横綱・鶴竜と付け人たち
やや旧聞に属することですが、去る三月場所中、陸奥部屋の横綱・鶴竜が引退しました。
この所、休場が続き、横槍審議委員会から‘注意‘の決議を受けていたこともあり、再起を期しながらも土俵に上がらずに引退のやむなきに至ったことは残念でなりません。
入門当初から抜群のセンスと呑み込みの早さがあって体さえ出来れば関取となるだろうことは予想できたが、その後、横綱の栄位を極め、優勝6回を数えるに至ったのは誠に努力の賜物でせう。
部屋内での稽古相手が少ない中で、出稽古や筋力トレーニングにも余念がなく、優等生と言われながら内に秘めたる負けん気は相当なものでした。
特筆するべきはその負けん気を容易に表に出さぬ点で、時に悔しいと思うことがあってもグッと耐えて、それを自らを高めるための糧とした。
それだけ鍛えぬいたからこそ35歳まで現役を続けてこられたのでせうが、一方でその多大な負荷が怪我を招く要因ともなってしまったかとも思います。
勿論、この横綱にもウィークポイントがありますが、それはまた追い追い語ると致しまして―。
今回、注目したいのは鶴竜の付け人である。
付け人とは関取の身の回りの世話をする若者力士(幕下以下の力士)のことで、並みの関取であれば2~3人がつく所、横綱ともなれば綱締めのためもあって8人が必要となります。
ところが、当時、鶴竜が所属していた井筒部屋は由緒ある名門ながら力士数人の小所帯。
部屋の中だけでは手が足りず、大関時代より他の部屋に応援の力士を頼んでいました。
当初、応援の力士を出していたのが師匠同士が兄弟といふ関係のあった錣山部屋。
その後、錣山部屋が時津風一門を離れると中川部屋や追手風部屋といった一門はもとより、高砂部屋、錦戸部屋、八角部屋など高砂一門の力士たちも付け人を務めました。
昨今は力士数の減少もあって横綱の付け人を一部屋から出すのも難しい折柄、複数の部屋の力士の混成となることは珍しいことではありませんが、これだけ各部屋、しかも他の一門までに跨るのは流石に異例のこと。
さらに注目するべきはこの中から関取になった力士が少なからずいるといふ点です。
まず先陣を切ったのが大関時代の付け人であった錣山部屋の青狼(最高位・前頭14=引退)。
同じモンゴル出身であったことから入門当初から目をかけられ、後には優勝旗手も務めました。
同じく錣山部屋からは彩(十両11)、王輝(十両13)が十両に昇進している他、短い期間ながら阿炎(小結)も付け人を経験。
阿炎の場合は一旦、十両に上がるも陥落した後に付け人となったもので、十両に再昇進後は順調に番付を上げて鶴竜から金星を挙げる恩返しを果たしました。
錣山部屋以外にも阿炎とは高校の同窓という追手風部屋の大翔鵬(モンゴル出身・前頭9)、錦戸部屋の極芯道(十両13)も関取に昇進。
元々、有望な力士ではあったのでしょうが、本場所や巡業において鶴竜の厳しい姿勢を間近に見たことは大いにプラスとなったことでしょう。
一方で鶴竜としても従来、後進を育てるという意識が必ずしも高くはなく、今後を考える上でウィークポイントになっていたのが、他の部屋の若手力士と深く接する中で意識の改善が図られたものと推察される。
さらに所属が若手力士の多い陸奥部屋に移ったことで、より日常レベルで後進を指導する立場となったことは将来、部屋を経営する目標があるのならば非常に有益な経験となったことでせう。
さて、再び付け人の話に題を戻すと、かつて鶴竜の付け人であった力士の中には幾人かの関取予備軍が控えています。
すでに幕下上位経験の長くなっているモンゴル出身の玉正鳳(高島→中川→片男波・幕下6)はその最右翼で、他には錣山部屋の大和嵐(幕下26)など。
さらに陸奥部屋では期待された霧乃龍(幕下38)の引退は残念であるが、ここにきて霧ノ富士(幕下18)の躍進が顕著であり、今後が注目される所です。
勿論、関取を経験しながら今は幕下以下に甘んじている力士にも注目したい所で、不祥事で番付を下げている阿炎は早晩、元の地位近くまでは戻ってくるでしょうが、彩、王輝、極芯道改め福島の巻き返しにも期待したい。
また、苦楽を共にした井筒部屋の鋼(幕下16)、鶴大輝(三段目30)、朝青龍の付け人だったことから指南役となった高砂部屋の神山(三段目30)、惜しくも関取に届かなかった錣山部屋の寺尾(幕下10=引退)、中川部屋の春日国(幕下筆頭=引退)なども忘れえぬ付け人です。
師匠の急逝により井筒部屋がなくなってより1年半―。
今後の部屋経営に意欲を語る鶴竜がどのような形でその遺志を継ぐのかはまだ未知数ではありますが、私としてはウィークポイントと見ている新弟子の勧誘でどれだけ汗を流せるか―が重要な鍵となってくる。
コロナ禍の影響で断髪まで時間がある分、焦らずに休養しながらも研鑽を積んで、親方としても活躍してほしいと思っています。
ともあれ20年間、お疲れさまでした。