相撲競技の変容 ③紀州流相撲の影響 | 星ヶ嶺、斬られて候

相撲競技の変容 ③紀州流相撲の影響

近世において勧進相撲の組織・機構が整うのは17世紀末から18世紀初頭と言われています。
即ち江戸、大坂、京都の三都において四季興行が定着に向かうのですが、それ以外にもなお各地に相撲集団が存在し、三都の勧進相撲の際は力士が各地から出向してくる場合が多々ありました。
その中でも一世を風靡し、相撲の競技性にも多大な影響をもたらしたのが紀州藩(和歌山県)抱えの力士たちです。

元禄の頃(1688~1704)には鏡山沖之右衛門、荒磯浦之助、荒砂長太夫、相引森右衛門ら多士済々でしたが、その中でも鏡山は傑出した人で、関口流の柔の術を相撲に応用したことが知られています。
何でも四十八手の裏表の九十六手を駆使して、それが力士の間に広まったとかで゛日本相撲中興の祖゛の呼び声も―。

そもそも柔の術は相撲に近いものでしたが、江戸期には捕り物術等に応用されていた武芸であり、関口流は紀州藩が採用していた流派でした。

さらに鏡山は立ち合いにも革新を与え、それまでの立ち合いが文字通り両者が立っている状態から゛ヤッ゛と声を上げて組み合っていたものを、鏡山は現在の立ち合いと同じやうに両手を地面につけて下から立ったそうで、これが次第に一般化したと言われています。

立ち合いについてもう少し述べますと、この頃の立ち合いは互いに構えている状態(立っていたり、しゃがんでいたり)から、行司が両者の呼吸が揃ったと見るや「スマウ」と言って軍配を引く。
―と同時に「ヤッ」と気合いを発して組み合うものであったというから、今のアマチュア相撲のルールに似ています。

ところが、この立ち合いの前提を崩した、というのがこれまた紀州の力士でした。

八角楯之助という力士は鏡山よりやや遅い享保の頃(1716~36)に活躍した人で、人気と実力を兼ね備えていましたが、強豪・谷風梶之助と対戦することとなって立ち合いにある工夫を施しました。
この谷風は4代横綱のことではなく、その先代にして9年間も負け知らずだったと言はれるほどの大強豪でしたから、いかに八角言えどもまともにいっても勝てそうにありません。
そこで、行司の尺子一学が知恵を授けた。
八角は、行司が「スマウ」と言って軍配を引き、谷風が「ヤッ」と立っても、「待った」と言ってとりあわず、それが何度も続くので谷風がしびれを切らした頃やよし、矢庭に立ってついに谷風を破ったのです。

以後、八角はこの゛待った゛を多用し、他の力士もこれを真似たために、ついに行司の「スマウ」の合図はなくなってしまったという―。
つまり、これ以降の立ち合いは両者の合意にのみよって成立するものに変わったのです。

やはりこの頃のことであろうか。
紀州の力士たちが廻しの前垂れの部分を華美に飾り、これが゛紀州廻し゛→゛化粧廻し゛になったとの説も。
化粧廻しが余りに華美になると相撲を取るのに気を使ってしようがないということで、後に競技用の゛取り廻し゛と土俵入り用の゛化粧廻し゛が分化するのですが、これなども競技に影響を与えたと言えるでせう。

また、この江戸時代後期には全国の相撲の体系が確立した頃でもあり、吉田家・五条家―三都の相撲会所―各地の相撲集団という統制のもとでルールの共有が進みました(南部や土佐など例外あり)。

このあたりにてまた次回―。