機張邑城(大韓民国釜山特別市) | 星ヶ嶺、斬られて候

機張邑城(大韓民国釜山特別市)

 ‹現状の邑城図›

 

 

 

前回記事で取り上げた機張(キジャン)城は機張中心部から見て東の郊外・竹城里ににありますが、旧来の市街地は機張駅の西側を中心としていました。

この方面には海産物の市場があり、名物のカニを商う店が軒を連ねて中々に賑やかです。

この市場からすると邑城があるのはさらに西であり、後背には山地を背負う形となる。

今日、城壁の真下を道路が潜ることが特徴的な機張邑城は古くは機張郡の邑治。

かつて朝鮮の行政区分は8道の下に府や都護府、牧、郡、県などが置かれ、それらの庁舎が置かれた所を邑治と呼んだもので、このうち、城壁で囲まれたものを邑城と呼びました。

ちなみに中国や朝鮮の行政区分では郡は県よりも上位の位置づけです。

 

朝鮮全土において300以上あった邑治のうち、邑城が築かれていたのは120ヶ所ほどだったと言ひます。

邑治がその後の都市として発展した事例が多いこともあって城壁を良好に残す邑城は多くはなく、代表的なものは楽安邑城(全羅南道)、高敞邑城(全羅北道)、海美邑城(忠清南道)などがあります。

全羅北道の全州邑城などは平地に方形の城壁をもって囲繞していますが、実際は東莱府城のように周囲の丘陵を取り込んで一体的に城壁で囲繞するパターンが多く、倭城の登り石垣による城域の一体化のモデルもここにあるものと思われます。

 

なお邑城の城壁によって守られていたのは東軒や客舎といった行政機関や役人の官舎であり、一般の町屋は城壁の外にありました。

この点は日本の城郭が往々にして家中屋敷を土塁・堀で囲繞しても町屋を城外に置くのと似ている、ともいえるでしょうか。

邑城はあくまでも政治・行政のための施設であったといふことでせう。

 

 

 ‹現存する将官庁の建物›

 

 

前置きが長くなりましたが機張邑城は現地案内板によると1356年の築城。

機張県の設置は757年であり、その後、造営された邑城は元々、他所(校里)にありましたが、倭寇の来襲でで焼亡したため現在地に移されたのだそうです。

邑城が海岸から離れた内陸にあるのはそのためで、港を擁する竹城里には防御を目的とした鎮城が置かれました。

 

豊臣秀吉による朝鮮侵攻の際の対応のついては記述がありませんが、朝鮮南部の城は宋象賢の守る東莱府城及び釜山鎮城を除いてほとんど抗戦しなかったというので、機張邑城も同様であったでせう。

今に残る城の構造を見ても大軍の攻撃を支え得るやうな構造とは言えません。

 

邑城の構造は北が高く台地上にあり、南の平地へ向かって城壁が緩やかに下る構造で、東西が約240m、南北が約400mの大きさ。

各面1ヶ所の4門があるうち、いわゆる大手として最も規模が大きかったのが南門でした。

 

 

 <発掘であらわになった南門の甕城>

 

 

現状残る城壁は高台に巡る北東部と南に向かって下る南西部で、最も低い場所にある南辺は主に土塁として残り、一部に石垣が見られます。

南辺城壁中央には半月上の甕城のある南門が開口し、塁の外には堀である垓子(ヘジャ)が巡る上に横矢をかけるための突出部である雉城(チソン)も見られます。

門を入った所に往時と現況が混ざったやうな邑城の図が掲げられていましたが、土塁化した城壁周囲を更地化して区画しているところを見ると、城壁をかつての如く石垣として復元する計画なのでせう。

航空写真を見ると元は家屋があった模様であり、近代に入って邑城が廃絶した後、石垣が撤去され、家屋が建てられたものらしい。

 

 ‹南の城壁址の土塁と堀である垓子›

 

 

従来、最も残りがよかった北東部は城壁の下を道路がアンダークロスして潜っている所を南限として石垣の城壁は北へ展開。

南門に較べると規模の小さい甕城のある東門の跡があります。

 

また城内にはかつての将官庁の建物が残っていて、こちらも整備されて公開されています。

都市部にある邑城としてはよく残っている部類であり、観光名所となっている市場からも近いので併せて見学するのをお勧めしたい。

数年後には南の城門や石垣が復元され、現状とは景観が大きく異なっている可能性があります。

 

 

 

 <東の城壁と下をくぐる道路。まるでガード下> 

 

 

 <旧来の雰囲気が残る東の城壁.。ガード下よりも北>

 

 

 ‹北東隅近くの東門址.。手前が甕城›

 

 

‹木々や周辺の景観に埋もれ行く西の城壁›

 

 

 ‹巨石を多用した南門東の城壁›