春日真木子先生、春日いづみ先生に小森さんの思い出をインタビューをした「月刊視覚障害」12月号が刊行されました。
なかなかお手に取りにくい本だと思うのですが、ネット注文ができますのでぜひ。
http://www.siencenter.or.jp/magazine/index.html

 

特別企画 見えないからこそ詠める歌を―全盲の歌人 小森美恵子―
第2回 座談会「小森美恵子 視覚を越えた歌の世界」

 

大正時代に岐阜県で生まれ、10代で失明した小森美恵子さん。
失明後の失意のなか、恩師であった松田常憲から
「目あきにはできない歌を詠むのです」と言われ、視覚障がいだからこその表現世界を切り開いていきます。

「茂吉にも晶子にも詠めなかった 「盲しいの歌」 をつくろうと思ったとき、盲目に生きることに誇りすら感じたのです。 私の本当の歌つくりはこうしてはじまりました。」
小森さんのスタート、そして第2回角川短歌30首競詠や第1回水甕賞での活躍。
春日真木子先生、いづみ先生から語られる小森さんの姿に胸を打たれるる内容です。

歴史に埋もれかけている小森さんの人と作品を知っていただけたら嬉しいです。
真木子先生、いづみ先生、たくさんの資料と貴重なお話、ありがとうございました!

第49回全国視覚障害者文芸大会の作品集が届きました。

短歌部門のページには池田はるみ先生と、黒岩剛仁先輩、そして私の選が掲載されています。

詳細は日本点字図書館にお問い合わせいただきたいのですが、私が選んだ作品を少しご紹介します。

 

・体育座りの子らの真顔を想像しゆっくり語るわれの来し方

 埜村和美

 

作者の視点から見た講演の場面を表現した一首。初句は字余り。その字余りが子どもたちの集中や、講演が始まる前の空気感を伝えています。

作者の深い洞察力、感受性の豊かさが伝わってくる力強い歌です。

 

 

・白杖を折られし友の悲しみをそっと見ていた点字ブロック

 大井田弘子

 

白杖を折られた友人の想い悔しさに、点字ブロックが寄り添っていると描いた一首。声高に悔しさを訴えるのではなく、擬人法を用いて物語を紡ぎ出している。この表現に至るまで、どれほどの悔しさが作者の中に渦巻いただろう。

悔しさを深化し短歌に昇華した作者に敬意を感じながら、読ませていただきました。

 

 

・雨音が歩く方向狂わせる傘高く上げ信号を聞く

 竹内昌彦

 

雨の音が周囲の音を混乱させ、作者が進むべき方向を見失なわせてしまう情景。恐ろしさを伴って聴覚がより鋭く描かれます。

しかしそれでも、作者は傘を高くあげ前進します。日常の中の勇気が伝わってきました。

 

 

・白杖の先がすりへり亡き夫の少し長めの杖と歩きぬ

 越智サカエ

 

亡き夫の輪郭が見えるような一首。

男性用の少し長めの白杖の手触りを通じて、亡き夫とのつながりや、夫も視覚障がい者だった背景などがじんわりと伝わってきます。

 

 

・境界線何もないけどここからは郷の潮の香心もふわり

 田上美智子

 

視覚的な境界を超えて感じることができる世界。土地によって感じられる香りが心にふわりと広がります。

田村さん、歌が上手くて毎年選んでしまう。

 

 

その他の作品は、日本点字図書館等で読むことができます。

はるみ先生や黒岩さんが選んだ作品も是非お読み下さい。

 

全国視覚障害者文芸大会には短歌以外にも俳句、川柳、随筆部門があります。
http://nichimou.org/activities/literature/
文字表現は視覚障がいと相性の良い分野の一つだと思っております。
ご周囲に、広げていただけたら嬉しいです。

 

・炎の音を告げつつ落葉燃ゆれども血潮静めて生きねばならぬ
 小森美恵子遺歌集『炎のおと』

 

月刊 『視覚障害』 2023年11月号(第426号)に

「見えないからこそ詠める歌を ―全盲の歌人 小森美恵子―
 第1回 炎の歌―視覚を失った小森美恵子が詠み続けたもの」

を寄稿しました。
17歳で失明し、その後全盲を詠むことで茂吉や晶子に挑んだ小森さんの作品を紹介しています。「月刊視覚障害」、お手に取っていただき小森さんの短歌を知っていただけたら嬉しいです。
ここでは「月刊視覚障害」で紹介できなかった小森さんの歌を何首か紹介します。

・リズミカルな歩道の足音に唇かみて牽かるる吾ははや後れたり
 小森美恵子『炎のおと』

 

視覚障碍者の立場から感じる微妙な感覚を描いた一首です。「リズミカルな歩道の足音」とは、周囲の人々の軽やかな歩み。そんな情景に感じるのは「唇をかんで」「はや後れ」てしまう自身の力みや遅れです。微妙な感情や孤立感を率直に綴り、人と人との関係性を想像させます。一方で、社会的な課題も垣間見せてくれるように思います。

 

 

・気張りきし盲の吾が哀れなり山鳩にぶく鳴き居れば更に

 

同じく「孤独の世界」からの一首です。作者の日常に潜む緊張や不安が、山鳩のゆっくりとした鳴き声と対比されて鮮明に描かれています。この連作の中には《親しき街にも盲ひし今は叛かれむぶつかるごとくクラクションがせまる》という歌もあり、住み慣れた街でも安心して過ごせていない現実が伝わってきます。
晴眼者であれば気を張る必要などまるでないのどかな状況なのでしょう。山鳩の穏やかな声が一時的な安堵や解放感をもたらしながら、小森さんの「哀れ」という自認を際立たせます。

 

 

・罪に得し盲ならぬに何故ぞ戸口調査が来ればおびえき

 

上の句「罪に得し盲ならぬに何故ぞ」に描かれているのは深い自問と負の感情。そして下の句では「戸口調査が来ればおびえき」と具体的な状況を示し、作者の感じている社会的プレッシャーと不安、自虐的な感覚を伝えます。

この歌は昭和34年に刊行された小森さんの第一歌集『冬の花』の中の一首です。『冬の花』は小森さんの作品を高く評価した岐阜県の盲学校文芸クラブによって刊行されました。刊行に携わった歌人であり岐阜県立盲学校教諭でもあった赤座憲久は小森さんの歌を高く評価し「小森短歌の独創性は自虐的な要素に絡むところにあります」と評しました。障碍を受け入れ、表現の可能性を模索したからこそできる表現なのだと私は読みました。

 


・白き蝶が汝れにとまると言ふ時に母はこよなくやさしき声す

 

母親との特別な瞬間を描いた一首です。
「白き蝶が汝れにとまると云ふ時に」と、自分では見ることができない故に母親の言葉を通じて美しい情景を感じ取っています。母子間の特別な絆を美しく描き出しています。「こよなくやさしき声」はかなり大掴みな言葉。概念としての母の優しさや温かさも表したかったのかもしれません。

 

 

・恋文書く妹の前に盲ゐて妬まぬこの夜の吾を信じたし

 

強い自己認識と誇りを示している一首です。恋を謳歌する妹と恋を秘めた自分。下の句では羨望や嫉妬から自由になりたい、妬み嫉みを感じない強い自分の誠実さと誇りを信じたい、と記しています。それは簡単なことではありません。我を信じられるだろうか、という反語的なニュアンスもあるのでしょう。

小森さんは生涯独身で過ごされました。短歌を残すことに心血を注がれ、作品という形で自分を遺されたのだと私は想像しているのですが、歌集には葛藤する相聞歌があります。

 


・日点の所在を知りてたとうれば恋するごとく日々ときめけり

・たしかにも「万葉集」とありしなりおよび(指)ふるえてふたたび読めば

 

最後は日本点字図書館第一回読書感想文コンクールの中に記された短歌。日点(日本点字図書館)への想いを詠んでいます。一首目は日点の存在を知り、「恋するごとく」心をときめかせています。短歌に生涯を捧げた小森さんです。自分で本を読める可能性を知った瞬間の喜びは想像に余ります。自分の心の動きを情熱的な言葉で描いています。

二首目は「万葉集」と打たれた点字に触れた感動が、ふるえる指を通じて感じられる歌。「ふたたび読めば」とあるので点字を読み直したのでしょう。感動の震えが伝わってきます。


小森さんの名前や短歌は、現在の歌壇でも視覚障がいの分野でもほとんど知られていません。残念だなぁと思っています。そんな事を話していたら「月刊視覚障害」様が連続企画を組んでくださりました。
月刊視覚障害2023年12月号では小森さんが所属していた「水甕」の春日真木子先生、春日いづみ先生に小森さんの思い出をインタビューしてきます。

 

・一声は花も紅葉もよそに聞くわがため漏らせ山ほととぎす

 塙保己一『松山集』

 

(意味:花の美しさや紅葉の色と無関係である私のために、ホトトギスよ一声聴かせておくれ)

7歳で視力を失い、針やあん摩を習うもうまくいかず、自殺未遂すらしたものの、その後勉学に励んで頭角を現し、幕府からの仕事で諸大名や寺社、公家の家を回って散逸した資料を編纂し、歴史学や国文学の基礎を作った塙保己一。

仕事で立ち寄った本庄市に塙保己一の像や、生誕の地の看板があってテンションが上りました。

塙保己一、業績の影に隠れてしまいますが短歌も素敵なんです。歌碑建てて欲しいな。

立像がある駅前では学生が路上コンサートの練習をしていて、保己一像が楽しんでいました。

 

*追記 塙保己一墓碑には

・言の葉のおよばぬ身には目に見ぬもなかなかよしや雪のふじのね

の一首が記されているそうです。

 

 

 

写真:Wikipediaより


 

・音にのみ聞きしばかりにめぐり来て名高き月のかげにやどれる

 作者不明

 

 江戸時代中期の歌人、石塚倉子の家に泊まった瞽女さんが詠んだとされている一首。

歌意は、

「かねてから、石塚倉子の事を風雅な方であると聞いていたので、そこかしこめぐったついでにお尋ねして、折しも名月の頃を、泊めてていただいた。」というもの。

石塚倉子の家を「名高き月のかげ」に例えている部分は敬意の意味と、ただ泊まる場所でなくて心の拠りどころ、精神的な「光」を感じさせる場所でもあることを強調した表現なのでしょう。

瞽女さんがどのように文化的な人々と交流していたかを垣間見せてくれる歴史的意義もある一首です。

有名歌人を訪ね、歌を交わして、つながっていた。江戸時代の空気感や、人をつなげる文化や芸術のちからがなんとなく伝わってきます。

男性の視覚障碍者団体当道座に所属していた人たちの短歌は非常に多く残っているのですが、家が単位となっていた瞽女さんの短歌はほとんど残っていません。そんな現状からは視覚障碍者の短歌を残す人間の大切さも伝わってきます。

 

 

 

2022年夏にNHK第2の視覚障害ナビ・ラジオに出演し、「戦盲歌」について紹介させてもらいました。

その内容がNHKのハートネットTVのアーカイブになりました。

 

 


https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/717/

太平洋戦争末期に刊行され、戦後はほとんど無かった事にされてしまった『戦盲』や『心眼』の作品をメディアが取り上げてくださるのはとても嬉しいです。前線で負傷し視覚障がいとなった傷痍軍人たちの名前、作品に込めた思いが、広く読まれますように。

番組の証言音声で、

・上見れば及ばんことの多かりきかさ着て暮らせおのが心に
・下見れば我に勝れるものもなしかさ取りて見よ空の高きを


という歌が紹介されました。
戦争で左目を、その後のシベリアでの強制労働で右目を失明した東北出身の方が詠んだ作品だそうです。

盲僧だったと言い伝えられている蝉丸の

 

・世の中はとてもかくても同じこと宮も藁屋も果てしなければ

 

と近い抒情のように思いました。見えないことを受け入れて生活される中で、蝉丸と一緒の視点に立たれたのだなぁと。

 

失明の闇の中で、自分と向き合った人々の作品と名前を、広く長く残していきたいと思っています。戦争を知らない私がきちんと読めていない部分も多くあるのだろうと思っています。お気づきの点はご指摘ご教授頂けたら嬉しいです。

 

また、『戦盲』のいくつかの短歌には曲がついています。戦中の書店で偶然『戦盲』を手にした越谷達之助は、兵士たちの作品に感銘を受け曲をつけ、空襲の下をその楽譜だけを抱いて逃げたそうです。晩年、自分の遺言代わりに、平和の大切さを伝えるために、と楽譜を販売しコンサートを開催しています。
命がけで守った幻の楽譜は越谷達之助記念会が復刻販売しています。歌手の方、コンサートや、平和の為のイベントを企画されている方、お手にとっていただけたら嬉しいです。

 

前回書いた「当道座」では盲人に対して読書、書道、算数、音楽、礼儀作法など、さまざまな教育や訓練が行われました。

これらによって、当時の視覚障碍者たちは手に職を得て自活できるようになってゆきます。
当道座に属した人々の短歌も非常に多く残っており、そこからも当道座がしっかりとした団体であった事がうかがえます。

江戸時代の植山検校江民軒梅之が、多くの検校勾当(当道座のトップ)の短歌を集めた『謌林尾花末』(かりんおばながすえ)という書物を編集しています。その中から視覚障碍に関わる短歌を紹介していきます。

 

・東路(あづまぢ)の瀬田の長橋叉ぞふむみじかき老の世をわたるとて
 板津検校『謌林尾花末』

 

江戸時代に失明した盲人である板津検校の短歌です。
「東路」とは、東国(関東)への道のこと。
「瀬田の長橋」は琵琶湖の東岸に架かる橋で、東海道の五十三次の一つです。
結句の「わたる」は橋の縁語。橋を渡る事と、過ぎ去った時間の流れや自身の運命が重なっています。

一首の意味は「老い先短いこの生で、東海道の瀬田の長橋を2度も踏んでゆくのだなぁ」という内容です。江戸時代の旅は現代に比べて非常に困難なものでした。道に迷ったり、風雨や山賊に襲われることがありました。盲目の身でそれを二度も経験することはより困難だったことでしょう。

 

しかし作者はそんな困難にもめげずに、人生の残りのわずかな時間の中で再び東国へ下ることを決意しています。
そこには「何かを成し遂げたい」という気持ちがあったからなのでしょう。様々な困難や運命を受け入れて、瀬田の長橋を、そして人生を渡って進んでゆく。歌に遺された作者の姿は、困難に立ち向かう勇気を読者に示してくれます。

蝉丸の平安時代から、歴史は鎌倉時代を経て室町時代へと進みます。

盲人の中から、「平家物語」などの合戦譚を琵琶伴奏で語る僧侶が登場しました。

この芸能は「平曲」と呼ばれ、武家社会から受け入れられ、さらには室町幕府によって庇護されることとなります。

そしてやがて、平曲を奏でるこれらの芸能僧侶たちは宗教組織から独立し、自治的な職能集団として「当道」を結成します。

この「当道」を組織化したのは明石覚一(あかし・かくいち)。文献上では「最初の検校(当道座の最高位)」として現れます。

 

そんな明石覚一の短歌を紹介します。

 

・夜の雨の窓をうつにも砕くれば心はもろきものにぞありける  明石覚一

 

この歌の意味は

「夜の雨が窓を打つ音にも心は驚かされてしまう。

 人間の心とは、なんと脆いものであろうか。」

という内容です。

 

この短歌を読むと、窓を打ち付ける雨の音が音が心を砕くほどに強く感じられます。

それは視覚に依存しない全盲の人だからこその音の感じ方、音の影響の深さなのでしょう。

 

しかし、この歌は全盲の人の心象だけを描いているのではありません。

我々は何かあるとすぐに驚いたり騒いだりしてしまう。そんな人間の心の脆さへの深い洞察を示しています。

 

雨は人間の心の弱さを象徴しているのかもしれません。

そして、心はその脆さゆえの美しいのかもしれません。

 

普遍的な心の姿が雨とともに描かれた美しい一首だと私は読みました。

 

明石覚一は平曲の普及に大きく貢献し、平曲の黄金期を築きます。また当道の組織化により、盲人芸能者の地位向上に貢献しました。

作品も功績も、今もなお多くの人々に語り継がれている人物です。

それでは視覚障がいの方の短歌を紹介します。
実は、視覚障がいと短歌には深〜い関係があります。
現存するわが国最古の歌集「万葉集」が成立したのは奈良時代末期。

その次の平安時代末期から鎌倉時代はじめに出来たと言われる「百人一首」には、既に視覚障がいの方の短歌が収録されています。

 

これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関  蝉丸

 

百人一首に載っているのでこの歌をご存知の方も多いと思います。
一首の意味は

 

「知っている人も知らない人も、
 出て行く人も帰ってくる人も別れてはまた逢い、
 逢ってはまた別れる。
 これがその逢坂の関である。」

 

という感じ。
会えば必ず別れがあり、別れてはまた出会いがある。
人生のようで、無常感が伝わってくる短歌です。

 

作者の蝉丸は伝説的な人物で、出生や家系図等ははっきりとは分かっていないんですが、全盲で、琵琶の名手だったと今昔物語や能で描かれている人物です。

もう一首、蝉丸にはこんな歌もあります。

 

世の中はとてもかくても同じこと宮も藁屋(わらや)も果てしなければ

 

短歌の意味は

 

「生き方の上を見れば立派な宮殿に住む人生、
 下を見ればかやぶきの小屋で過ごす人生がある。
 どのような生活をしても過ごそうとも、そこに限りはない。」

 

という感じ。
伝説に残るくらいの琴の名手であっても、豪邸に住もうが藁の家に住もうが気にしない。世間の価値観ではなく、自らの音楽という価値観に生きた生涯が伝わってきます。

歌に記された蝉丸の精神に魅了されます。どんな人物だったんでしょうか。
今までは漠然と想像を巡らせるだけでしたが、全盲の義父や、視覚障がいの方や、パラアスリートの皆さんと関わるようになった今の私には、蝉丸の輪郭がわりとくっきりと想像でできるような気がします。


このブログでは、視覚障がいの世界を詠んだ短歌を紹介していきます。

私は結婚し、全盲の義父を得たことを切っ掛けに視覚障がいというテーマに関わり始めました。そしてパラアスリートが作った短歌に胸を打たれ様々な背景を持つ方に勧める活動を始めました。

視覚障がいの方が表現する世界には、彼らだけが感じている手触りや音、心やメッセージが詰まっています。その視点と深みは、新たな発見と感動をもたらしてくれます。

視覚障がいの方が詠んだ短歌の歴史を調べてゆくと、百人一首の蝉丸まで遡ることが出来ます。その後も琵琶法師や瞽女さん、晩年に失明した北原白秋、幼い頃から病弱だった岡本太郎のお母さん、戦争で失明した兵士たちなど、多くの方々が視覚障がいの世界を短歌に詠んできました。

この系譜と、視覚障がいのある人々が生み出す短歌の魅力をもっと多くの人に知ってもらいたいと思い、このブログを始めることにしました。

自分が胸打たれた短歌を紹介したいというのが一番の目的ですが、書き足して行って

 

・視覚障がいの方の短歌作りのヒント

・視覚障がいの短歌は百人一首の時代からあって現代の視覚障害文芸大会や歌集、パラアスリートの作品まで脈々と系譜が続いているんだ、という全体像の提示

・視覚障害者の地位向上の一助

 

になったらいいなと思っております。