彼らの歌を聴くうちに、その歌詞の世界観を、メロディやリズムにのる日本語で再現したいと思うようになりました。

中国語は入門編レベル。個人で歌って愉しむための日本語訳。間違いが見つかりましても、笑って目を瞑っていただければ幸いです。

曲のメロディやリズムに合わせるため、個人的解釈の意訳が含まれます。音源をお聞きになりながらお読みくださいましたら、とてもうれしいです。

 

 

 

Yiboくんの「2023東方衛視跨年」の『像阳光那样』のダンスから、ずっと抜け出せずにいました。

多くの方が事前に、コンテンポラリーダンスに挑戦することをご存じだったようですね。

私は情報には疎く、おじゃまするblogで教えていただくもので、いつも満足しています。(皆様いつもありがとうございます)

年末年始の慌ただしさで、どちらにもお伺いせず、何も知らないまま、彼のパフォーマンスを見たものですから、衝撃が強かったのかもしれません。

 

年明け最初に目にしたものが、このYiboくんの心洗われるダンスだったこと、とても幸せに思います。

 

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◆ 拙い訳です。無断での転載はご遠慮願います。  

 

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Yiboくんのパフォーマンスを見てから毎日、私の右脳には、くるくるひらひら舞う小さなYiboくんが棲みついてしまいました。

 

そこでは、歌声は歌詞ではなく心地よい音で、愛らしく幻想的な舞台美術と、Yiboくんのダンスが融合した、視覚的な世界が繰り返されます。

 

一方、左脳には、歌詞を言葉としてとらえようとする『像阳光那样』が流れていました。

 

初めに公開された歌声だけの『像阳光那样』で歌詞を見た時、森に棲むエルフが一本の広葉樹に恋をしたのかしら…と思いました。

 

私には、ひと目で正しく理解できるような語学力はありませんから、第一印象です。

パフォーマンスを見て、きちんと辞書を引いて理解したいと思いました。

 

人は右脳で文字をおぼえ、左脳で文字の意味を理解する、と言われます。

多少どちらかに偏りがあっても、右脳と左脳はバランスよく働くものですのに、この10日余り、くるくるひらひらミニYiboくんと、哲学的な詩の世界の言葉が、相容れず、ねじれの位置にありました。

 

どちらかと言えば、私は「目のひと」で、右脳が強い(というか左脳が弱い)ほうです。

仕事や家事や人との対応など、何かをしている時には、もちろんそちらに専念していますが、そうではない時間、ふと気づくと、脳裡でYiboくんが踊っている…という状態でした。

 

空間芸術のひとつである舞台美術は、舞台空間のデザインや仕掛けだけでは完成しません。

その空間で、俳優やダンサーが演じることで完成する、瞬間芸術です。

 

Yiboくんのパフォーマンスは、彼個人の芸術作品であると同時に、彼の歌とダンス、楽曲、歌詞、舞台デザイン、諸々すべてを融合した総合芸術なのです。

 

この総合芸術作品を、私の右脳は今ひとつ把握しきれず、左脳に送り届けられなかった。

そのため、ミニYiboくんも留まったままでした。

 

生活に支障はないので、このまま溺れていてもよかったのですが、何かもどかしく、その原因が何なのかもわかりません。

なにしろ右脳のことなので、理論的に説明がつきません。

(人間の脳のことは科学的な知識があるわけではなく、思いっきり、私的なイメージで語っております)

 

一昨日、いつもおじゃまするblogで、この舞台美術にストーリーがあることを知りました。

デザインを手がけたKINOi杨骞工作室の舞台美術の動画もリンクしてくださり、こちらを見て、ようやく、霧が晴れました。

 

 

 

 

やっと、左脳に送り出せる、という感じでしょうか。

このような感覚、共有できる方がいらっしゃるかどうかわかりませんが…。

 

Yiboくん自身も、そして、彼のお仕事も、次々と新しいものが出ていますのに、私はいつもあきれるほどマイペース。

さすがに、羞恥の念にかられました。

 

折も折、昨日、『像阳光那样』の振付から舞台リハーサル、そして、本舞台までのメイキング動画がアップされました。

 

その動画を見て、この日まで、どっぷり浸かっていてよかったと、心の底から思いました。

何回も、何回も、ダンスの動画を繰り返し見て、何枚も、何枚も、いろいろな方がおさめた静止画像をスクショして、この目に焼きつけ、右脳で感じとっていたことに値する、否、それでも足りないくらいの尊さに満ちていたからです。

 

 

 

 

うわさ通り、振付のレッスンは4回だったのですね。

そして、舞台上でのリハーサルが2回。

さすが、プロフェッショナルです。

 

実は、私はストリートダンスよりもコンテンポラリーダンスのほうが、ずっと身近でした。

Yiboくんを知るまで、ストリートダンスはほとんど見たことがなかったのです。

 

まだまだ、バレエといえばクラシックという時代、新しいモノ好きの母にモダンバレエのお教室に連れていかれました。

モダンバレエというジャンルがあることも、さほど知られていない頃です。このジャンルは、後にコンテンポラリーダンスの起源と言われるようになりました。

 

とにかく厳しい先生でした。

今、思い返すと20代前半の若さで、個人でお教室をもっていました。

有名なクラシックバレエ団を飛び出したという方だけあって、強い信念があり、ダンスの技術云々以前に、演者、表現者としての心構えを叩き込まれました。

 

当時、私は3歳。でも、園児だろうと成人だろうと、まったく関係なく真摯に対峙する方でした。

私が最初に触れた芸術家が、そういう人であったことは、とても恵まれたことです。

 

ふしぎですが、私の人生には、こうした才能豊かなアマゾネスとの出会いが多くあります。

そして、お稽古事の中で、十数年続いたのも、やめて後悔したのも、このバレエだけです。

 

型を持たない、純粋な身体表現であるコンテンポラリーダンスは、動きが自由で多様です。

それ故、入口は広くても、極めることがとても難しい。

身体表現だけでなく、その根源にある魂の在り方が、ダイレクトに表れるところが魅力です。

そのマインドを正しく表現するには、スキルが伴わなくてはなりません。

 

それは地道な努力の積み重ね。

ダンスにかぎったことではありませんが、ほんとうに有能な人は、類まれな才能があってあたりまえ。類まれな努力を厭わぬ謙虚で真摯な人と感じます。

 

何でも(お料理以外)速学のYiboくんを幾度も見てきましたが、そうした彼でも、初挑戦のコンテンポラリーダンスは簡単ではなかったようですね。

 

振付の陈梓豪先生の模範演技も動画で見ました。もちろん、技術的な差は明らかです。(スタジオを猫が駆け抜けていったのも興味深かったです)

それでも、Yiboくんのダンスの完成度は、とても高かった。

 

伸びやかに、しなやかに、大らかに、身体の隅々まで神経をめぐらせて、心あたたまる再生の物語を、清らかに演じました。

今までのお仕事で培った表現力は、一流のダンサー以上のもの。これはファンの欲目ではないでしょう。

 

才能をうわまわる努力。なんて神々しいのでしょう。

彼はいつも、私たちの期待の遥か上の結果を見せてくれます。

これは、とても倖せなこと。

 

長く生きて、うらやむような才能がありながら、開花できない人を数多く見てきました。

能力が高ければ高いほど、それを担う精神力も高くなくてはならない。

Yiboくんの全身全霊のパフォーマンスは、見る者の魂をも浄化してくれるようです。

そして、とてもあたたかい。

 

この温もりは、彼のダンスで、初めて見たもの。

それだけ彼が勁(つよ)くなったのかもしれません。

 

さて、ようやく左脳へシフトでき、歌詞を日本語にしました。

やさしいメロディに乗り、Yiboくんのやわらかな声で慈しむように歌われる言葉。

とても癒されます。

春を待つ、とてもうつくしく、繊細な歌詞の世界を、少しでも再現できていれば幸いです。