七戸城(柏葉城・青森県上北郡七戸町) | 星ヶ嶺、斬られて候

七戸城(柏葉城・青森県上北郡七戸町)


星ヶ嶺、斬られて候



かつて南部縦貫鉄道の終着駅であった七戸―。

縦貫鉄道は廃線となりましたが、昨年12月、東北新幹線の新青森延伸に伴い七戸十和田駅が開業し、野辺地経由だった縦貫時代よりも東京方面からの利便性は高まりました。

七戸十和田駅は市街地の北方にあって、ここから路線バスで七戸町の中心へと向かいます。


ここは一から九まである゛戸゛地名の中でも最北端に位置し、南部地方の中でも北端の近くです。

しかるに中~近世にかけて南部氏の領有化にありましたが、鎌倉時代までは工藤氏や結城氏の領になっており、南北朝動乱期より八戸南部氏領となった模様です。


南部氏としてまず七戸城に入ったのは南朝方として活躍した南部師行の弟・政長であり、後に根城(八戸市)の本家を継承しました。

政長の後、子の信政(夫人は工藤氏)は早くに没していたので孫の信光が継承、その弟で七戸城にあった政光は兄を輔弼していたものの後に本家を継承し、甥の長経(信光の子)に跡を譲って隠居すると再び七戸城に入ったとかや―。

その子・政慶の代より七戸氏を名乗ったと言ひますが、この辺りの事情には混乱があり、必ずしも判然としません。


七戸氏は政慶以後、6代続いたとも言いますが、その事跡は詳らかならず、諸史料に゛七戸姓゛の人物や゛七戸城゛が散見するばかり。


戦国末期の当主は七戸家国で、三戸南部氏の継嗣問題に絡んで南部信直(三戸)と対立、さらに九戸政実に与党して天正19年(1591)、九戸城(岩手県二戸市)に籠り、豊臣の大軍の前に健闘空しく落城して七戸氏もここに滅亡しました。


その後、七戸城には南部直勝が2千3百石で入り七戸氏を称して直時―重信(2代南部藩主・利直の子)と続きますが、重信は宗家を継いで七戸は藩の直轄地に―。

城には代官所(後に要害屋敷)が置かれ、七戸氏の家臣団が゛七戸御給人゛を称して守りました。


さて、宗家を継いだ重信の六男・政信は5千石を分知されて旗本となっているのですが、5代・信鄰(のぶちか)の時、領地なしの給米1万1千石に加増せられ、ここに諸侯に列しました。

その後も領地を持たなかった゛盛岡新田藩゛も、明治2年に至り3代・信民が七戸代官所に入り、短期間ながら七戸藩を称しています(七戸藩の成立年に関しては諸説あり)。



星ヶ嶺、斬られて候 <城址概要図。中央右寄りが本城>




城址は西から伸びる台地の東端に広く曲輪を展開しています。


主郭たる本城は台地の北東端に置き、周囲に水堀を巡らせ、西には北館。

南には西から角館、西館、宝泉館、下館と並べ、それぞれを空堀で隔てて、西の台地続き、空堀の外側を西外郭としていました。

台地上面より一段下がる宝泉館や下館は別として、全体に曲輪の配置は独立的。

本城部は近世になって二郭に分けられ、南東部に本丸、その周囲を二の丸とし、二の丸には北、西、南に虎口があって北側を大手としました(中世には本丸の南側が大手とされる)。

なお、発掘調査による所では中世には北館が主郭であったらしいとか―。


主郭台地の南北は谷となり、天然の堀をなす。

北側の゛貝ノ口゛は主城域に匹敵するほどの広い台地で、中世にはここも城域であって土塁が残存しています。


また北東方面の丘上にある天王神社や矢館(空堀残る)が出城として機能していました。


城門一棟が近くの青岩寺に移築現存し、城址にも同形式の門が復元されています。




星ヶ嶺、斬られて候 <本丸には一帯の総鎮守・神明社が鎮座(元は他所にあり)>




星ヶ嶺、斬られて候 <本城(二の丸)西の水堀>



星ヶ嶺、斬られて候 <発掘調査により全容が明らかになりつつある北館は草地>




星ヶ嶺、斬られて候 <西館(右)と宝泉館間の空堀>




星ヶ嶺、斬られて候 <青岩寺の仁王門は本丸城門を移築。かつては櫓門>