
「傍観者」という言葉から浮かべるイメージも、一般的にあまりよいものではないかもしれません。
たとえば、「何もしないで見ている」「物事に立ち入らない」「責任をもたない」「高処の見物」「見て見ぬふり」といった感じでしょうか。
けれど、中国では「当局者迷 旁观者清」。そして、日本では「岡目八目(おかめはちもく)」という、ことわざがあります。(「傍目八目」とも書きます)
どちらも意味は、「当事者は正しく見極められないものだが、傍観者は正しく判断できる」。
ここから「傍観者」をイメージすれば、上記とは違ったものが浮かびます。
「成り行きを見守る」「独立した立場でいる」「他者に踏み込まず、存在を受け入れる」「常識にとらわれず自身の信じる道を貫く」「アウトサイダー」といった感じでしょうか。
それらのまなざしは冷たくはなく、慈愛に満ちている。
自分が傷つきたくなくて手を差しのべるのは易しいけれど、相手が自力で立ち上がるまで見守りつづけるのは胆力がいる。
これができる人を、「優しい」と言うのだと。
そうしたことまで連想させます。
「天」の視線はもっと冷たく、無慈悲で、時として不条理なものですが、その下で生きる「者」は、絶望や限界に打ちのめされながらも、希望を捜し、生きようとする。
だからこそ、愛おしい。
* * *
昨年の大晦日、Yiboくんの跨年晩会は、年が明けてからゆっくり拝見しましょう、と思っていました。
家族が紅白を見て(ほろ酔いでうつらうつらして)いる横で、私は所用があり、PC を広げていました。
用事を終え、jannさんがブログを更新されていらしたので伺いましたら、ふたつの跨年晩会のライヴ配信のリンクを貼ってくださっていました。
( jannさんのお写真セレクト、いつも素敵で、大好きです)
少し時間がありましたので、湖南卫视跨年演唱会を覗きました。
ちょうど Yiboくんが、大张伟さんとデュエットするところでした。
汪涵さんも映りました。汪涵さん、涙をぬぐっていらした…。
Yiboくんにとって、“絶対の味方” となってくださるおふたり。
Yiboくんとお仕事をした多くの年長者が、商品としてではなく、人として、彼をとてもだいじに扱ってくれます。
彼は思わず大切にしたくなるような存在なのでしょうね。
Yiboくんが、まだまだ道を探していた10代の頃から、そうした愛を注いでくださったおふたりは、格別な存在なのだと思います。
「天天向上」で国を代表するような、その道の専門家たちに接したことも、Yiboくんにとっては幸運でした。
人は、目にし、経験した以上のことを、なかなか想像できないと言われます。
あの番組でのさまざまな分野での貴重な体験、Yiboくんの「即学」、すべて糧になっているはず。
見ている私もとてもたのしかった。
毎週、毎週、番組の中で、演出ではない彼のちょっとした姿、人間性に触れるものを見出す度に、惹かれていきました。
そうした数々の番組シーンが駆け巡るように脳裡に浮かび、なんだか私まで目頭が熱くなりました。
一旦、PC は閉じましたが、そのままにして片づけず、イヤホンを準備。
年越し蕎麦をつくって、いただいて、片づけを終えれば、NHK も「ゆく年くる年」に。
家族の邪魔にならないようにイヤホンを装着し、再び開いた湖南卫视跨年演唱会の YouTube。
「このあと〇〇…」といった紹介で、Yiboくんのお写真が。
なんというタイミングでしょう。
そして、『傍観者』。
天天兄弟とのなごやかな Yiboくんを見たばかりでしたので、登場した時の衝撃はとても大きかったです。
あの驚くほど広い会場を、一瞬にして、王一博の世界に転変させました。
なんて素敵なロングコート姿。
瘦身に、端正な着こなし。
繰り広げられる渾身のパフォーマンス。
「見る」のは肉体の眼ではない。
「聴く」のは肉体の耳ではない。
魂で感受するのだと、身が震えました。
イヤホンで聞いていたので、外界を遮断し、より彼の世界に没頭できたのも幸いでした。
これが、2023年の王一博。
映画俳優としてデビューし、『長空之王』、『无名 / 無名』、『热烈 / 熱烈』と、三作に主演。
第36届中国电影金鸡奖最佳男配角にノミネート。
その他、数々の賞を受賞した2023年の王一博の集大成。
もちろん、プロデューサーや演出家もいるでしょう。作詞、作曲、振付も別の人です。
でも、作品の方向性は彼が決めていると感じます。
彼の存在や行為が、これらの世界観と微塵もかけ離れていないのですから。
わが事ではないのに、そうした充実感に満たされて、彼が居る地より1時間早く新年を迎えました。
もう一度(*˘︶˘*)
(こちらは歌唱後のご挨拶も♡)
2024年の Yiboくんは、どのような世界を見せてくれるのでしょう。
私が好きになる人は、皆、険しい道をゆきます。
让生命沉的穿过