佐川城(高知県高岡郡佐川町) | 星ヶ嶺、斬られて候

佐川城(高知県高岡郡佐川町)





さて、前回は佐川、中村氏が居城とした佐川城こと松尾城を取り上げましたが、同じく佐川城と呼ばれる城が、松尾城のある松尾山からJR土讃線・佐川駅を挟んだ南側、古城山上にあります。
むしろ佐川城と一般に言う場合はこちらの城を指す場合が多く、観光案内でも松尾城が無視されているのに対して古城山の佐川城は掲載されていたりする。
現状、古城山が牧野公園となり、桜の名所、住民の憩いの場となっている事情も大きいでせう。
勿論、歴史的にも戦国末期から近世初期の佐川城の存在感は土佐国内において小さからぬものがあります。

古城山の佐川城を築いたのは久武親信(内蔵助)。
長宗我部元親の家老であり、伊予方面の進出するに際しては軍団を束ねた重臣中の重臣です。
岡豊城にあって勢力を伸張させていた元親は元亀2年(1572)、松尾城の中村信義を下し、同地に久武親信を封じたのです。
親信は当初、松尾城に入ったやうですが、水の確保が困難であるのを嫌い、古城山に新たに城を築きました。

親信は四国制圧に奔走していた長宗我部勢の中でも伊予進出の主将として活躍しますが、天正7年(1579)、伊予岡本城(宇和島市)を巡る攻防で討死。
城を守っていたのは石城の記事にも登場した土居清良です。

親信なき跡の佐川城は弟の親直が相続し、兄に引き続いて伊予方面軍を指揮するとともに内政面でも多大な影響力を発揮しますが、讒言や粛清など敵対勢力を蹴落としたとしてその評価も芳しくない。

関ヶ原合戦後、長宗我部氏が没落し、山内一豊が土佐に入封すると、家老・深尾重氏が1万石をもって佐川領主となり、城を修築していますが、ほどなく一国一城令で廃城となり、東麓の磐井谷に居館である゛土居゛を構え、以後、明治維新まで佐川を治めました。
長宗我部支配下では重臣筆頭格の久武氏が入り、土佐藩においても家臣中、最大の大身である深尾氏が治めた点から、この佐川の重要性は推して知るべしであろう。

しかるに佐川城もまたその格に違わぬ雄大な城址を今に残しています。


<現地案内板より。図の範囲はあくまで全体の主要部>


古城山の山頂に本丸を置き、堀切を隔てて北に二の郭を配置、その下は北と東に分かれた尾根に曲輪を展開しています。
大手と言えるの北の尾根で、尾根突端の見晴らしの良い所には物見岩の巨石があって下界を睥睨している。
岩より下方は段々と腰曲輪が下り、はっきりとそれとわかる竪堀も一条、西の谷へ下る方面にも広い削平地が見られます。


<北の尾根の突端にある物見岩>


山の懐に抱かれた谷は゛奥の土居゛と呼ばれ、城主の居館があったとかや。
今は深尾氏の菩提寺の青源寺や公園がある所で、居館跡と目される谷の奥部は薮化していて現状は不詳です。
因みに二の郭から東尾根を行くと土居のある磐井谷へ―。

以上が城の表の顔だが、実は本丸から南の切岸を下るとさらに曲輪が続いています。
切岸下の平地から堀切を隔てて広く詰の段があり、その奥、西方から奥の土居を廻って谷の西の峰にまで遺構が続いているのです。
詰の段より先は小平坦地や堀切が要所にあり、最奥部となる西の峰には畝状阻塞に囲まれた曲輪がひときわ異彩を放っています。
畝条阻塞は高知中西部では珍しくない遺構ながら松尾城との共通性を感じずにはいられない。
松尾城は佐川、中村氏、佐川城は久武、深尾氏の居城というが、この畝状阻塞を構築したのは同一の築城者ではなからうか。

一方、この城には新しさもあり、二の郭の東下には見事な野面積みの石垣があり、本丸には天守台、二の郭には櫓台が存在する。
天守台、櫓台付近には瓦片が見られるのでその名に違わぬ建物があった可能性が高いと思はれます。




<本丸。奥が一段高く天守台>

<二の郭北端の櫓台。低い土塁が巡る>

<二の郭東下の石垣>

<詰の段よりさらに西へ分け入った所の堀切>

<西の峰の畝状阻塞>

<西の峰西の堀切>

<東麓、佐川土居の馬場石垣は長大に残る>