板橋城(栃木県日光市) | 星ヶ嶺、斬られて候

板橋城(栃木県日光市)






板橋城は栃木県日光市、旧今市市域にある城址です。
交通としては東武日光線・明神駅、もしくはJR日光線・下野大沢駅より。
明神駅に比して下野大沢駅の方がやや距離がありますが、JR日光線の線路自体は城の麓の陣屋内を貫通しています。

ところで東京あたりの人であれば゛板橋゛と言えば東京都の板橋区を想起するかと思いますが、実はこの下野の板橋はその東京の板橋と関わりのある地名だとされています。

板橋城の創築は明らかではありませんが、中世一帯を治めていたと思われるのは日光山の衆徒で宇都宮一門の遊城坊であり、城もその遊城坊によって築かれたと見られています。
天文年間(1532~55)、その宇都宮氏、遊城坊と対立していた壬生氏は北条氏に応援を要請、これに応じた北条氏が派遣したのが板橋将監親棟です。
親棟は今の東京都板橋区周辺に地盤のあった豊島一族の板橋氏の一族と言われ、壬生氏と共に一帯から遊城坊綱清を駆逐すると、壬生氏の与力的な立場として板橋城に入城します。
板橋の地名も板橋親棟が治めたために名付けられたと言われ、城主というよりは城将であったことを考えればかなり珍しい事例でせう。
ちなみに栃木県の壬生の地名も壬生氏が住んだために名付けられたとされています(異説あり)。

その後、壬生家中でも重きをなされた親棟は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による北条攻めにおいて壬生氏と共に小田原城に入った後に投降し、出家して常安を名乗り、文禄2年(1593)に没しました。
死後に親棟を弔って板橋城麓に建立された常安寺は短期間で廃絶となったやうですが、親棟の五輪塔が今に残ります。

なお、前述した線路が貫通する麓の陣屋は慶長5年(1600)に1万石で入封した松平(大給)一生が構えたもので、板橋城の居館を利用したのでせう。
板橋藩は一生の死後、子の成重が継ぎますが、元和3年(1617)に三河西尾に転封となり、陣屋も廃されました。


<板橋陣屋跡。周囲は田畑の低地>


板橋城は標高443m、比高150mほどの城山上に位置しています。
頂部は南北に細長い平地であり、中央あたりを堀切で分断、斜面には石積みも見られます。
南下にも平坦地があり、その南の切岸下で堀切が穿たれ、南方の限りとなし、その他は北に小平坦地あたりまでが主郭域。
東に下ると比較的広い゛コマノリバンバ(駒乗り馬場)の平地があり、南北から登ってきた道が出会うピークとなっています。
主郭域から北は一旦、大きく下った後は緩やかな尾根となり、二つの小さなピークがならされているやうだが、大きな造成痕はなし。

西麓の陣屋は周囲の田畑から立ちあがってすぐにそれとわかるものの今は薮化していて立ち入りは困難です(土塁が残っているやうだ)。

山上、南を限る堀切からやや下った所には畳石、天狗岩の奇岩があり、伝説では城が窮地に陥ると天狗が飛来して城を守ったのだとか。
北の小ピークには羽黒山、愛宕山の小祠があり、この山が修験道と浅からぬ関わりがあると知れる。
これも日光山や遊城坊支配自体の名残りでせう。



<北より見た主郭。手入れは行き届いている>


<主郭中央を分断する堀切。竪堀状にやや下る>


<主郭西斜面、巨石の並ぶ石積み?>


<主郭北斜面のやはり積まれたやうな石>


<鬱蒼とした杉林となっているコマノリバンバ>


<北尾根、羽黒山、愛宕山の小祠のある平地>