舘山城(山形県米沢市) | 星ヶ嶺、斬られて候

舘山城(山形県米沢市)





近世、上杉氏の城下町として知られる米沢は元は南奥の雄・伊達氏が本拠を置いた所です。
伊達氏はその苗字からもわかる通りは、本来は今の福島県の伊達郡を本貫としており、その居城も梁川や桑折西山等、伊達郡内に置かれていましたが、天文17年(1548)に至り15代当主の晴宗が米沢に本拠を移しました。
この時、伊達氏が入ったのが後に上杉氏も居城とする松ヶ岬の米沢城とされていますが、実は伊達・米沢城にはもう1ヶ所、候補地があります。
それが米沢市街の西方、突き出た丘陵突端に位置する舘山城。
戦国乱世のことなれば平城より山城の方が相応しいとするのがその論拠です。

旧記によれば伊達時代の米沢城には゛かけづくり(懸造り)゛があったとされ、この点でも山城の舘山城の方が相応しいと見る向きもあります。
懸造りとはその最も有名なのが京都の清水寺の舞台であり、斜面や崖に建物を張り出させる構造で後に伊達政宗が居城とする仙台城でも採用されています。

ところで舘山城ですが、伊達氏の米沢入部以前からあった城のやうで、奥州藤原氏の流れを汲む新田氏の居城だった模様です。
新田氏は米沢盆地に本拠を置いていた長井(大江)氏の旗下でしたが、長井氏が伊達氏に滅ぼされた後は伊達氏に臣従。
しかし、新田氏は元亀元年(1570)に当主・義直が伊達氏に叛いたために討伐されてしまいます。

なお、松ヶ岬の米沢城からは発掘で中世の遺構が出土しており、平時の居館が松ヶ岬にあり、舘山城を詰の城としたとも考えられませう。
記録では天正12年(1584)に伊達輝宗がこの城を隠居所とし、さらに15年には政宗によって大規模な改修がなされた、とある。
政宗は城下を大規模な土塁で画し、城下建造にも意欲的でしたが、ほどなく会津黒川(福島県会津若松市)に居城を移し、さらに国替えによって岩出山(宮城県大崎市)へと移りました。

伊達氏の国替えと同時に廃城になったと考えられていた舘山城―。
ところが発掘の結果、意外な遺構が出土したのです。
それは桝形門の周囲を固めていた織豊系穴太積みの石垣の痕跡であり、どうやら伊達氏後に一帯を治めた蒲生、上杉による改修がなされたであろうと考えられるやうになったのです。
とりわけ関ヶ原合戦を前に領内各地の城を改修した上杉氏の影響が大きいのではないだろうか。


<発掘された本丸桝形。整形された根石が出土>


城の構造そのものは単純と言ってよい。
丘陵突端から本丸、堀切を隔てて二の丸と連ね、丘陵続きで高くなる西方に堀切に囲まれた物見台を配置、ここが城内の最高所であり、本丸が最も低い。
本丸西には件の石垣が出土した桝形門が開かれ、屈折する塁線から横矢がかかる構え。
本丸には南にも門が開かれ、下った所の登山口に桝形門がありました。
これは伊南(福島県南会津町)の久川城にも見られる結構です。
大樽川と小樽川に挟まれた山麓には北館、南館と仮称される居館があり、さらに西には土塁に守られた城下が広がっていました。


<現地説明板の縄張図。南が上>



なお、舘山城の石垣については従来、伊達政宗が築いたとする見解が主だったが、先年、出土した石垣は加工度が高く、柏木城(福島県北塩原村)に見られるような石積みではなく、織豊系の特徴が歴然としており、しかも登山口の桝形などは伊達氏が領有し得なかった南会津の久川城の遺構と酷似している点から伊達氏後の領主によって現在見る形態にな
った考えるべきでせう。
従来、蒲生、上杉時代の記録がないことからこの城の最終段階を伊達氏時代としていたやうですが、現状の遺構からすれば伊達氏移封後の利用を考えなかったのが不思議なくらい。

城址は現在、山林ですが、今後も発掘調査が継続され、整備する方針のやうです。





<山林となっている本丸>



<本丸西の桝形虎口>


<本丸西の堀切。奥が桝形>


<二の丸西の大規模な堀切は水発へ向かう水路で改変>


<立ち上がる西端の物見台>

<南下の登山口を固める桝形>