小長谷城(徳谷城・静岡県榛原郡本川根町)
SLの運行など鉄道の動態保存で有名な大井川鐡道はJR東海道線の金谷駅に端を発し、その名の通り大井川を北上して千頭駅に至るまで約40kmの道程です。
但し千頭は本線の終点であると同時に、井川ダムへと続く井川線の起点でもある。
地図上で見ると一本の線である両線ではありますが、井川線の方が軌間が狭く車両も小型。
さらに急勾配ゆえに一部に歯車の噛み合わせによって登坂するアプト式を採用するといふ他に類を見ない構造で(旧信越本線・横川―軽井沢間でも使用)、休日ともなれば多くの観光客で賑わいます。
温泉も湧出するといふ千頭駅の喧騒を離れ、大井川の東岸へ進むことしばし、小長谷城という小さな城址があることが知られています。
山椒小粒でピリリと辛いとはよく言ったもので、大井川鐡道が多くの観光客を集めているやうに、この小長谷城もシロ屋の間では知る人ぞ知る存在。
概ね100m四方しかない城跡ですが、その中に馬出や枡形虎口といった武田流縄張の精髄があるからです。
小長谷城が位置する本川根の地は東方、峠を越えれば静岡市であり、大井川を下れば駿遠国境の島田付近に至る。
かつては甲斐―駿河―遠江を結ぶルートの一つであり、武田氏は今川領侵攻の際、あるいは遠江に入った徳川氏との緊張関係に陥った際においてこの一帯が枢要な地となったのです。
なお当地には城名にある小長谷(こながや)を苗字とする小長谷氏が古くより一帯を知行しており、当城もまた永仁元年(1293)に小長谷則詮が築城したとの伝承があります。
三河の吉良氏、あるいは土岐氏の一族とされ、駿河入国後は当然の如く今川氏の被官となりました。
武田の今川領侵攻にあっては今川方に小長谷氏の名が見えていますが、その後、武田配下に転じたと見えて穴山梅雪麾下にその名を見出すことが出来ます。
当城もまた武田氏の下で改修がなされたことは間違いない。
徳川氏と緊張関係にあった時分には武田勝頼から穴山氏に対して田中城、小山城と共に当城のことと思はれる天王山の守りを用心するよう書状にて伝えられています。当城の守備体制は不明ですが規模の点からいえば在地の小長谷氏と与力の武田の守備兵が在城していたと見られます。
武田氏滅亡後は小長谷氏は徳川氏に仕え、家康の関東入国に従って当城も廃城となったのでせう。
嫡流の長門守家は旗本(宗家は1千石)となり、弟の覚仙の系統が一帯の代官、名主としてこの地にとどまりました。
城址は西に大井川を望む段丘上の高台にあり、今は徳谷神社の鎮座する所です。
神社の建つ曲輪から西へは緩やかな傾斜をなし、そこを三段に仕切る構造。
仮に上段・中段・下段と称するとして、上段・中段の西面のうち南半には土塁が認められるものの北では段差が不明瞭となっており、土塁も上・中・下の三曲輪全体を囲繞するかの如く外縁に連続して巡っています。
上段の南西、下段の西に枡形虎口を配していますが、何といっても白眉は上段の南東虎口外に連続して配置された重連の馬出で、とりわけ内側の馬出では南北両翼の出口が外枡形ならば、神社のある上段側の虎口も外枡形という念の入れよう。
内馬出南虎口外には馬出を連続させ、北虎口も二重堀によって動線を複雑化―と城よりも高所である東側の警戒に余念がありません。
なお城址の北は現在、B&G海洋センターがありますが、元は城の副郭であったとのことで、北側の集落を見下ろす位置にあります。
神社と海洋センター間の道はかつては堀で、神社側下段西の空堀と連続していたんださうな。
また、神社の郭や馬出の南にも腰曲輪が見られます。
鉄道にせよ、自動車にせよ、この城を訪ねるのはいささかホネではありますが、それに応えるだけの見所のある城址といえませう。