夢、命を救うことと、芸術に殉教すること
昨日見た夢
前後関係が解らなくなってしまったのだが、つまりどっちを先に見て、どっちを後に見たのか曖昧になってしまったのだが、2つの場面があった。
僕は言葉の通じない、どこか外国の女の子の命を助ける。女の子はまだ背も低く、まるでお人形さんのように髪の毛を両肩に垂らしている。ちょっと浅黒い肌のインド人か、アラブ人か、アフリカ人かの混血のようだ。
なにか戦争のようなことをやっていて、殺されるところを、僕が救った。そして、まるで小さなお人形さんを抱っこするようにその子を抱いて、走って安全な場所に逃げている。そして、走りながら、きみを助けたのは、○○××(紫源二の本名)だと何度も何度も告げている。その女の子を助けたことが、僕の犯した罪の償いになったと感じている。だから、僕は堂々と自分の名を名乗ることができるようになった。そして、誰よりも、その女の子に、僕の名前を覚えてほしい。そう思って何度も自分の名前を言い聞かせている。
もう一つの場面には、怪物が登場する。
人間の形をしているが、人間よりも三倍くらいおおきな生き物が、怒り狂ったように暴れている。広場で何かを振りまわしている。こんな怪物を見るのは初めてなので、とても珍しいことが起きているもんだなあと、関心している。でも、その怪物は明らかに感情的に大荒れで、なにかその怒りを爆発させるように暴れているのだ。そして、なぜかそれは三島由紀夫であることがわかった。
以上、なんの意味もないような、面白くもなんともない夢だったが、自分の名前を名乗れるのは、とても名誉なことなのだと感じた。僕は、未だかつて、自分の名前を堂々と名乗るだけの何事もしていないから、自分の名を名乗ることが恥ずかしいのだが、誰かの命を救ったとしたら、その人には自分の名前を覚えておいて欲しいだろうと思うだろうと思った。
三島由紀夫が出てきたのは、ドナルド・キーンが日本人になったというTVのドキュメンタリーを見ていたせいかもしれない。ドナルド・キーンが三島と映っている写真がとても印象的だった。あのような天才が僕がまだ幼かったときに、この日本で共存していたと思うと不思議だ。彼と話をしたら、どんな話になるのだろう。マッチョな話になるのか、政治的話になるのか、それとも精神的スピリチュアルな話になるのか、それとも美学の話になるのか。
その三島が、あまりにも偉大だから、三倍も大きな人間として夢の中に登場したのだろう。そして、彼は怒り狂っていた。文字通り怪物のように辺り一面にあるものを投げ散らかして暴れていた。僕にはこの怪物の胸の内が見えた。悲しくて暴れているのだ。なにが悲しいのか。それは、だれも美を知らない、知ろうとしない、求めない、求めようともしない。そのことに怒っているのだ。「きみも美を探究しろよ。そうして、きみも美しくなれよ。」まるで自分が認める美が、誰にも理解されていないような、それでいて、自分が書いた美を、自分が体現し、あるいは、演じなければならないような。最後は死の美学を自分で演じて見せた。ある意味で狂気かもしれないが、文学とか藝術っていうのは、はじめっから狂気であるし、宗教も思想も、本気であればあるほど、気ちがい沙汰に感じられるものだ。
でも、人間はそこまでいかないと満足しない動物なのだ。ある意味で狂気のように見えるほど純粋に一途になること。純粋になって、さらに純粋になって、純粋になり切ったとき、その純粋さは世間では狂気に見える。一途で純粋なこと。これを藝術において行おうとしたときに、その表現はある種の狂気的な熱を帯びてくる。他人はその熱を異常だと感じる。まるで熱にうかされているような。尋常でないものがとり憑いているような。でも、藝術家は、純粋に藝術に没頭すればするほど、尋常でないものごとに殉教することに憧れをいだくようになる。
散文はどんなに美しくても意味の限界があるが、詩には言葉の意味すら限界にならない尋常では意味しない意味が立ち上がる。文学に殉教することは、自分が書いた藝術の化身であるプロトタイプを自らが演じ、芸術そのものになってみる。自らがそのもになるのではなく、役を演じてみること。実人生を演劇の舞台とみなして、美に殉教したマッチョを演じてみた。それを書いて創造した創造者である自分が自らその創造した人間になり切ってみる。それが彼にとっては美しいことだったからに違いない。
自分の役を自らよく理解して、その役を実生活の中で演じてみる。自分とは誰であるかを演じる。しかも、できるだけ上手に、巧みに演じることができたら、それはひとつの美しい物語になるだろう。でもそれは、私の物語ではない。私が演じた物語に過ぎない。
しかし同時に、演じることに純粋になればなるほど、ある種の真実味を帯びてくる。その一途さは狂気のように見える。狂気とは、純粋性であり、最小公約数で約分できない素数であり、常識的な意味を破壊するものだ。そこに、まったく新しい意味が立ち上がってくるのを感じることが出来るとき、過去の言語で語られた何物にも比較できない。オリジナルであり、個人言語であるが故に、他の誰も、それを100%は理解できないものだ。ただ、感じることはできる。そして、その感じは、きっとあなたの感じているものと私の感じたものは同じであろうと信じることができるもの。照明はできないが、信じることができるもの。ただ感じて確信できれば、数学的に証明する必要も、論理的に証明する必要もなくなる。
話が脱線してしまったが、そもそも夢の話など、他人に伝わるはずがないし、そこで感じた雰囲気などは、言葉ではとても表わせそうにない。けれども、あの夢の不思議な感じというのは、誰でも経験したことがあるし、言葉である程度通じるものだ。それが、僕が語った夢のイメージと、あなたが受け取った僕が見た夢のイメージが同じものであると証明されなくても、また、それが科学的に違うものであると証明されたとしても、それはそれで、価値あることだと僕は思う。
結局、芸術が何を表現しているかなんて、そもそも言葉で語り尽くせそうにないものだから。
それが芸術という範疇に入るものならば、それはある種、夢の中で起きることに少し似ているに違いない。