城市・フィリッポポリス(ブルガリア・プロヴディフ市) | 星ヶ嶺、斬られて候

城市・フィリッポポリス(ブルガリア・プロヴディフ市)


星冑、斬られて候


話が前後して申し訳ないが、私がブルガリアを訪れたのはトルコよりも前の時点においてです。
当初の旅程ではトルコ周遊を企図しており、いわゆるヨーロッパ側ではイスタンブールとエディルネを廻る予定でしたが、それではヨーロッパの比重が小さいと見てエディルネから指の間にあるブルガリアを旅程に組み込んだのです。
成田を発した飛行機をイスタンブールで乗り継いでブルガリアのソフィアに到着し、ヴェリコ・タルノヴォ→プロヴディフを経てトルコへ―。

ブルガリア国内はいずれもバス移動でしたが、その国土は広大にして山林や平原の間に点々と小さな集落があるばかり。
首都・ソフィアやそれに次ぐ規模のプロヴディフにおいても人が充満しているという景には出会わないし、自動車の交通量も知れていて、どこまでも落ち着いた風情なのです。

しかし、昨年末にも新たな発見があったが、ここブルガリアは人類が最も早く集落を営んだ土地の一つである。
プロヴディフもまた紀元前19世紀には集落があったと言ふ最古の都市のひとつであり、文献においては紀元前4世紀にマケドニアの支配下に入り、フィリップ王の名をとって゛フィリッポポリス゛と命名されたのをもって顕在化しています。
この頃、ネベット・テペの塞を中心とした城壁都市として構築せられて重きをなされましたが、フィリップ王の息子・アレクサンダー王の時代には東方への版図拡大のため早くも放棄されたといふ―。

とはいえその後も城壁は維持されており、ローマ帝政下に入ってよりは゛三つの丘゛を意味する゛トリモンティウム゛と名を変え、オスマン帝政下では゛フィリベ゛とされました。

1879年にブルガリアがオスマン・トルコの支配を脱して独立した際には、現在のブルガリア南部は東ルメリアとしてオスマンの属州となり、プロヴディフがその州都となっていますが、かくのごとくソフィアとは異なる文化圏を構築しており、かつてはイスラーム教徒の多い土地柄でもありました。

プロヴディフ城市の中核はネベット・テペの塞であり、ここから南へ城壁が市街を包括して巡っていました。
ネベット・テペは最高所の岩盤から西にかけて城壁を築いており、アレクサンダー王の時代に放棄されたと言ひながらその後も存続していたのでせう。
ネベット・テペには廃墟化した建物の基壇や城壁の下部が残存し、南には外郭城門であるヒサル・カピヤや円塔の下部が残っています。
他にも西の城壁の基壇部や発掘された外郭城壁が見られますが、全体に城郭遺構は少ないといっていい。

ネベット・テペから南に続く丘陵上の区画は民族復興様式の建物が多く、石と相まって瀟洒な雰囲気―。
一方で丘陵が尽きる南側には古代ローマの円形劇場が残っており、古代から近代までの歴史がとなり合わせに同居しています。

プロヴディフからバスに乗り込み、いよいよトルコへ―。
境のイミグーションを越えたのは深夜の1時頃でしたが、ブルガリアではまばらだった街の灯が、トルコ側のエディルネではなんと明るいことだろう。


星冑、斬られて候 <ネベット・テペの城塞の最高所は露岩>

星冑、斬られて候 <城塞西の城壁と建物跡。基壇が残るばかり>

星冑、斬られて候 <主城域東の入口であったヒサル・カピヤ>

星冑、斬られて候 <ヒサル・カピヤ南に残る円塔の基壇>

星冑、斬られて候 <白い大理石がまぶしい円形劇場>

星冑、斬られて候 <発掘された外郭南の門址。北に公開会議場があった>