村田城(村田所・宮城県柴田郡村田町) | 星ヶ嶺、斬られて候

村田城(村田所・宮城県柴田郡村田町)


星ヶ嶺、斬られて候



JR東北本線・大河原駅より路線バスに乗り込み北へ―。
山間の城下町・村田を目指します。

村田は゛小京都゛゛蔵の町゛などと言はれ、古い土蔵造りの街並みが興趣を誘いますが、その中心としてあったのが村田城です。

村田城は村田第一小学校、町役場の裏手、比高25mほどの小山上にある城で、創築は嘉吉年間(1441~44)と伝えられています。
城主の村田業朝は下野(栃木県)の大族・小山氏の一族と言われ、常陸国真壁郡の村田荘(茨城県筑西市)より当地に移ってきたのだとか・・・。
南の船岡城(柴田町)の城主・柴田氏もこの村田(四保)氏の分かれと言います。
今の゛村田゛という地名も村田氏が入ったために名づけられたものらしく、旧来は足立(あしだち)という地名であった。

戦国期には村田氏は伊達氏の被官となり、天文11年(1542)~17年の伊達稙宗―晴宗父子の対立(天文の乱)では6代・近重が晴宗方に属しています。
近重の跡は伊達稙宗の九男・宗殖が継いで、後に出家して万好斎を号しました。
しかし万好斎は天正19年(1591)に桃井郡の長井(石巻市桃生町)へと移され、ここに村田氏は父祖の地を離れることとなったのです(以後、村田氏は明治まで長井在所680石を治めた)。

慶長10年(1605)には旧石川郡主の石川昭光が3千石、次いで伊達政宗の七男・宗高が3万石の大禄をもって入り、名君の誉れ高かったが寛永3年(1626)、20歳の若さで死去―。
奥山氏2代(2千5百石)の後、大杉実泰(千4百石)を経て、貞享3年(1684)に芝多常春が2千石で入り、以後、8代に渡り当地を治めました。

なお、近世における村田城は゛要害゛に次ぐ゛所゛の扱いで、山上の本丸は使われず、麓の二の丸を居館としていました。

慶応2年(1866)に至って芝多常質は谷地森(加美郡加美町)へ移り、その谷地森から片平敬教が千9百石で入りますが、戊辰戦争において仙台藩は新政府に抗したため、この一帯は召し上げられて南部氏領となり、村田所の歴史も終わります。


星ヶ嶺、斬られて候 <近くの願勝寺に移築された近世の大手門。本来は茅葺き>


村田城は小山の東部を中心に展開し、最高所に本丸を置き、北東、南東に伸びる尾根に広い削平地を造る。
各曲輪の周囲には腰曲輪が付属し、後背の峰には乾八幡神社がありますが、その間には堀切を穿ちます。
さらに山は西へ続きますが、八幡社の先にも二重の堀切を設けて防備を固めていました。

本丸の西辺には重厚たる土塁があり、その上の馬踏みからは掘立柱建物の址が出土しています。
土塁の外には仕切りのある空堀が巡り、また北西方面の虎口が桝形状になるなど見るべき遺構は少なくありません。
一方、小学校になっている二の丸の前面にあった広い水堀等は消滅しています。

東方にあった家中屋敷は一部に面影を残し、蔵造りの町並みもまたミリキ的。
願勝寺には近世の大手門が移築現存しています。

それにつけても盛夏のこととて森の中は虫たちの天地であり、その虫を狙う蜘蛛の巣もまた多い。
尤もそれに引っ掛かるのは虫ならぬわが身であったが―。

 蜘蛛の子と たわむれ深し 山や青


星ヶ嶺、斬られて候 <本丸址。奥の高まりが西辺の土塁>


星ヶ嶺、斬られて候 <本丸土塁外の空堀は外側に土塁を造る横堀。手前の穴は井戸跡>


星ヶ嶺、斬られて候 <北東の曲輪。村田出身の彫刻家・吉田正彦の作品が点在>


星ヶ嶺、斬られて候 <山中には随所に腰曲輪がある。写真は北東の曲輪の南側>