大森城(滋賀県東近江市) | 星ヶ嶺、斬られて候

大森城(滋賀県東近江市)

 

 

飛び出し坊や発祥の地として名高い東近江市―。

といっても平成の大合併で誕生した東近江という地名はどうも捉え所がなく、具体的な場所がイメージしにくいところです。

中心となっているのは旧・八日市市で、旧・神崎郡を中心に蒲生郡、愛知郡を包含するという、地図で見ても一体性を感じられない広域連合を形成している。

 

さて、今回ご紹介する大森城は旧・八日市市の東部にあり、路線バスも近江鉄道の八日市駅から発着しています。

前回記事・西山城の南麓には近世、交代寄合となった朽木氏の陣屋がありましたが、実は大森城のある大森にも交代寄合の陣屋があります。

大森に陣屋を置いたのは奥州探題にして斯波一門の名家・最上氏5千石であり、いかに交代寄合とはいえその身代はかつて57万石を謳われた大大名の末路としてはいささか寂しい気もします。

 

閑話休題―。

本題たる大森城は布施淡路守が城主を務めた、とされる城です。

布施氏は近江守護・六角氏の有力被官であり、本家は布施郷(東近江市)を本拠とした三河守家。

しかし一門の淡路守家はそれに匹敵する実力があったものと思われ、永禄10年(1567)制定の分国法「六角氏式目」に淡路守公雄が名を連ねているし、六角氏の本拠・観音寺城(安土町)の城域の東端に独立性の高い布施淡路丸があることも注目されます。

 

六角氏没落後、公雄の子・公保は織田信長の馬廻衆となるも本能寺の変で落命したと思われ、その子・友次は出羽の太守・最上氏に仕えた、と現地の説明版にはあります。

ここでいきなり最上氏の名が出てくるのには吃驚してしまいますが、よくよく考えると冒頭で述べた通り、交代寄合となった最上氏がその領国の主邑として陣屋を構えたのが大森であったというのはさらなる驚きと言う他ない。

 

友次以降の布施氏の動向はわかりませんが、57万石から5千石へと身代を減らした最上氏の家中に外様の立場で踏みとどまったとは到底思えませんので、大森の故地に最上家臣として戻ってきたといふことはないでせうが、その運命のいたずらを思わずにはいられません。

しかも最上氏の大森陣屋は元をただせば大森城を詰めの城とした布施淡路守家の平時の居館であった可能性が高いのです。

果たして、当の最上氏はこのことを知っていたのでしょうか?

 

大森城が位置するのは大森の集落の南に横たわる丘陵上、標高230mの小ピークであり、大別すると上下二段の構造である。

 

 

<現地案内板の縄張図。上が北> 

 

 

山頂上段は東西2郭に分かれ、東が最高所の主郭です。

土塁に囲まれた主郭の虎口は西に開かれ、左折れの枡形状をなしている他、北東隅、下段曲輪を囲繞する土塁上からも往来ができるようになっています。

上段のうち主郭の西下の曲輪は南の一部に土塁があるのみで、北西部はやはり下段の土塁と連続する。

 

上段から北の下段への連絡は東西土塁上の他、中央部にまっすぐスロープを造って左折れの枡形状の虎口へ至るという他に余り例のない通路を構築。

左→右と曲がってそのまま主郭西の枡形に接続、進入します。

 

 

〈下段より上段へのスロープ状通路(写真中央奥)〉

 

 

下段の曲輪は周囲に自然地形を活かしたものと思われる高い土塁が巡り、虎口は北と西に開かれています。

いずれも平入ではありますが、アプローチとして土塁の下を通らねばならないのが寄せ手としては辛いところでありませう。

東西の接続する尾根には竪堀を穿って痩せ尾根とし、城域は完結します。

 

全体に大きい城とは言えませんが、塁線が一体となった構造や上下段を結ぶスロープや虎口の構えなど見どころは少なくありません。

 

城への登山口は大森神社後背より。

この神社もまた布施氏、最上氏の篤い崇敬を受けた古社です。

 

公共交通機関利用の場合、東近江市コミュニティバス(ちょこっとバス)の沖野玉緒線の玉緒駐在所、もしくは市原線の下大森下車。

 

 

 

<土塁が巡る上段の主郭内> 

 

 

〈主郭西の枡形状虎口。進路正面が櫓台状の土壇をなす〉

 

 

〈尾根を土橋のごとく削り、馬の背とした主郭東尾根〉

 

 

〈下段西の虎口(郭内より)〉

 

 

〈小ピークを利用した下段北の土塁〉