泗川城(船津里倭城・大韓民国泗川市) | 星ヶ嶺、斬られて候

泗川城(船津里倭城・大韓民国泗川市)

 

 

釜山から西へ離れ泗川(サチョン)市へ。

南江(ナムガン)が晋州湾に注ぐ河口の要地で、市の南部・三千浦(サンチョンポ)から釜山へはフェリーを用いて行くことも出来ます。

 

ここ泗川の倭城は釜山を中心とする倭城群の中でもかなり西に外れた位置にあり、これより西となると順天(スンチョン)、南海(ナンヘ)の2城しかありません。

一方の東は約30km離れた固城(コソン)まで分布がなく、これより東、釜山までの間が倭城の集中するエリアです。

倭城の全体を俯瞰した時、やや内陸まで進出しているのは釜山特別市周辺のみであり、そこから西や北に対しては海沿いの港湾に接した所にしか所在しない。

即ちこれら倭城は水軍による連絡、補給があって初めて存立し得るものであり、制海権の掌握が極めて重要な命題でありました。

 

第一次出兵である文禄の役後半には李舜臣の登場で苦戦を強いられていた豊臣水軍でしたが、第二次出兵の慶長の役の勃発後ほどなく、舜臣が失脚したこともあって慶長2年(1597)7月の巨済島の海戦で朝鮮水軍に大勝、半島南岸の制海権を確保しています。

 

泗川に島津義弘、忠恒父子が入って築城を開始したのが慶長2年の10月末のこと。

長宗我部元親、中川秀成らの助力もあって城が完成したのが12月末といいますから相当なスピードです。

 

以後、島津父子は泗川に在城して北の晋州等までを掌握していましたが、慶長3年の9月末、明・朝鮮の大軍がいよいよ泗川へと来襲する。

攻撃側を指揮するのは明の提督・薫一元であり、すでに守勢であった日本勢に対し、一気に大勢を決せむと仕掛けた大攻勢の一環でした。

 

迎える島津勢は晋州など周辺に展開する泗川に集約。

泗川城の北東には邑城があり、ここにも川上忠実率いる一軍が依拠していましたが、敵勢に対し余りに寡勢とあって奮戦空しく城を放棄して泗川城へ撤退のやむなきに至ります。

余勢をかっていよいよ泗川城に迫る明・朝鮮の大軍に対し、島津方はあえて待ちの戦術に徹し、敵勢が城に肉薄するや鉄砲の斉射をもって猛然と反撃に転じました。

さらに配置した伏兵の働きもあって総崩れとなった敵勢への追撃は苛烈を極め、島津父子自らが先陣に立って追いまくり、最終的には3万9千近くの首級を討ち取るという大勝をもって内外に島津の武名を轟かせる結果になりました。

 

しかしすでに豊臣秀吉がこの世にない状況でありましたから、島津氏は11月16日に泗川城を焼き、撤退するべく巨済島で近隣の諸軍と合流して順天の小西行長と待ちます。

一方の順天は沖合の制海権を奪われて脱出あたわずとあって島津氏らは水軍を差し向け露梁(ロリョン)で明・朝鮮の水軍と海戦に及び、多大な犠牲を払いながら敵将・李舜臣を討ち取って小西軍の脱出を助けました。

この戦いをもって両軍の大規模な戦いは終わり、日本軍は引き上げて終戦を迎えました。

 

さて、泗川城の縄張を概覧するに、北に泗川湾の入り江が入り込む台地端を占地し、湾の入り口を見下ろす北西に東西に長い本丸を配置、そのまた北西に天守台をおいて湾の入り口に睨みを利かす構えでした。

 

 

 ‹現地案内板の縄張図。あくまで現状のもので南東の構えが珍妙›

 

 

 

虎口は南西及び南東に開かれ、南から東にかけては帯曲輪状の平坦地を置き、南東虎口外で南へ突出して広い曲輪を形成しました。

また本丸北西天守台下には堀で隔てられた馬出のやうな小郭があり、水軍の基地となった下の湾に臨んだ平坦地に連絡していたのでせうか―。

東に下って二の丸があり、さらに東に三の丸を置いて、東に続く台地との間は巨大な堀をもって分断、延々と土塁を築いて多くの兵員を収容しつつ強固な防塁としていました。

 

 

 ‹天守台と南の城塁›

 

 

本丸南は現在、集落があって旧状がわからなくなっていますが、この方面の台地上も本来は土塁等によって囲繞していたのかもしれません。

城があるのは比高30mほどの丘陵ですが、谷が複雑に入り組む地形であり、これをうまく包括して防衛線としている。

 

城域で石垣を用いているのは本丸のみで(二の丸は畑となり未確認)、突貫工事とあってか、大半は土塁を用いているのが特徴。

現在は船津(ソンジン)公園としては本丸、三の丸が整備され、春は桜の名所としてにぎわう。

本丸は石垣が積み直された上に城門(南東虎口)まで復元されていますが、この虎口の西前面に独立した櫓台状の小郭(本来は本丸の一部だろう)を造ってしまうなど整備の行き過ぎと見られる例も―。

 

 

 ‹復元された城門。姫路城の門をモデルとしたという›

 

 

 <城門の前面に独立した巨大な櫓台状の一画が出現>

 

 

 

丘陵上の東莱府城の城壁に見られる如く韓国における史跡整備はかなり徹底して行われる傾向がありますが、時としてそれが過度の整備につながる場合があるということでせう。

本丸周辺の石垣はことごとく公園化の際に積み直され、ほとんど旧状を残していない上に改変されているところも多いとの指摘もあります。

とはいえ韓国側にとって負の遺産を大々的に整備し、桜の名所として市民に親しまれる公園としている点では評価するべき所もあるかと思います。

 

泗川へのアクセスは釜山や晋州からバスを利用するのが一般的であり、泗川のバスターミナルから倭城へはタクシーを利用しました。

 

 

 ‹桜が植えられた本丸内。散歩する人もちらほら―›

 

 

 <南から件の櫓台へ続く石垣>

 

 

 <畑となった二の丸。私有地につき奥までは踏み込まず>

 

 

 <二の丸北に開口した空堀>

 

 

 <長大たる三の丸の土塁>

 

 

<南の湿地より見上げた三の丸の土塁>