比叡尾山城(広島県三次市)
広島県北部にある山間の町・三次市。
広島駅より鉄道で1時間ほどの所にあり、地図で確認すると広島方面からの芸備線の他、岡山県の新見市から同じく芸備線、福山市からは福塩線が交わり、さらに数年前までは島根県の江津市との間に三江線が通じていました。
鉄道における要衝と言うことは取りも直さず交通の要衝であるに他ならず、陸路はもとより、江の川や馬洗川など河川を利用した舟運も活発でした。
中世、この三次一円を治めていたのが藤原氏から派生したといわれる三吉氏であり、鎌倉以来、長く山陰陽も結節点であるこの地に立脚して営々と続いた家柄である。
この比叡尾(ひえび)山城は鎌倉以来の三吉氏の居城と言われ、建久3年(1192)に近江より下向した佐々木秀綱が築いたとも、承久3年(1221)に藤原兼範が築いたともいわれていますが、比高200m超のこの険峻な山上に城は築かれたのはもっと後の世であると考えるべきでせう。
三吉氏は前述、藤原兼範の後裔とされていますが、一説には佐々木氏の流れとも。
いずれにせよ南北朝期には当地を拠点とした三吉氏の活動が確認され、この頃には比叡尾山城が築かれていたのかもしれません。
岩屋寺のある山などが連なる険峻な山塊の南には畠敷の集落が広がり、平時はここを城下としていたものと思われます。
中世後期においては山名、大内、尼子と時々の地域権力の趨勢に応じて盟主を替えており、一時は南の毛利氏とも干戈を交えましたが、天文22年(1553)、当主の隆亮と父・致高は毛利元就に起請文を送って、以後はその傘下として各地に出陣しています。
さらに隆亮の妹(一族の娘とも)は元就の側室となって男子をもうけるなど毛利体制下における立場も安定。
天正19年(1591)、隆亮の跡を継いだ広高は西方の比熊山に新城を築いて移り、比叡尾山城は廃城となりました。
件の比叡尾山城は南に馬洗川を見下ろす標高420m(比高220m)の山上を中心に築かれた山城である。
山頂の本丸から主に南尾根へ曲輪を展開。
まず最高所の本丸は上・下段の二段構えで、北下に北曲輪を半円形に配置し、北面に低い土塁を構えています。
本丸から南に下ると二の丸、次いで南北に長い三の丸があり、さらに南には堀切があって南の曲輪との間を隔絶する。
ここから南下にも数段の削平地が続く一方、東の谷間にも段々と平場が展開し、恐らく屋敷が置かれていたのでせう。
この城で注目されたいのは本丸内の段差で、例えば上段と南西の一段低い下段の段差に小規模ながら石垣が見られます。
最も目を見張るのが本丸東面の下の北曲輪であり、相当数の石材が一面に散開するサマから往時の景観が偲ばれる所。
すでに積まれた状態の石垣が見られないの破却された結果であらんや。
もう一点、注目したいのは三の丸南の堀切について。
この南の曲輪には虎口が開かれ、今は杉林となっている中を進むと左手に上段へ誘うスロープ状の土塁があります。
ここを登って上段へ達したと思うとすぐ目の前が堀切で、対岸から狙い撃ちされてしまうというトリックになっている。
これと似た構造を滋賀県甲賀市の山中城で見たことがありますが、なまじ高台に登ってしまったがために堀切の深さが増して難渋すること必至です。
ちなみに私もうっかりこちらに進んで引き返す羽目になりました。
山麓に鎮座する熊野神社は室町後期に建立されたといふ校倉造の宝蔵など三吉氏ゆかりの文物を伝える古社で、比叡尾山城の案内板や駐車場があって城址巡りの起点となっています。
険阻な城址ではあるが、北後背には間近まで林道が達し、地元の住民によってよく手入れもなされているので主要部を巡るには難儀しません。