明前館(インジ館・青森県上北郡野辺地町) | 星ヶ嶺、斬られて候

明前館(インジ館・青森県上北郡野辺地町)

 

 

前回記事で東通村の将木館を紹介し、北東北に分布する防御性集落に関して簡単な説明を致しました。

既に述べたやうに将木館を訪ねたのは斗南藩史跡の近くであったというのが要因で、そこがたまたま防御性集落の遺址であったといふ次第。

この件に関しては偶発性が強いと言えますが、奇遇にも旅の当初の計画段階から防御性集落の代表格である明前(みょうまえ)館を訪ねる心算でありました。

 

多分、明前館をご存知の方はほとんどおるまいと思いますが、侮るなかれ、この城館の縄張図は複数の書籍に掲載されており、数ある防御性集落の中でも代表格の扱いなのです。

 

ところが―である。

インターネットで検索してもこの館を実際に訪ねたという記録が出てこない。

今日、僻地のマイナーな城館でもインターネット上に訪問記があるというご時世。

それがないという理由としてはよほどの山奥であるか、はたまた相当に荒れているのか、あるいは存在自体が知られていないのか―といった所ですが、地図などでも確認する限りそこまでの山奥ではなく、知名度が全くないわけでもない。

さらに国土地理院の地図では館址付近へ至る複数の林道が記載され、将木館同様に鉄塔が建てられていて、発掘調査も行われているのです。

鉄塔があるとなればそこへ至る保守管理用の道があるはずで、踏査は可能であると判断されました。

 

明前館が位置するのは野辺地町の北方で、有戸川によって形成された谷間に位置する太田新田、あるいは中新田の集落西方の丘陵上。

館の名前にもなっている明前の集落は西方の陸奥湾沿岸にあり、随分、離れている印象ですが、新田という以上、近世以降に開かれた新しい村落であると考えられるため、中世以前に遡る明前の地名を取ったといふことでせうか―。

館跡は南北に連なる丘陵の中の標高80mほどのピークに位置しており、西の明前方面と東の有戸川流域の両面を望見できる位置取りではないかと思います。

 

ピーク頂部の平場は50m×30mほどの楕円形をなしており、その裾部に二重の空堀を段々と設けている。

外側の空堀は南を半周する形で北側にはなく、丘陵尾根側に対する防備を固めているやうです。

縄張り図によると内部に6基、館の外に2基程度の住居址と見られる竪穴建物址があったようで、一見してアイヌ人のチャシとよく似ている構造だと感じました。

 

 〈鉄塔脚部より館阯。空堀は2段のテラスに見える〉

 

 

 

 

既に述べた通り防御性集落は以前は蝦夷館と呼ばれていた遺跡群です。

北海道のチャシの形態に類似し、その構築がアイヌ人によるとされていたもので(※1)、その数は50以上あるとされていますが、ほとんどが形態や表採される遺物からかく称されたものであって、古くからの記録・伝承を伴う例は稀でした。

明前館が特筆されるのは古くからインジ館と呼ばれていた点で、インジとはすなわちエゾのこと。

この館が防御性集落の代表格とされる所以です。

ただし、この名称が近世にまで遡るかはやはり不明ではありますが―。

 

 

ところで、下北半島や津軽半島には近世中期ごろまで狄(エゾ)と呼ばれる人々が住んでいたことが知られています。

狄の人々は海を越えて蝦夷地と往来し、アイヌと習俗や言語を同じくしていたといいますから言わば本州アイヌといふべき存在といっていいでせう。

後に津軽藩や南部藩の同化政策によって従来の習俗等を失ってしまうのですが、津軽や下北の人々にとってエゾは遠い昔の存在では決してなく、具体的な実像が想起されていたはずであり、こうした人々があえてエゾの館という伝承を残しているという点は重要なのではないかと考えるのです。

 

いよいよ明前館を目指します。

北方より有戸川沿いに谷間を南下し、下北縦貫道路(国道279号線)の下を潜ってほどなく、川の右手の丘陵上に見えてくる鉄塔のあるピークが恐らく館址なのでせう。

中新田側からの2本の林道は入り口からして笹に埋まり、立ち入るのに躊躇するほどですが、比較的、軽微な北側の林道へ分け入ります。

入口では背丈を越えるほどの笹も奥に進んで日当たりが悪くなると丈が短くなり、膝あたりといった所。

道幅は広く明瞭で、かつては軽トラくらいは往来していたのでせうか。

藪を漕ぐことしばし、ようやく尾根に出ると明前館の鉄塔と南の鉄塔とつなぐように踏み跡があり、右手へ進路を取ればようやく明前館に至ります。

地図を見るとこの南の鉄塔に向かって西方から縦貫道をアンダーパスして到達する道があるらしく、また南の県道5号線側にも林道の入り口が認められました(※2)。

 

さて、件の踏み跡は館址の南外に建設された鉄塔に対して伸びているのですが、さらに北東斜面の鉄塔へのアプローチを意図してか、一段高くなった館の外堀へと続いてゆきます。

館内は平場から空堀に至るまで綺麗に木が伐採されているために日当たりが良く、草本植物の天下である。

 

 

 <草が猛烈に繁茂する上面の曲輪内>

 

 

 

特に有棘の蔓植物が縦横に伸びて行く手を阻み、踏み跡以外は立ち入るのが難しい状態ながら、鉄塔管理の道は下段の外堀から上段の内堀へ上がり、堀内を突っ切って北東へ抜けているので最低限、館の見るべきところは押さえることが出来ます。

二重の空堀は現状においても外の土塁の高まりを維持しますが、下方より見るとに2段のテラスが取り巻いているようでもあり、お供え山式のチャシを想起させます。

 

ここでもう一度、地図を見直すと館の周辺は林道が縦横に走っていて、古くは尾根道と東西の平地を結んでいたようで、明前館がこれらの道を押さえる上で重要な位置にあることにも気付きます。

あるいは古代においても人々が縦横に往来していた道なのでせう。

道のいくつかは廃絶したとはいえ、一部の道によってアプローチが可能であり、かつ遺構を十分に残しているこの館が何故、忘れられてしまったのか―。

近傍に城址がほとんどなく、どこかに行ったついでに立ち寄るには骨が折れるからかもしれませんが、蝦夷館という名前と共に過去に追いやられてしまったような寂寥感を感じさせる道行きでした。

 

※1・・・構築主体や遺跡の年代に対する異論もあって蝦夷館の名称が適当ではないとして、防御性集落とよばれるようになった。

※2・・・実際にこれらに道が通行可能なのかは確認していない。

 

 

 <上段内堀内。踏み跡は人一人がやっと通れるほど>

 

 

 <下段外堀。千年の風雪に耐え、なおも堀の形態を残している>

 

 

 <西の上段内堀。もはや中に入るのは困難>