御串山城(愛媛県今治市) | 星ヶ嶺、斬られて候

御串山城(愛媛県今治市)

 

今治市を出発したしまなみ海道は概ね大島―伯方島―大三島―生口島―因島―向島と架橋して、サイクリングロードの場合は最後は渡船で尾道へと渡るルートです。

私は今治駅で自転車を借り受け、上記のルートに来島を追加して三島村上水軍の城址を巡っていたのですが、その中で脇道にそれてどうしても訪ねたい所がありました。

それが大三島にある大山祇神社。

大三島西岸に面して鎮座する社は大山祇神を主祭神として武人の信奉篤い古社として知られており、奉納された多くの甲冑や刀剣は今に国宝や重文として伝わります。

とりわけこの大山祇神社を信奉したのが伊予の河野氏や瀬戸内海の水軍であり、当然、その中には領地を接する三島の村上氏も含まれていました。

 

大三島の東岸を通るしまなみ海道からこの大山祇神社を目指す場合、多々羅大橋を渡らずに県道を直進、T字路となっている分岐から県道21号線に入って西進する形となるのですが、途中、三村峠を越えるために往路の前半は登り坂が続くという中々の難コース。

それでもしまなみ海道の枝道の位置づけから自転車道がある程度、整備されている点はありがたい限りでした。

 

さてこの大山祇神社の大宮司職を少なくとも中世以来、代々務めてきたのが大祝氏である。

この一族は大宮司として祭祀を司る一方、大三島西部を中心とした所領を有し、かつ水軍を擁して海上交通を掌握した地域領主としての存在感もありました。

大祝氏で有名なのは何といっても「瀬戸内のジャンヌ・ダルク」と称される鶴姫で、大祝安用の娘であるといふ―。

実際の所、鶴姫の実在は疑わしい点も少なくないのですが、時代背景として大内氏による再三の攻撃を受けたのは事実であり、伊予守護の河野氏との密接な関係を維持しながらも一時は大内氏の影響下に置かれたこともありました。

 

かくの如く地域領主として軍事力を有した以上、当然、領内に城館を構えており、台(うてな)城を居城として御串山城や明日(あけび)城、尾之部城といった城郭群を神社周辺に展開していました。

シロ屋の身空としては当然、こうした大祝氏関係の城址も訪ねたいと思っていたのですが、インターネットで調べても意外やその情報が至って少ないのです。

個人的にもこの後、因島を巡るという予定もあって訪ねる城址を絞り込む必要があった訳ですが、台城、明日城については藪が深いという情報もあり、時間の問題もあって次の機会に譲るとし、神社からも近く一応は登山道もあるという御串山城に照準を絞ることと致しました。

 

御串山は大山祇神社の西方の玄関口として開かれた宮浦港の南に半島状に突き出た標高65.5mの小山です。

北麓には阿奈岐神社があり、そこへ至る参道の途中に登山道の入口があります。

東西に細長い御串山の中で主峰というべき最高点を有するピークは西の先端の峰であり、登山道も中央鞍部から尾根に取りつき、そこから西へとダラダラと登る道。

一つ目のピークを越えて一旦少し下ってからもう一度登ってゆくと三角点のある最高所で、現状は木々が茂っていて見通しの悪い平坦地。

二つのピークはいずれもなだらかで、一部に造成の痕はあるものの、明確に城郭遺構と言ふべきものはありません。

 

 

‹三角点のある最高所›

 

一方で私は事前に愛媛県の『中世城館分布報告書』掲載の縄張図によって、どうも東方の峰にも遺構があるらしいということがわかっていました。

この縄張図も位置関係の把握がわかりにくい所があるのですが、とにかく登山道の鞍部まで戻ってここから東の峰へと分け入ることにしました。

鞍部より東側は明確な道こそなけれ、藪というほどでもなく、かすかに踏み跡もついている。

登りだしてほどなく、一つ目のピークに至るも自然地形のようで遺構なし。

ここから東は緩やかな下りとなり、左手の北面は石切の痕なのか崖状になっているのでやや尾根の南をまいて進んでゆくと、小径が横切る鞍部があり、その先が一気に高くなって東の峰に到達したのだとわかります。

 

さて、この勾配を一気に増した斜面であるが、どうも切岸と削平された段があることが少し遠くからでも見て取れた。

二段に削られた小郭を越えて切岸を登るといよいよピークなのだが、これが意外にも広く、東西に展開する曲輪の長軸は50mほどもあり、西寄りには電波のアンテナらしい施設が建っていてよく手入れされている様子です。

驚いたのはアンテナの西前面に立派な石碑が建っていて、しっかりと「御串山城跡」と刻まれていることで、城郭遺構がきっちりと残っているのは予想の範囲内でしたが、この石碑の存在は全くの予想外。

 

‹よく手入れされた東の峰の主郭と石碑›

 

 

周囲の尾根を調べてみると東尾根に小規模の段が数段造成され、さらに西の尾根にも2段程度の曲輪が配されていますが、その先の尾根は自然地形のように見えました。

この西尾根は緩やかでよく手入れされた道が開かれてており、途中、折り返して民家の裏を通って釣具屋の横に出る。

表から見るとこの登山道入り口は民家の間を入っていくやうで踏み込むのに逡巡しますが、一歩入ってしまえば祠などもあり、気持ちよく歩けるかと思ひます。

 

ところで、御串山の中でも何故、東の峰に主城部が置かれたのかについても考慮しなくてはなりません。

確かにこの御串山の中では西の突端のピークに比べれば低く、全方位に対する展望はないのですが、一方で宮浦の港を抱え込む形になっていて、港湾の管理及び水軍のプール場所として好適であったのだと思われます。

加えて東の神社へ通じる陸路を見通せる場所でもあり、周囲の斜面の傾斜も他の峰に比べるとメリハリの利いた地形です。

後は直接見通すことのできない西方海上に対する見張りとして西の峰に遠見の施設を作れば事足りた訳で、造成なども最低限行ったくらいで概ねにおいて自然地形を活用したのでせう。

 

それにしてもこれほど道もきれいに手入れされ、立派な石碑まで立っているにも関わらず、実在の疑わしい鶴姫のアピールには余念のない地元の自治体等すらもこの城に関する情報をまるで発信していないのは何故なのか―。

鶴姫などのことも含め、大祝氏を巡ってはなお多くの謎が横たわっているようです。

 

 

‹城址の縄張図。東の峰を中心に―›

 

 

‹東西に長い東の峰の主郭›

 

 

‹北西尾根の切岸。ここを越えると頂部の主郭›

 

‹南尾根の切岸と平場。平場は削平が不十分›

 

‹南尾根の鞍部。やや掘り窪まれ小径が横切る›