先週の日曜日に続いて、村上春樹の不思議な短編

『かえるくん、東京を救う』を

読み進めてみたいと思います

(12月2日付『鸚鵡の影』参照

https://ameblo.jp/hoshitsuru/entry-12423093974.html)。

 

村上春樹という作家の作品の指向性は

デビュー時と現在とでは明らかに異なっています。

その転換点となったのは、

これまでにこのブログで何回も書いてきたように

小説作品でいうと2009年に発表された『1Q84』

(「BOOK3」のみ2010年発表)だと思うのですが、

その『1Q84』という小説の母体となっているのは

『アンダーグラウンド』(1997年発表)と

『約束された場所で』(1998年発表)という

二つのノンフィクション作品であろうとも思います。

前者は1995年に起こった地下鉄サリン事件の際に

サリンが撒かれた地下鉄に乗り合わせた人々の、

後者はその事件を引き起こしたオウム真理教の

信者や元信者のインタビュー集です。

この二作を執筆するなかで村上春樹という作家は

オウム真理教という存在と接触することになりました。

その接触の手触りは

いわば棘に触れた瞬間のそれのように

強く作家の深奥に刻印されたのだろうと思われます。

 

完全に囲われた場所に人を誘い込んで、その中で徹底的に洗脳して、そのあげくに不特定多数を殺させる。あそこで機能しているのは、最悪の形を取った邪悪な物語です。そういう回路が閉鎖された悪意の物語ではなく、もっと広い開放的な物語を作家はつくっていかなくちゃいけない。囲い込んで何かを搾り取るようなものじゃなくて、お互いを受け入れ、与え合うような状況を世界に向けて提示し、提案していかなくちゃいけない。僕は『アンダーグラウンド』の取材をしていて、とても強くそう思いました。肌身に浸みてそう思った。

 

以前にも引用した文章ですが

(11月25日付『信じる力が宿る場所』参照

https://ameblo.jp/hoshitsuru/entry-12421548165.html?frm=theme)、

2017年に刊行された

『みみずくは黄昏に飛びたつ』の中で

村上春樹が述べた言葉です。

オウム真理教という存在を

問い直す中で生まれた

この「つくっていかなくちゃいけない」という

一種の使命感が最初に結実したのが

『1Q84』だったといえるでしょう。

そしてこれを裏打ちするかのように

『1Q84』と『騎士団長殺し』では

“悪意の物語と対峙する”というテーマを

鮮明に浮かび上がらせています。

 

 

ここで注目されるのは、

『アンダーグラウンド』と『約束された場所で』という

二つのノンフィクション作品から

『1Q84』までの間に、

10年の月日が存在していること。

「とても強くそう思いました」という割には、

その動機に基づくと思われる小説の執筆までに

10年もの時間がかかっているわけです。

いったいこれはどういうことか。

その答えと思われる事情についても

村上春樹自身の言及があります。

 

いつかもっとずっと先に、この仕事で得たものが、僕自身の遺跡として(あるいは)出てくるかもしれません。でもそれはほんとうに先のことです。僕はこの本の取材をとおして、人生を大きく変えられてしまった人々の姿を数多く見てきました。(中略)僕はその人たちの身に起こったことを、そんなにかんたんに自分の『材料』にしてしまいたくないのです。たとえ生のかたちでないにせよ。僕にとっての小説というのは、そういうものではないような気がするのです。

 

こちらは1998年に発行された

『夢のサーフシティー』の一節。

文中にある「この仕事」「この本の取材」というのは

『アンダーグラウンド』執筆の過程を指しています。

先ほど引用した発言とこの発言との間には

約20年の歳月がありますから、

そこに厳密な整合性を求めることには

無理があるかもしれませんが、

それでもこれらの発言から

一つのストーリーを組み立てれば、

村上春樹は地下鉄サリン事件の周辺の取材をする中で、

オウム的な「回路が閉鎖された悪意の物語」に

抗し得る小説を書かなければならないと決意したが、

同時にそれは早急に書くべきものではないと判断し、

それを物語化するまでに10年を費やした、

といったところになるのでしょう。

 

ただ、作家の言うことを

額面通りに受け取る必要はないという気もします。

作家が自作を語るとき、

そこには何割かの韜晦、つまり悪く言えば

ごまかしが入り込んでしまうのが常だと思うからです。

だって、「つくっていかなくちゃいけない」と

「とても強くそう思いました」というなら、

それは作家にとっては強い創作衝動なんだから、

10年もそれをほっぽっておくのは

逆に難しいと思うんです。

確かに『1Q84』みたいな

ヤマギシ会やらオウム真理教やらエホバの証人やら、

さらに(おそらくは)折口信夫やら、

本当にさまざまな要素を組み合わせた作品を

書こうとすれば、それは当然、

それらに関する資料を読み込んで咀嚼するだけでも

かなりの時間が必要となるでしょうから、

そうおいそれと執筆にかかることはできない。

それはわかります。

でもねえ、だからといっても

すぐには何も書かないというのも、

また考えづらい気もします。

そこで、俄然注目されるのが、

『かえるくん、東京を救う』なのではないか。

 

 

オウム真理教の分派である「ケロヨンクラブ」の存在と、

そのカルト教団が生きたままのミミズを食べるという

常軌を逸した“修行”を行っていたことは

先週日曜日のこのブログに書きました。

主人公の前に「かえるくん」が突然現れ、

東京に大地震を起こす「みみずくん」と戦うための

助力を請うという筋立ては、

ここから着想されたのではないか、と。

それと同時に、この小説の中で注目されるのは

ジョゼフ・コンラッドへの言及です。

「かえるくん」は自分の言葉の信憑性を

主人公に印象づけるため、

主人公の仕事の大きな障害となっていた

反社会的勢力をひと晩のうちに黙らせてみせます。

“どんな方法を使ったのか?”と問う主人公に

「かえるくん」はこう答えます。

 

ちょっと脅したんです。ぼくが彼らに与えたのは精神的な恐怖です。ジョセフ・コンラッドが書いているように、真の恐怖とは人間が自らの想像力に対して抱く恐怖のことです。

 

コンラッドは19世紀末から20世紀初めにかけて

数々の名作を発表したイギリスの小説家です。

村上春樹がこの作家に強烈な興味を抱いているのは

(おそらくは)周知の事実で、

『羊をめぐる冒険』にもコンラッドの小説が登場します。

そしてコンラッドの代表作である

『闇の奥(Heart of Darkness)』を原作として、

フランシス・フォード・コッポラが

この小説の舞台を現代の

ベトナム戦争の激戦地に置き換えて

映画化したのが『地獄の黙示録』です。

村上春樹は自身がこの『地獄の黙示録』という

映画の大ファンであることも公言しています。

そして『1Q84』において主人公の青豆が

カルト教団「さきがけ」のリーダーを暗殺する場面は、

『地獄の黙示録』で主人公のウィラードが、

ジャングルの奥に自らの狂った王国を創り上げた

カーツ大佐を暗殺する場面とそっくりです。

そうそう、『1Q84』という小説の

タイトルのモトとなったと言われている

(私はそうは思ってはいませんが)『1984年』の

作者であるジョージ・オーウェルは

コンラッドを師として仰いでいたともいいます。

『闇の奥』ではアフリカ奥地で現地の人々から

神のように崇められていたクルツ(Kurtz)は最期に

「The horror! The horror!」と叫びます。

確か『地獄の黙示録』でもカーツ大佐は

同じこの言葉をつぶやいていたと思います。

つまり『かえるくん、東京を救う』と『1Q84』とは

コンラッドという“恐怖”を描いた存在によって

結び付けられているのです。

 

『1Q84』に描かれているカルト教団「さきがけ」が

オウム真理教をモデルにしていることは、

以前のこのブログでも書きましたが、

まず論を俟ちません。

そのリーダーは『地獄の黙示録』の

カーツ大佐を模して殺害されます。

そして『かえるくん、東京を救う』においては

「かえるくん」はクルツと同じく

“恐怖”について語ります。

「かえるくん」はそのユニークな

キャラクター造形によって、

いかにも善良そうな存在に映ります。

多くの読者にもそう受け取られているようです。

しかし本当にそうなのでしょうか?

善良で愛すべき存在が、人の恐怖を操って

自分の思い通りに人を動かすでしょうか?

“東京を救った”という

「かえるくん」の遺体からは

無数の蛆虫がわいて出て来ます。

こうしたことから見れば「かえるくん」とは

やはりオウム真理教的なカルト教団を

象徴した存在なのではないでしょうか。

東京を救う、日本を救う、世界を救う……

そうした麗句で人を信頼させながら、

その裏では人の恐怖を操り、

そうして解体されてみれば

後からも後からも蛆虫が出てくるような

存在であったと初めてわかる。

この小説に描かれているのは、

『約束された場所で』で村上春樹が対面した

オウム真理教の元信者たちの想いを

体現したものなのではないかと思えてくるのです

(その意味では「かえるくん」の、

“自分は「暗喩」ではない”という宣言も

逆説的に響いてきます)。

そういえばオウム真理教も盛んに

“ハルマゲドンからの救済”を訴えて

信者を勧誘していました。

「オースチン彗星が接近して日本が沈没する」

とも言っていました。

「東京に大地震が起こる」と言って

主人公を信用させた「かえるくん」のように。

 

 

『かえるくん、東京を救う』という小説は、

こうしてみると村上春樹の創作の歴史の中で、

非常に重要な作品なのではないかと思えてきます。

ちょうど、夏目漱石における『坑夫』のように。

『坑夫』自体はさして有名でもなく、

漱石の代表作に列せられることもありませんが、

この作品がなければ前期三部作も後期三部作もない。

『道草』も『明暗』もない。

人の心理の地下深くに潜行しようと試みた『坑夫』は

確かに漱石のキャリアの転換点となっているのです。

地下鉄サリン事件を通して

“閉鎖された回路”との対峙を

重要なテーマに据えた村上春樹が、

そうした回路に人が捉われていく過程を描いた

(と読むことができる)この作品は、

村上春樹にとっての『坑夫』なのだろうと

私には思えるのです。