魚屋の勘ちゃん・・・ | どら猫でござる。

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ゴールデン猫劇場

こんにちは

こんばんわ

おはようございます。(_ _)

 

今日からまた

新しい週の始まりはじまりぃ〜

 

どちら様もお元気で波乗り・・

我が輩は口だけ元気です。

 

ま、お互い

元気ならそれでいいさ

元気の源はヨリトモ・・(^^)v

 

(今日のテイクアウト応援は「いさりび」のハンバーグ弁当)

 

さて・・

 

今日は「ロカビリーの日」

でござる・・。 ('_')b

 

といっても

若けモンは知らんかも・・

 

「ロカビリー・・・」

なんやそれ??

食いもんか・・・?

 

みたいな・・・。(¯_¯)

 

1958年(昭和33年)の今日

今は無き、有楽町の日劇(現:有楽町マリオン)で

「ウェスタン・カーニバル」

が開かれたのでございます。

 

タイトルには

「ウェスタン」とついてますが

主流となった音楽は

当時、台頭してきていた

「ロックンロール」の基礎となった

「ロカビリー」でござる。

 

世界中の音楽シーンを席巻し

若者を熱狂させていたロックは

当然のように日本でも火がつき

 

かくして

ロカビリー大旋風は

日本を席巻したのでした。

 

なかでも「日劇」は

その象徴的な舞台となったのでござる。

 

ジャンジャカジャンジャンジャ〜ン♫

 

あ、ども・・

古きを訪ねて朝は味噌汁

「どら」でござる。('_')b

 

(食いもん・・・?)

 

はい

というわけで・・

 

そんな、ロカビリー大旋風は

こんな田舎街にも吹いてきたのでござる。

 

デデンデンデンデン・・・♫

 

我が輩は昭和30年代・・

5歳から小学校5年生くらいまで

上から見ると丁字型に屋根を連ねる

全12世帯ほどの貧乏長屋に住んでおったとさ

 

そこに現れた

ロカビリーに魅せられた一人の若者の

誰も知らないド田舎の

誰も知らない物語・・・・。

(我が輩の自伝的小説「丁字長屋の人々」より抜粋)

 

●魚屋の勘ちゃん・・。

 

「魚屋の勘ちゃん」こと浜田勘次は

丁字長屋の住人もよく利用していた近所の魚屋

浜田鮮魚店の一人息子。

年齢は当時・・・

おそらく二十歳前後だったと思うが

家業を継ぐ為にこの鮮魚店で働いていた。

 

勘ちゃんは魚屋の倅らしく

威勢がよくて突き抜けたように明るい性格

少々お調子者だが俳優にしたいような男前

(今思えば待田京介に似ていた)

とくれば、奥さん連中のウケもよく

「魚勘(うおかん)」と呼ばれ親しまれていた。

ちなみに父親の方は浜田長吉「魚長(うおちょう)」である。

 

一方で

捻りハチマキにゴム長

片手に大きな桶を下げ

自転車で料亭や割烹が軒を連ねる路地を

颯爽と駈け回る姿は

花街の姉さん達の間でも噂となっており

こちらでは「南の太助」という別名を頂いていた。

(丁字長屋・・)

 

勘ちゃんは

感化されやすく、非常にハマリやすい性格

時間が空いた時には私達の遊びに加わって

一緒にはしゃいでくれるので

子供達の間でも人気は抜群であった。

それで私達は親しみを込めて

「勘ちゃん」と呼んでいたのである。

このように、老若男女問わず人気がある勘ちゃんは

看板娘ならぬ看板息子といったところだろうか。

 

だが、そんな勘ちゃんにも人知れず悩みはあった。

勘ちゃんは芸達者である。

手品にタップダンス

中でもギターが最も得意であった。

当時子供だった私には

それがどの程度のレベルであったのか

計り知ることはできないが

大人達が感心していたので

十分なレベルであったのであろう。

 

勘ちゃんのスゴイところは

情報も資料も乏しい時代に

これらをすべて独学で身につけていたことである。

まさに「ハマリやすい」勘ちゃんの面目躍如だ。

 

ここで

「日劇ウェスタン・カーニバル」の熱狂のシーン

ごく一部ですがご覧ください。(NHKアーカイブより)

 

そんな勘ちゃんが

昭和34年の冬のある寒い日

突然、我々の前に現れた。

顔を真っ赤に上気させ、白い吐息も荒く

相当に昂奮しているようである。

と、手にしていたギターを「ジャーン!」とかき鳴らした。

これまで弾いていた

クラシックや歌謡曲とは明らかに違う

そして

いま東京じゃロカビリーという音楽が流行っとるぞ!

これからそれを聞かせてやるきのう!」

そう言うなり

 

きみーは僕より年上と

まわりの人はゆうけれど〜♫

 

と、腰をクネクネと揺すりながら

歌い始めるのである。

一体何事かと大人達も数人集ってきた。

おそらくレパートリーはもう尽きたか

突然のライブは3曲ほどで終った。

一瞬、間をおいてから思い出したように拍手が起こる

勘ちゃんは満足げに空を見上げると

 

「これがロカビリーだ、これからはロカビリーの時代だぜ!」

 

と叫んだ。

 

そして・・「スイングしなけりゃ意味ないね」

という訳の分らない捨てぜりふを残して去っていった。

 

なんだかよくわからない出来事だったが

子供の目にも「カッコイイ」と映ったことは確かだった。

その後、しばらくの間、近所の子供達の間で

「スイングしなけりゃ意味ないね」は流行語になった。

 

(日劇ウェスタン・カーニバル/PHOTO by 毎日新聞社)

 

すっかりロカビリーにハマってしまった

勘ちゃんの一人ライブは益々エスカレート。

近所の食堂や寿司屋で強引に例の3曲を歌っていたが

もっとも脚光を浴びたのが

翌年、駅前商店街主催で行われた祭りのメインステージ

「素人歌合戦」だった。

なにしろ、優勝の賞品が

当時は金持ちしか買えなかったテレビである。

ましてやこんな田舎では日頃娯楽も少ない

人々はこういったイベントに飢えている。

前宣伝の効果もあって会場は超満員となった。

 

いよい大観衆の前で歌う晴れの舞台

「次が魚勘だ!」「いよいよ太助の出番だわ!」

勘ちゃんはもともと店の周辺では人気者である。

しかも、まだカラオケのない時代

民謡以外の出場者は全員が伴奏無しで歌う中

さっそうとギターをかかえて登場したのである。

あらかじめ店の客に配っておいた何本もの紙テープを一身に受け

太陽族スタイルで得意の「ダイアナ」を

自ら演奏して歌い踊る彼の姿は、他を完全に圧倒していた。

出番が終っても歓声はなかなか鳴りやまず

次の出場者がなかなか歌い出せないくらいだった。

 

 

しかし・・・

にもかかわらず審査結果は3位・・

優勝したのは銀行支店長の息子

準優勝は老舗呉服問屋の娘。

何のことはない

お定りの出来レースだったわけだが

納得のいかない花街の姉さんや奥さん達は

周りの観衆も巻き込み大騒ぎ!!

いっせいにステージへと押し掛けたもんだから

仮設のステージはあっというまに潰れ

さらに隣に立っていたやぐら太鼓までも倒してしまった。

 

当の勘ちゃんは、そんな騒ぎをよそに

すました顔で

「ま、人生いろいろあらァな・・・」

と、自転車でいつもにように颯爽と帰っていった。

 

その後しばらくの間

こんどは「ま、人生いろいろあらァな」が

私達子供の間で流行語となった。

 

勘ちゃんにとって

順位や賞品などはまったく問題ではなく

ただ純粋にロカビリーが好きで

人前で歌えればそれでよかったのかも知れない

これはあくまでも推測だが

本当は内心プロの歌手になりたかったのだ、たぶん・・

 

(日劇ウェスタン・カーニバル/PHOTO by 毎日新聞)

 

そして、後日・・

家出したのだ。あの勘ちゃんが・・・。

「親孝行で働き者の魚勘が家出したぞ!」

噂はあっという間に広まった。

両親も自慢の息子の家出とあって相当にうろたえた様子

いよいよ捜索願いを出そうかという家出から5日目

勘ちゃんはふらりと帰ってきた。

「よかった!よかった!」

歓喜に沸く大人達とは対照的に

どこか寂しげな勘ちゃんの顔が

妙に不自然だったのを覚えている。

そして、皆に気づかれないように

そっと私に紙切れをくれた

「これ、お前にやる・・・誰にも言うなよ」

それは東京のジャズ喫茶

「銀座テネシー」のチケットとチラシだった。

その時はほとんど内容は理解できなかったが

数年後、読み返してみると

それは新人オーディションに関する内容だった。

 

(日劇ウェスタン・カーニバル/PHOTO by 時事通信社))

 

勘ちゃんはやはり

どうしてもプロ歌手になりたかったのだ。

だが、一人息子で大事な跡取り

それも十分に承知している。

さんざん悩んだ末に

だからこそ、何も言わず東京までオーディションを受けに行った

そして、たぶん落ちた・・・。

 

ひょっとしたら

落ちることはわかっていたのかも知れない

落ちることで夢をあきらめるきっかけにしたかったのかも・・

 

彼の東京でのいきさつや

その後の家庭でのやり取りは

もちろん全く知る由もないが

あの日以来・・・

勘ちゃんは人前では一切、歌もギターもやらなくなった。

 

完・・・。

 

[追伸]

※魚屋の勘ちゃんこと浜田勘次さんが

去年の暮れ、亡くなったと聞きました。(享年82)

Cコロナの影響で、参列者を呼べず

家族だけ5人の葬儀だったそうです。

故人のご冥福をお祈りします。

 

では、どちら様も

今週もCコロナに負けず

元気に過ごしましょう。(^^)/

 

■付録

 

そうして

1週間に渡って開催された

第1回「ウェスタン・カーニバル」は大成功!

初日の入場者数9,500人

1週間の総動員数は40,522人。

 

その興奮も醒めやらぬ

5月26日から6月1日にかけて

第2回「ウェスタン・カーニバル」が開催

前回を上回る48,974人の観客が詰めかけ

その熱気は日本全国へと派生・・

日劇はロカビリーの聖地となったのでした。

 

(日劇ウェスタン・カーニバル/PHOTO by 平凡社)

 

その後・・

「日劇ウェスタン・カーニバル」は約2年で停滞

昭和40年代のGSブームで再び火がつきますが

それも約2年で終焉・・・。

 

こうして昭和52年(1977)8月。

もう若者が旋風を巻き起すことはなく

20年続いた「日劇ウェスタン・カーニバル」の歴史に

幕が降りました。

 

そして昭和56年(1981)

その熱い舞台となった日劇も

ついに終焉を迎えました。

 

by どら