バラ色の雲に魅せられて・・・ | どら猫でござる。

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ゴールデン猫劇場

こんにちは

こんばんわ

おはようございます。(_ _)

 

本日はお日柄も佳く

誠にもって水曜日

どちら様もお元気で波乗り・・・

 

愛本が12になろうが

5Gが何者だろうが

いらない・・・(買う金がない)(`ヘ´)

我が輩ではござるが

 

しかし、なんですね。

女子高生のスマホを打つ速さ

異常ですね、ありゃ・・・('□')

なんであんなに速く打てるんでしょか?

 

パソコンキーボードだったら

負けない自信はあるが

 

ただし、日本語入力じゃが

それがなにか・・?(¯ー¯)

 

しかし

スマホは無理やわ

 

あんなちっこい画面で

なぁ・・

 

文字を二つ押さえたりするし

知らない間に「確定」押したり

送信押したりしてるし

 

ははは・・・。(¯o¯)

 

(今日のテイクアウト応援は「海鮮館」の焼肉弁当)

 

ところでジョージ・・・

 

なんで久保を左に置くんだよ。

右だろ!

百歩譲って真ん中・・(`◇´)

 

最初のゴールチャンスも真ん中やや右寄り

試合中も故意か無意識か

何度も伊東(純)とポジションチェンジしてたし・・

 

相変わらず使えない監督だニャ・・

お前もエメリか!(笑)

 

それにしても

久保と同世代で

確実に仕事をこなしているDF冨安が

普通にすごいんじゃが・・・(¯□¯)

 

マスゴミは久保ばかり追いかけないで

もっと冨安の事を語っておくれ。

 

あ、ども・・

男だったら一つに賭ける・・銭無し平次

「どら」でござる。('_')b

 

(私は右でも左でもないわ・・・)

 

[追悼]

 

昭和歌謡曲の巨星

筒美京平さんが亡くなりました。(享年80)

謹んでご冥福をお祈りします。

 

(PHOTO by 平凡)(現マガジンハウス)

 

筒美京平さんは

序盤は橋本淳さんとのコンビで

全盛期の中盤からは松本隆さんとのコンビで

鬼のようにヒット曲を連発!

 

60年代〜90年代の永きに渡って

歌謡界を引っ張り、支えてた重鎮でした。

 

近年・・・

特にネットが登場してからは

音楽サイト、業界もメディアも

なんでもかんでも

「演歌」でひとくくりにしてしまっているが

冗談じゃねえ!(`O´)

 

ユーミンや小田和正を

「演歌」のカテゴリーに入れてしまっている

バカな業者もいたりなんかするが

ここで商売するなら

多少なりとも歴史と流れくらい勉強していただきたい。

 

それはともかく・・

 

日本の大衆音楽、流行歌

その本流、本幹は「歌謡曲」である。

 

「演歌」はその一ジャンルに過ぎない。

フォークもロックもニューミュージックもしかり

 

日本人が作り、日本で生まれたものは

すべて「歌謡曲」に包括され

その中に、支流、枝葉として

様々なジャンル(便宜上の)があるのです。

 

おっ・・と

この話をしだすと3日くらいかかるので

また別の機会に・・。

 

(画像はイメージです。筒美京平さんとは関係ありません)

 

えー・・・と

何の話でしたかね

 

あ、そうそう

筒美京平さんの話。

 

筒美京平さんはテレビに出ない

マスコミにはほとんど登場しないので

実際の動く筒美京平さんを見た事のある人

声を聞いたことのある人は少ないと思いますが

その曲は

日本人なら誰でも一度は聴いた事があると思います。

 

ああ、あの曲も?・・この曲も・・?

はい。筒美京平さんの作品です。

 

今でも放送が続いている国民的アニメ番組

「サザエさん」の主題歌もそうだし・・

 

テレビに出ないからといって

偏屈者か・・・というと

まったくそうではなくて

プライベートではとても気さくで社交的な人です。

特にお爺さんお婆さんに人気があるんだ

と、本人が言ってました。(当時まだ30代・・)

 

我が輩が日本コロムビアでバイトしてた頃

元ヴィレッジ・シンガーズのボーカルで

のちにコロムビアのディレクターになった

清水道夫さんを通して

何度か同席させてもらったことがありますが

(特に近かったわけではないです)

 

所属していたポリドール・レコードを辞めて

フリーになった頃・・

それまで月給3万5千円が

一気に月収60〜70万円になった・・と

楽しそうに語っていたり・・

 

当時の自宅が

「百合ヶ丘の黄色い家」というのは結構有名で・・

地元ではみんな知ってたかな

 

では、ここで一曲。

 

「バラ色の雲(1967)」

歌:ヴィレッジ・シンガーズ

作詞:橋本淳/作曲:筒美京平

 

膨大な数の作品の中から

1曲を選ぶ・・というのはとても無理な話ですが

では、なぜ、この曲にしたのか・・

というと

 

それは

この曲が最初のヒット曲。

 

いわゆる

筒美京平の名が「世に出た」

作品だからであります。

 

(レコードジャケットより)

 

[以下、敬称略]

 

作曲家としての実質デビュー作は

青学時代の先輩であり

同じジャズバンドのメンバーでもあった

橋本淳氏とのコンビで作った「黄色いレモン」

 

この曲は当初

望月浩の曲として企画されていましたが

すぎやまこういち氏の弟子だった

藤浩一(のちの子門真人)の曲として

1966年8月15日に発売。

 

望月浩盤は一足遅れて

9月5日に発売されましたが

どっちかというと、こちらの方が売れたかな。

(他、競作多数)

 

ただし

筒美氏は当時

日本グラモフォン(ポリドール)の社員だったので

クレジットはすぎやまこういち名義。

 

(レコードジャケットより)

 

筒美京平名義でのデビュー曲は

ザ・サベージのファースト・アルバム

「この手のひらに愛を」に収録されていた

「涙をふいて」(三好鉄生の曲とは別)

1966年12月15日発売(フィリップスレコード)

 

シングル・デビュー曲は

ザ・ライジングサントリオの「海よ忘れて」

ただし、「戦場の星」のB面。

1967年2月1日発売(キングレコード)

 

シングルA面デビュー曲は

木の実ナナ「真赤なブーツ」

1967年5月1日発売(キングレコード)

 

などなど・・。

 

そんな中・・・

この当時の曲で

一番印象に残っているのは

弘田三枝子「渚のうわさ」でございます。

1967年7月10日発売。(コロムビア)

 

多感な思春期にじわりと入り込んできた

感傷的でせつない曲。

 

ところが・・

レコーディングの日付を勘違いしていて

あわてて一晩で書き上げた曲だそうで

 

たった一晩でこんな曲作れるなんて・・・

 

(レコードジャケットより)

 

そんなこんなで・・

 

さて・・

いよいよ油ののってきた筒美京平大先生は

ついに大ヒット曲を生み出します。

 

それは

1968年12月25日

クリスマスの日に発売された

いしだあゆみ「ブルーライト・ヨコハマ」。

 

まさに時代は歌謡曲全盛期。

だが、しかし、一方で過度期でもあり

古さから脱却できない

あるいは、新しさを模索している

群雄割拠の飽和状態でもありました。

 

そんな時に一石を投じた

ファッショナブルでソフィスティケイトされた

筒美メロディー・・。

 

歌謡曲の進むべき方向を一気に集約させた

と、言わしめた一曲。

結果的に日本レコード大賞、作曲賞を受賞。

 

(レコードジャケットより)

 

さあ、盛り上がってまいりました。

 

一気に歌謡界の寵児となった筒美氏は

次々とヒット曲を連発します。

 

「また逢う日まで」尾崎紀世彦

1971年3月5日発売(日本フォノグラム)

日本歌謡大賞受賞。

 

「さらば恋人」堺正章

1971年5月1日発売(日本コロムビア)

堺正章のソロデビューシングル。

 

「ひまわりの小径」チェリッシュ

1972年5月25日発売(ビクター)

 

そして

いよいよ歌謡界は空前のアイドルブームに・・

 

次から次へと

キラ星のごとく登場するアイドル達にも

筒美氏は膨大な数の曲を提供し続け

70年代、80年代のアイドルブームを支えたのです。

 

おっ・・と

そろそろ時間切れ・・

 

いくら語っても語り尽くせない

筒美京平さんの話はまだまだ続きますが

今日のところはこれにて勘弁してやろう

 

一旦、休憩。

続編はまたいつの日にか・・。

 

では、どちら様も

今日が佳い日でありますように。

 

by どら