シリーズ東京の謎の城⑤ 舎人城の発見? | 星ヶ嶺、斬られて候

シリーズ東京の謎の城⑤ 舎人城の発見?

東京都足立区に舎人といふ地名があります。

足立区の位置は区名から察せられる通り、現在の埼玉県中原東部を中心とする足立郡に属していたとあって東京都の中でも北側にあるのですが、舎人はその中でも北端と言ふべきところで、北の毛長川を跨げば埼玉県の草加市、もしくは川口市に入ります。

 

このいかにも由緒ありげな、典雅ともいうべき地名を持つ町にかつて舎人城(舎人屋敷)があった、と記すのは『日本城郭体系』など複数の書籍に及び、その存在は一応はそれなりに知られているのではないかと思ひます。

ところがその場所となるとどの本も舎人2丁目付近であろうというくらいで明言するでなく、所在地のわからないまさに謎の城の一つなのです。

城の存在の根拠の一つとして重要なのが江戸後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』の記述であり、少し長くなりますが当該箇所を引用いたします。

 

屋敷蹟  当所ノ字ヲ北浦ト呼ブ。一丁四方許ニテ四面ニ溝アリ。昔舎人土佐守ト云人住セシ所ナリ。イツノ頃ノ人ト云コトヲ伝ヘズ。按ニ紀伊国高野山ノ過去帳ニ土佐守永禄十一年五月廿六日卒ト記シ、舎人孫四郎月牌料ヲ寄附セシヨシ載セタリ。是当所ニ住セシ人ニテ、孫四郎ト云ハ土佐守ガ子ニテモアリシニヤ。サアルトキハ土佐守ハ岩槻ノ家人ナルベシ。今此地ニ又兵衛トテカスカナル農夫住メリ。舎人ヲ氏トシテ彼土佐守ガ子孫ナリトイヘド、詳ナルコトヲ伝ヘズ。又尾張殿家人ニモ舎人九十九トテ禄千石ヲ領スル人アリ。是モ彼ノ子孫ノ由。此地ヘ来リシコトアリト云。此所東ノ隅ニ天神社アリ。昔屋敷ノ鎮守ナリト云伝フ。

 

以上の如く、江戸時代の後期の時点では堀が残っていたようであり、それなりに詳細が記されているのですが、現在ではその跡地がわからない。

原因としては舎人一帯が河川が絡み合う沖積地で概ね平坦な地形とあって城がありそうな場所の絞り込みが困難であること。

東京近郊故に都市開発のスピードが速く、土地の旧状が変貌してしまった上に、地域に残る伝承が失われてしまった点などが挙げられます。

 

城の推定地としては舎人2丁目にある西門寺付近、あるいは赤山街道沿いに展開していた同じく2丁目の宿場町を囲んでいた構え堀と呼ばれる小水路の範囲内、北浦と言ふ字名から舎人5丁目の氷川神社付近とする説、あるいはインターネット上では古千谷1丁目の舎人公園とする説なども見られます。

また構え堀内の宿場の屋号に上の御殿、下の御殿があり、これを城と結びつける論もあるが、宿場に2軒あった名主の家であることから、御殿とはまさに名主の邸宅を称したものと考えられる。

 

‹舎人の古刹・西門寺›

 

さて、私がこの舎人城に関して少し調べてみようかと思い立ったきっかけはたまたま昭和30年代の舎人付近の航空写真を見ていて、舎人2-7あたりにコの字の細長い区画に囲まれた一画があることに気が付いたからでした。

その後、法務局に行って古い地籍図(土地公図)を閲覧したものの、コの字型の地割は確かにあるが、その正体が明らかにはならぬまま。

区画の広さとしては60m×70m程度と1丁(約108m)四方との差異も少なからず、これは見当違いだったかと周辺を見ていた所、宿場町の北西に水田に囲まれた島状の畑がいくつかあることに気が付いたのです。

それらの区画は10区画ほど、畑のみならず宅地となっている所もあるのですが、構え堀が丁度、北西部において大きく入隅となっているまさにその場所を南辺、東辺とし、西と北は水田に囲まれた100~150m四方程度の範囲なのです(舎人2-11,12を中心とする範囲)。

 

‹舎人城推定地(左上)と構え堀内の地割図。濃いトーンは宅地、薄地が水田›

 

舎人周辺の地形をもう一度つぶさに見ていくと平坦とはいえ毛長川に沿う形で自然堤防が形成されており、後の舎人宿があるのはその南端の膨らんだ部分。

そこは北面の毛長川の氾濫原に対しても自然堤防によって守られた場所であり、低地の中にあって最も安定した地盤であったのでせう。

とすれば舎人城の地もまた自ずと限定されるわけであり、今回の推定地は宿場の最奥部に当たります。

さらにいえば構え堀が北西部において大きく入隅となるのは舎人城があった故と思はれ、構え堀の中でも内出堀と称される当該部の堀はかつての舎人城の堀であり、宿を囲む構え堀は城外の宿を囲む惣堀であったと見られます。

城の南の出入口、構え堀内への進入路であった東及び南西の入口にはいずれも堀のクランクが見られ、あるいは横矢掛かりの痕であらむや。

 

この説の弱点は城内が細分化され過ぎている点で故に個々の曲輪の面積が限定されてしまっているのですが、むしろ畑としては無用に細分化され過ぎているとも。

同じ足立区内の中曽根城なども縦横に走る堀で曲輪が細分化されていたやうですから低地ゆえの特徴なのでしょうか。

ちなみにこの島状の区画は先の昭和30年代の航空写真でも部分的に残されており、それだけに昭和50年代の時点で城の場所が不明であったという点と整合しないのも本論の泣き所です。

 

今回、舎人城では―と指摘した場所は現在、住宅地となって痕跡をたどるのは極めて六つヶ敷状況で、かろうじて構え堀の一部が細い路地となって残る程度。

日暮里・舎人ライナーの開通で宅地化の著しい一帯ではあるが、それでもかつての宿場の雰囲気はかろうじて残っています。

 

当該地が舎人城であるといふ確証はありませんが、問題を提起することで舎人城に関する知見が深まるのであれば―と思ふ次第です。

 

※舎人城の歴史に関わる舎人氏に関しては次回記事にて取り上げる予定です。

 

<現代の地図に舎人城の縄張(推定)を合わせた図>

 

‹住宅が並ぶ舎人城推定地の中枢部›

 

‹舎人城推定地南口脇の構え堀の跡。構え堀全体の中でも最も旧状を残す箇所›

 

‹若干の面影が残る舎人宿›