港山城(湊山城・愛媛県松山市) | 星ヶ嶺、斬られて候

港山城(湊山城・愛媛県松山市)

 

 

愛媛の県都・松山市街から西へ5kmほど、瀬戸内海に面して三津浜の港があります。

ここは古くより道後・松山の外港として重きをなされ、近年ではレトロな街並みが残ると観光客を集める土地。

交通アクセスとしてはJR予讃線にも三津浜駅がありますが、むしろ近いのは伊予鉄道高浜線の三津駅で、さらに直線の距離でいえば港の北岸の高浜線の港山駅も最寄り駅の一つでせう。

とはいえ港山駅との間には三津の港の入り江があるではないかと言ふなかれ。

実は県道の一部として港湾の両岸を結んで無料の渡船運航しており、これもまた知る人ぞ知る三津浜の名所となっているのです。

 

さて、この三津の渡しの北岸側、船を降りてすぐ左手の山上にはかつて湊山城がありました。

今日でも三津浜や瀬戸内海が見下ろせるスポットとして知られ、整備もされていますが、この港湾や海上を見下ろすという点からしても当城の役割も自ずと了解せられるでせう。

城の創建に関しては概ね三通りの説があり、

 

①文治2年(1186)―河野通信

②建武年間(1334~1338)―河野通盛

③応仁元年(1467)―河野通春

 

このうち河野通信まで遡るかは疑問だが、立地の重要性からするとある程度の段階では築かれていたと見た方がよさそうである。

 

湊山城主としてとりわけ名高いのが③説の河野通春で、伊予守護・河野氏の有力な分家である予州家の出。

そもそも河野惣領家が概ね刑部大輔を名乗る中で、伊予守を名乗りとしたという段階で中々に挑発的なのであるが、中でも通春は嘉吉の変後から応仁の乱にかけての言わば15世紀後半に惣領家の教通と激しく対立し、入れ替わる形で4度も伊予氏守護を務めました。

しかし文明14年(1482)、通春が没し、通篤が跡を継ぐと力を失い、以後、湊山城は湊山衆と称された水軍の根拠地として顕れるやうになります。

 

湊山衆は忽那氏を中核とする河野氏麾下の水軍であり、忽那氏の本拠である忽那諸島から伊予風早郡(松山市周辺)一帯の沿岸部を警固する存在。

忽那氏自身は松山沖の忽那諸島を拠点とする伊予の有力な国人ですが、村上氏や大祝氏に比べると河野氏に対する従属性が高いようにも思はれる。

 

『忽那島開発記』によると、室町中期の忽那通定の時代には本城の黒岩城の他、湊山城、恵良城、鹿島城、忽那山城(いずれも松山市)など四国本島側の諸城を預かっていたやうで、史料上でも恵良城や鹿島城に在番していたことが確認出来る他、四国本島内に所領を持っていたことが知られています。

忽那山城は三津浜の南海岸に突き出た山上にあり、鹿島城は北の北条沖にある小島(鹿島)にある山城。

内陸に位置する恵良城も海上への展望が開けており、いずれも海上交通の要地を押さえる城として忽那氏を中心に水軍のネットワークが構築されていたのでせう。

ただし、忽那通定は予州家の河野通春に先行する時代の人であり、この段階における湊山城の存在や城主については史料上では確認できず、また恵良城や鹿島城は後に来島村上氏が管理しているので、『忽那島開発記』に記された5城は忽那氏の管理下に置かれたことのある城程度に理解した方がいいのかもしれません。

 

戦国期には湊山衆を統率した忽那氏は、伊予に来襲した大内水軍や大友水軍の攻撃を退けるなどの活躍を見せましたが、天正13年(1585)、羽柴秀吉の四国攻めの一環として小早川隆景が押し寄せてくると河野、忽那氏も没落し、湊山城もまた廃城となった模様です。

 

―とはいえ近世以降も三津浜が松山の外港として機能したことに変わりはなく、松山藩はこの地に船奉行を置いて海の玄関の守りとすると共に藩主の参勤交代の折には船団を組んで瀬戸内海を航行する栄誉を担いました。

 

この湊山城であるが、今日では整備され、主郭のある山頂部が展望台となっているため、少なからぬ人が訪れるスポットとなっているやうである。

主郭と言ふのは「呂」の字の形をしていると言われており、中央がくびれ、東西に長い構造。

さらに周囲には帯曲輪が巡っています。

 

‹よく手入れされた主郭内›

 

 

東方の尾根は傾斜も緩やかで段々と削平した曲輪が続く構造であり、概ね5、6段といった所か―。

突端の曲輪以外は竹林等の山林となっていてよく手入れされた登山道に比して、曲輪内は荒れた箇所もあり、構造は把握しにくい状況。

このあたりは元々は竹林として管理されていた模様なので、段々と続く削平地などは後年の改変を受けているのかもしれません。

また、東側から山に入ってまず到達する突端の曲輪にはベンチなども置かれ、ちょっとした憩いの場所となっています。

 

山頂からの展望は南の三津浜に加えて西の興居島も正面に見えており、小富士と呼ばれる円錐形の山の姿が秀逸である。

ちなみに忽那諸島はこの興居島の北西に展開する島々であり、伊予鉄道の終着駅の高浜から中心たる中島への航路があるなど今も三津浜や高浜といった松山の外港との強い結びつきを感じます。

 

 

‹主郭からの眺め。左手の山が興居島の小富士›

 

‹主郭南の腰曲輪›

 

‹山頂へ続く道と両脇の竹林›

 

‹竹林となった東尾根の削平地›

 

‹突端の平場と主郭への道。休憩用に椅子などが設置されて散る›