幕末維新力士伝(35) 明治天皇と相撲 | 星ヶ嶺、斬られて候

幕末維新力士伝(35) 明治天皇と相撲

久しくぶりとなる幕末維新力士伝―。
以前の記事で力士のマゲを守るのに明治天皇の特別の配慮があったといわれる如く、維新時の混乱の中で明治天皇の果たされた役割は極めて重要でした。
そこで今回は明治天皇と相撲の関係を取り上げてまいります。

その明治天皇は、といえば自らも相撲を取るくらいの相撲好きであったとはよく言われる所です。
幼少より気性が荒く、体も大きかった帝は側近らと相撲を取っては負かして悦に入っていましたが、侍従で武芸に通じた山岡鉄舟には歯が立たず、かえってたしなめられたといふ逸話は広く人口に膾炙している所でせう。


ところで、この天皇の相撲好きに関しては天皇の出生に関するある異説とからめて語られることがある。
それは世上、秘かに語られている゛明治天皇すりかえ説゛で、明治天皇の正体を実は長州出身の大室寅之助であるとし、この寅之助が長州藩の奇兵隊の一部隊・力士隊に在籍していたといふのです。
寅之助は長州に逃れていた南朝(大覚寺統)の後裔であると言われ、伊藤博文の庇護の下、その麾下にあった力士隊に属し、さらに明治天皇になりかわったのだとか―。
ちなみにこの幕末から明治への転換期は明治天皇はまだ10代半ばと若齢であり、天皇と同年代の寅之助は正式な力士隊士というよりはその下で稽古をつけてもらい鍛えられた立場であったものらしい。
これが後年、明治天皇が相撲を好み、かつ中々に強かったと言うこと関連して語られる゛すり替え説゛の概要にて―。

確かに近代に入って本来は北朝・持明院統の流れである国家元首・天皇の治世下において、ことさらに南朝を賛美する向きがあったのは奇妙なことではあるが、真相は勿論、明らかではない、というより公には否定されている異端の説であり、ここでその真偽を問ふことはいたしますまい。

閑話休題―。
明治天皇が相撲を好んだことを端的に示す事実が天覧相撲の多さです。
以下、列挙すると―、

慶応4年(1868)4月17日  大阪・坐摩(いかすり)神社  ※京都相撲
明治5年6月6日       大阪・造幣局   ※大阪相撲
明治14年5月12日      東京・島津忠義別邸  ※以下、東京相撲
明治17年3月10日      東京・浜離宮延遼館
明治18年11月27日     東京・黒田清隆邸
明治21年1月14日      東京・弥生神社
明治22年5月24日      東京・西郷従道別邸
明治23年2月15日      東京・偕行社
明治25年7月9日      東京・鍋島直大邸

以上、9回の多きに渡り、とりわけ明治17年の延遼館での天覧相撲は新聞報道でも話題となって下火となっていた相撲人気回復の起爆剤となりました。
ちなみに明治天皇の初の天覧の栄誉に浴したのは孝明天皇の御世以来、禁裏の警護等に功のあった京都相撲の力士たち、ついで勤王思想の強かった陣幕久五郎(横綱)が総長の地位にあった大阪相撲が続いており、興行の不振にあえいでいた東京相撲はその後塵を拝することになりしましたが、皇城が東京にあった強みもあって、明治14年を皮切りに7回の天覧相撲が行われました。
なおこれに先立つ明治3年には天皇の駒場での閲兵のための行幸に際し、東京力士が錦旗を捧持して主上の露払いとなりましたが、相撲そのものをご覧にいれる機会が訪れなかったのです。


<初の天覧相撲が行われた坐摩神社(大阪市中央区)>


明治天皇は明治45年7月30年に崩御し、その御霊は大正9年、原宿の明治神宮へと祀られます。
東京相撲はかつての大恩に報いるべく神宮に付属する外苑の地固めの神事において相撲を挙行し、さらに大正14年の御例祭の折には奉納相撲を開催、これが今日73回(平成27年6月現在)を数える全日本力士選士権大会の嚆矢です。
さらに明治神宮の外苑にあった相撲場では戦後の一時期、本場所の舞台となっていたこともあり、現在も1月と前記、選士権大会の折には横綱土俵入りが奉納されています。
昭和26年からは従前の熊本の吉田司家にかわり明治神宮で横綱推挙状の授与式が行われており、非常に相撲とゆかりの深い神社として特筆されます。