フィレンツェの市庁舎と自らの思考を否定する若者
私はフィレンツェの市庁舎で結婚式を挙げた。
ヴェッキオ宮殿だ。
遠い昔、私はフィレンツェにいたような気がする。
(でもそんなことはどうでもいい。)
結婚式を挙げた後、フィレンツェ市民のバッチを貰った。
この地球では、ルネッサンス以前は、市民は自分の頭で考えることができなかった。
教会の権威とスコラ学が言っていることだけが正しかった。
それが、ルネッサンス以降、個人は自分の頭でものごとを考えることができるようになった。
思考する個人が、神の威を借りた教会のドグマに勝るようになった。
思考することは大切である。
何が真であるか、個人は万人に備わった良心と理性によって、自ら考えることができる。
ところが、1960年代以降、西洋文明の最終地であるアメリカの若者たちが、自らの思考を否定し始めた。
インド哲学の影響だ。
宇宙意識と一体になるためには、思考を捨てなければならない。
あなたはエゴだ。
エゴを捨てなければあなたは悟ることができない。
悟るとは真理に目覚めること。
エゴであるあなたは、偽りの世界にいることに気づいていない。
あなたは、思考の奴隷になっている。
つまり、〈わたし〉というエゴは、脳の思考に操られているロボットであるにすぎない。
というわけだ。
そうやって、アメリカに辿り着いた西洋近代思想の若者たちは、“瞑想”を始めた。
思考を断ち切り、自ら考えることをやめて、一瞬で到達できる悟りを求めて、目をつぶり、感覚を閉ざして、自らを否定し始めた。
その後、自ら考えることを辞めた若者たちはどこに行ったのか?
ルネッサンス発祥の地、フィレンツェで考えた。
フィレンツェの市庁舎とは、市民が自ら考えて民主的な政治を行うことのできる自由の象徴でもある。
ところが日本の市庁舎はどうだろうか?
戦後の日本、民主主義をアメリカからほぼ強制的に押し付けられて建てられた市庁舎。
市民自らが、革命によって勝ち取った民主主義ではなく、アメリカの占領軍の総司令官という“権威”によって与えられた日本の民主主義と地方自治。
そしてその象徴である市庁舎。
そこには、なんの精神性もない。
ただの堅苦しい“規則”があるだけだ。
アメリカは戦後、若者達が“権威”に対抗して立ち上がった。
ベトナム戦争に反対して、反戦平和、Love & Peace を叫んで髪を伸ばし、歌を歌って…、
そして、瞑想し始めた。
自らのエゴを否定するために。
自らの思考を否定した若者たちは、その後、どうなったのだろうか?