幕末維新力士伝(28) 荒虎敬之助と消防別手組 | 星ヶ嶺、斬られて候

幕末維新力士伝(28) 荒虎敬之助と消防別手組

野球賭博や八百長問題で大相撲への風当たりが強い昨今であるが、明治の黎明期と言ふのも大変な逆風で、西洋の文化に感化・支配された人々が盛んに「相撲は野蛮、裸はイカン」などと言って相撲禁止論を唱えておりました。
一方、政府要人の中にも相撲擁護論者は少なくなく、かつて長州藩で力士隊を率いた伊藤博文や、自身も大変な巨体で陣幕(横綱免許)や華ノ峰(京都大関)とも相撲を取った西郷隆盛、黒田清隆、後藤象二郎、板垣退助といった面々が並びます。

この頃、東京の幕内を張っていた荒虎敬之助は前記の人々など、政府要人の間ですこぶる顔の広かった人気力士でした。


星冑、斬られて候 <貴顕高官に愛された荒虎>


荒虎は今でいう埼玉県加須市(旧北川辺村)の出身で、子供頃から頭抜けて大きく、怪力譚も伝わっている。
文久3年(1863)、若藤(5代、元二段目5・荒飛)の門下に入り、明治7年9月に入幕。
43連勝中であった大関・雷電震右衛門に土をつけるなど、時に大物食いをやってのけ、人気を集めました。

さて、その荒虎のヒイキの1人で中警視であった安藤則命(薩摩出身、後に貴族院議員)は、荒虎を呼ぶと巷に吹きすさぶ相撲禁止論を打破するための秘策を語った。
力士をして、東京市中の火事に対応する消防別手組を組織して、奉公させしめては―と打診したのです。

荒虎の師匠の若藤は明治3年に亡くなっていて、この頃、荒虎は伊勢ノ海(7代、元前頭筆頭・柏戸)の門下にありましたが、この伊勢ノ海は相撲会所の№2である筆脇であったから話は早い。
別手組組織の上申は9年10月に大警視・川路利良の許に提出されました。
この川路がまた薩摩出身の好角家で、安藤中警視とは肝胆照らす仲。
それでも力士の巨体が火事場で役に立つのか―と言ふ異論が多く出て、力士たちには試験が課せられます。
即ち漁師5人対力士1人の綱引きに足自慢の人力車夫との持久走勝負で、綱引きは勿論、持久走でも車夫たちが脱落する中、最後までアゴを挙げなかった力士連が勝利して、めでたく別手組の組織が許されました。

別手組に配されたのは幕下・三段目より選抜された36名で、消火活動に目覚ましい活躍をしたとも言ひますし、余り役に立たなかったとも伝わります。
ただ問題は他の力士が年2回の本場所の他は巡業に出て糊口をしのいでいたのに対し、別手組の面々は東京を離れられずに困窮してしまったことで、ついに11年8月、相撲協会は毎年500円を納めるかわりに別手組解散を申し入れ、許されました(500円の納金も免除)。
結成以来3年足らずではありましたが、少なくとも消防別手組は相撲禁止論の火消しには大いに役に立ったと言えるでせう。

発起人の荒虎はその後、二枚鑑札で若藤(6代)を襲名し、小結まで進みましたが、いまだ現役の明治15年9月19日、巡業先の盛岡にて数え40歳で亡くなりました。
荒虎の墓はこの盛岡と郷里の北川辺、そして年寄・若藤の菩提寺である東京の万徳院の3ヶ所に建てられました。


星冑、斬られて候 <東京都江東区永代にある万徳院。荒虎の墓石は現存せず>