その日、僕は、恵比寿駅のエスカレーター下にあるスターバックスで、ある人と待ち合わせをしていた。
自分のビジネスのことも含め人生全般に迷っていた僕は、
ある先輩的な人にその旨を相談してみたところ、
「それならあの子を紹介するよ」と言われ、
日時と場所を勝手に指定され、相手の情報もほとんど知らされぬまま、
ひとまずその時間に言われた店に向かったのだった。
季節は春の去り際で、夏の気配がその日差しにわずかに混じり始めている時期だった。
5月半ばの日差しのもとでは、誰もが幸せそうに見えるから、
空気感というのは実に不思議なものだと僕は感じた。
平日ともあって、エスカレーターでは通行用に空けられた右側の部分をそそくさと上がっていくビジネスマンもいる。
ぎこちなくスーツを着ている新卒らしき若者や、幸せそうな顔で子供をあやす女性もいる。
みんなそれぞれの毎日があるのだ。
「タケルくん?」と言われて僕は驚いて顔を上げた。
ショートカットの女性がそこには立っていた。
こんなに近くに人がいたら気づいても良さそうだが、僕は気配すら感じることができなかった。
いつの間にこの人はここまで来ていたのだろう?
「タケルくんよね?」彼女は繰り返した。
僕は座ったまま肯いた。
「そうです。タケルです」
そこで僕は、改めて彼女を認識した。
わずかにアシンメトリーにカットされた髪の短い方の耳には、赤いフェザーのピアスが揺れていた。
「良かった」と彼女は言った。
「でも注文もせずにそんなところに座っていたらタチが悪いんじゃない?」
そう言って彼女は、何も置かれていないテーブルを指差した。
「待っていたんですよ」と僕は言った。
「たぶん、あなたを」
彼女は微妙に眉だけ上げて、それに答えた。
「飲みものをご馳走します。僕の都合で呼び出したようなものなので」
「ラッキー」。彼女は、悪びれる様子もなく僕の提案を受け入れた。
「何がいいですか? ラテとか、マキアートとか、アメリカーノとか」僕は知っているメニューを口にしてみた。
「トール・ミストをお願い」と彼女は言った。
僕が難しい顔をすると、「トールサイズのカフェミストをお願い」と彼女は言葉を付け足した。
「ホットでいいですか?」
「カフェミストには、ホットしかないのよ」と彼女は言った。
「ある種の飲み物というのは、ホットでしか提供できないの」
「トールサイズのカフェミストですね?」僕は彼女の言葉には答えずに言った。
彼女は微笑みながら「イエス、プリーズ」と答え、僕の向かいの空席に赤いカバンを置いた。
口の広い、赤い革のカバンだ。
僕はテラス席からレジに向かい、
洗練された自然な笑みを浮かべる店員に向かって、
「トールサイズのカフェミストをひとつください」と言った。
店員は僕の言葉をそのまま繰り返しレジを打った。
(どうやら、そういうメニューが存在するようだ。)
「以上でよろしいでしょうか?」と店員が聞いたので、
僕はトールサイズのソイラテを加え「ホットで」と伝えた。
支払いを済ませて受け取りカウンターで待っている間、僕は窓越しにテラスの椅子に座る彼女を見た。
ふわりとしたショートカットの髪はアッシュがかっているためか、全体的に中性的な印象を与えている。
白のサマーニットの上にグレーのカーディガンを羽織っているが、それは肩に掛けているだけで、細い腕が覗いている。
ノースリーブのニットに彼女の胸がやわらかな曲線をつくり、隣の席の男がそれを見ているのがわかる。
ボトムには黒のフレアスカートが履かれていて、スエード地の低いヒールを合わせている。
耳に赤いフェザー・ピアスと、腕にゴールドの細いブレスレット、
胸元にも同じくゴールドのネックレスが小さく光っている。
色のバランスは微妙に崩れているが、どれもラインがきれいでシルエットが上品だった。
僕がそう思ったところで、2つのカップがサーブ台に置かれた。
それらを持って僕がテーブルに戻ると、隣の男が視線をそらすのがわかった。
「ありがとう」と彼女が笑みを投げたので、僕は肯いて応え、先ほどの椅子に腰掛けた。
僕は理由もわからず、妙に居心地の悪さを感じた。
彼女は傷ついた小鳥でも温めるように両手で紙カップを包んでから静かに一口飲み、
リッドに着いた口紅を右手でそっと拭いて、深呼吸をした。
それらから彼女は、まっすぐ僕を見た。
僕もひとまずソイラテをすすった。そうしないわけにはいかなかった。
初対面の人と会うのは不思議なものだ。
相手も僕も今までずっとこの地球上で暮らしてたいたはずなのに、
つい先程までこうして視線を合わせたことすらなかったのだから。
僕が困っていると、彼女は仲介者となってくれた人の話をした。
僕の先輩的なその人から彼女はコンサルティングのようなこと受けていた時期があったのだという。
僕は彼のそういったサービスは受けたことがなかったが、
彼がそういう仕事をしているということだけは知っていたので、
適当に相槌を打って話を聞きながら何度かソイラテを口に運んだ。
「あの人からの話だったから断れなかったの」と彼女は言った。
彼女がここまで来た経緯をひとしきり話し終えると、
彼女はまたカップを口に運び、リッドを右手で拭いた ― それはまるで何かの儀式のようにも見えた。
そして彼女は「タケルくんの生年月日と出生時間を教えてくれる?それと出生場所も」と言った。
僕は言われるがまま、先日母親から聞いたばかりの出生時間を伝えた。
彼女と会う前に出生時間を確認しておいた方がいい、と先輩から聞いていたのだ。
久々に来た息子からのLINEの内容が「出生時間を知りたい」だったことに驚いて、母親は僕に電話をかけてきた。
「なにかあったの?」と母親は言った。
「とくになにもないよ。なんとなく気になってね」と僕は言った。
「普通の人は、なんとなく出生時間が気になったりしないと思うけど」
「そういう人間もいるんだよ」と僕は答えた。
「母さんが生んだ子供も、たまたまそういうタイプの人間だった。そういうことだよ」
「わかったわ」と母親はそう言って、電話越しに出生時間を教えてくれた。
そして「母子手帳なんて久々に見たわよ」と加えた。
「それにしても不思議なタイミングね。
最近なんだかやけに昔のことを思い出すことが多かったから」
僕は曖昧に返事をして「きっとたまたまだよ」と言った。
「ひとまずありがとう。助かったよ」
そうして母親から得た情報を、僕は今、目の前にいる女性に伝えている。
つい先ほどまでは目も合わせたことがなかったような女性に。
(つづく)
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