法華津本城(愛媛県宇和島市) | 星ヶ嶺、斬られて候

法華津本城(愛媛県宇和島市)






法華津(法花津、ほけつ)と聞いて北京五輪に史上最高齢で出場した馬術競技の法華津寛選手を思い浮かべる方もおるかと思いますが、その先祖は伊予で水軍を率いて勢力のあった法華津氏であるそうです。
法華津氏が本拠とした法華津とは今の宇和島市、かつての吉田町の内で、JR予讃線・宇和島駅より宇和島自動車の路線バス(田之浜行き)が運行しています(伊予吉田、立間駅からも乗車可)。
現行の地名としては玉津であり、三方を山に囲まれ、南は宇和島湾からさらに湾入した法華津湾が穏やかに広がります。

法華津氏の本姓は清原氏で、法華津殿清原氏と呼ばれることも―。
あるいは清家氏とも称しました。
記録に表れるのは15世紀からで、法華津を中心に周辺の浦々や戸島、日振島にまで勢力を蓄え、水軍を組織したことが知られている。
一説に法華津在城以前は吉田湾頭の犬尾城を居城にしたとも言われ、後年、犬尾城や近くの石城を枝城としていました。

一方、宇和郡一帯で勢力を持っていたのは西園寺氏であり、法華津氏もその麾下に入っていましたが、戦国期に入ると海を隔てた豊後より大友氏の船団が度々来襲するやうに―。
大友氏は南予支配をにらんで西園寺氏の本拠・黒瀬城(宇和町)侵攻を目論みますが、その上陸地点となったのが宇和島湾の浦々でした。
これに対する西園寺側の主力は法華津範延率いる水軍であり、あるいは石城の土居清良ら。
大友氏が南に上陸地点を移すと丸串城(後の宇和島城)を築いて数十度にも渡る襲来を退けました。
永禄3年(1560)には法華津氏は一度は大友氏に降伏し、豊後に人質を送りますが、後に船団を仕立てて人質を奪回すると言う離れ業もしてのけた。

法華津前延の代に至って土佐の長宗我部元親の軍門に下り、ついで豊臣政権下では伊予国主となった小早川隆景の下で法華津在城を認められますが、天正16年(1588)、戸田勝隆が宇和郡の領主となるとついに城を失い、豊後へ渡ったのだとか―。

法華津本城は南に海を望む細長い独立丘上に位置していますが、のみならず集落の平地を囲む三方の山上に6ヶ所の支城を配したことが特色と言えるでせう。
西から吉岡山城、福森城、新城、鍋蔵城、高森城、今城で、これらが連携して敵勢に対処する構えをなしていました。

中核をなす本城は周囲を急斜面に囲まれた独立丘に曲輪を展開。
南から一の郭、二の郭、三の郭と直線に並び、南北の一の郭と三の郭が高く、中央の二の郭が低くなっている。
一の郭、三の郭は高さや広さにおいてほぼ同格であり、現在は一の郭が貯水池、三の郭には時報サイレンがある土壇があります。
その他は一部が墓地、畑である以外は斜面まで含めてミカン畑。
構造は至極、単調であるが、南には法華津湾が広がります。

一方、法華津の平野部の西を塞ぐ丘陵突端には吉岡山城があり、御手洗弥三郎が在城していた模様です。
他の支城では城将の名がわからない中で吉岡山城だけは記録があり、立地の点からも支城中でもとりわけ重視されたことがうかがわれます。
北を最高点として南へ数段の低い段差があるこちらも単調な構えで、やはり丘陵上及び周囲の急斜面がミカン畑となっています。




<貯水池や草地となっている一の郭>


<ミカン畑の三の郭>

<三の郭のサイレンのある土壇。城内の最高所>


<法華津湾の景。今は静かな漁港>


<支城の一つ、西の吉岡山城。御手洗弥三郎が守った>


<草地となった吉岡山城の最高所。他は概ねミカン畑>