新山城(標葉城・福島県双葉郡双葉町) | 星ヶ嶺、斬られて候

新山城(標葉城・福島県双葉郡双葉町)

 

 

前回記事、権現堂城がある浪江町の南に隣接する双葉町。

より福島第一原発に近いこの町は震災後しばらくは埼玉県加須市に町役場を移転したことでも知られています。

 

原発の近さゆえに避難指示が一部で解除されたのが令和4年8月30日といいますからつい半年ほど前のことで、避難指示の対象となった自治体の中では最も遅い解除でした。

とはいえ、なお町域の多くが帰宅困難地域であり、町内に戻って生活している住民は至って少なく100人に満たない状況であるといいます。

このような状況でしたから私が実際に訪ねた折(令和4年の春)には人影もなく、警邏中のパトカーの他は、双葉駅前に停車していた原子力災害伝承館行きのバスが手持無沙汰に待つばかりでした。

 

双葉駅から南を見ると鉄路に分断される形で東西に小高い丘陵が向かい合っていますが、ここが目指す新山(しんざん)城址で一名に標葉城とも呼ばれます。

新山とは双葉駅周辺の集落の名前であり、双葉町の前身は新山町と長塚村。

実は両町村が合併した昭和26年から31年まで、短い間ですが当町は標葉町を称しており、どうも標葉城の呼称もこのあたりの事情によるやうです。

 

新山城の築城は元弘2年(1331)、標葉持隆の三男・隆連によってなされ、以後、その末裔が城主を務めます。

この時期、標葉惣領家は請戸館(浪江町)を拠点とし、六騎衆・七人衆と呼ばれる一門や被官を統率しておりましたが、新山城の位置は標葉郡の中でも中心に近い位置であり、ここに信の置ける近親を配した点は内外に対してプレッシャーを与えたことであらむ。

嘉吉2年(1442)、新山城主であった標葉隆重(隆連の子とされるが…)は標葉惣領家の家臣を斬って出奔してしまいますが、その子・隆豊は引き続き新山城の城主を務めます。

ところがどうも遺恨が残ったものか、明応元年(1492)の相馬氏の侵攻時には隆豊は権現堂城の城将を務めながら相馬氏に内応して権現堂落城の要因の一つを作ることとなりました。

 

標葉惣領家の没落後は新山の標葉氏は藤橋村(浪江町)に移って姓も藤橋と変更。

新山城の城代は青田信濃、相馬胤乗、樋渡重則(七人衆)、木幡大隅などが頻繁に交代した模様です。

 

では、新山城の状況はどうなっているのでせうか?

まずは市街中央にあって児童遊園にもなっていた常磐線東の丘陵部を訪ねてみます。

本城、あるいは東館とも呼ばれる東の丘陵部は南を最高所とする上下二段の曲輪を中心に西に二段の腰曲輪、東の尾根にも平場があり、北東中腹には秋葉神社が鎮座。

さらに北麓には土塁で囲まれた一画があり、城主の居館であるとされています。

 

 

<居館とされる北下の土塁囲みの区画。一隅に祠がある>

 

 

主郭こそ山林であるものの市街中心部にあって公園にもなっているとなればこちらはさほどのことはあるまいという所は予想通り。

問題は市街地よりは線路を隔てて西の丘陵―通称・西館で、大本が山林と言いますからかなり荒れているのではないか―と心配を抱きつつ切通になっている双葉中学校側から城内へと歩を進めます。

概ね南北に長い上下二段の曲輪から構成される西館。

入口の階段を上がって下段に出るとここはやや荒れている感じでしたが、上段へ至る通路はしっかりと手入れがされており、いよいよ上段の主郭内へ―。

上段へ上がってみると下草ひとつないほどに整備されており、元々藪化していた北側を除き、東下の帯曲輪も含め城内の散策にいささかの支障もないほどでした。

 

 

<西館上段曲輪の西の土塁>

 

 

改めて西館の縄張りを概観すると、まず南北に長い主郭があって西に対して土塁を構え、塁線が突出する中ほどに虎口を開きます。

主郭下には長く空堀があって、その外が下段の曲輪。

ここにおける白眉は南端を固める土塁で、櫓台状の土壇の外縁にさらに胸牆の如き低い土塁を巡らせているのです。

丁度、南方の切通入り口を狙える位置にあり、相馬領国化では他に例のない構造と思われ、城址全体の縄張りを見ても緊張感を漂わせる構造といってよい。

楢葉郡を巡って衝突を繰り返した岩城氏に対抗する前線の拠点として整備されたのでせう。

 

 

<西館の南端にある土塁に囲まれた土壇>

 

先に述べたやうにこの城の城主は標葉氏の退転後は小刻みに変わっているのですが、これすなわち新山城を重要拠点とみた相馬氏が直轄管理した上で城番として家臣を在城させていた故でせう。

樋口摂津守が城代であった永禄(1558~70)頃の記録では新山城代とは別に西館の館主として酒井将監の名が見えていますが、これは東館と西館が別の城であったのではなく、重要拠点故に在番を二人配したものと見られます。

現状では常磐線のためにわからなくなっているものの東館と西館の間は鞍部になっていたやうなので、両者は一城別郭として半ば独立的に並列しながらも補完しあう関係を構築していたのではなかったろうか。

 

それにしても市街地に未だ倒壊した家屋が散見される中で、城址がこれだけ整備されている事実は誠に驚きを禁じ得ない。

町民が城址に対する愛着を強く抱いているゆえでありますが、一方で権現堂城との差異も気になる所です。

城主は同じ標葉氏ながら新山城の系統は相馬氏と干戈を交えたわけではなく、後にその重臣にもなっている上に、城自体も相馬氏直轄となって改修されているらしいことから、相馬氏に対し気兼ねがなかったことが大きいように思われます。

 

 

<公園化されている東館。後背の山林が主郭>

 

 

<山林となった主郭内>

 

 

<西館、下段より上段への道>

 

 

<上段切岸下の空堀>

 

 

 

<西館、北の空堀は藪に埋もれつつある>