松崎城(松崎館・福岡県小郡市) | 星ヶ嶺、斬られて候

松崎城(松崎館・福岡県小郡市)


星ヶ嶺、斬られて候




松崎城の創築は寛文9年(1669)と比較的新しい。

城主は有馬豊祐(豊範)―、前年に本藩・久留米藩より1万石を分知され、新たに諸侯に列していました。


そもそも豊祐は但馬(兵庫県)・出石藩の小出吉重の庶子でしたが、子のいなかった伯父の久留米藩主・有馬忠頼の養嗣子となった人。

ところがその後、忠頼に実子が生まれたため豊祐は末子扱いとなって3千石の賄料を扶持せられ、寛文8年、養父・忠頼が死去すると本藩・久留米藩は実子・頼利が継ぎ、豊祐には1万石が分けられました。


当初、御原郡横隈(小郡市内)に居を構えた豊祐は翌年、領国の中央に位置する鶴崎の地に新館を建築、地名を松崎と改めました。


城の構造は絵図等が残っていないのではっきりとはわかりませんが、伝へる所では現在の三井(みい)高校の地を本丸とし、その西に二の丸、北西には倉稲魂神社を勧請し、東と南を外郭としていたとかや―。

堀は内堀、外堀があり、北の台地下には石原川の流れがあって対岸に出丸が置かれていました。

城下町は東に開かれ、その南北入り口には゛構口(かめぐち)゛と呼ばれる門があり、門脇の石垣上には物見櫓が建てられた。

また、本丸北には馬場があり、その土堤上には桜が植えられて゛桜の馬場゛と称されました。


実は藩主・有馬豊祐は城を持つことが許されない無城大名であり、居館の名称は゛松崎館゛とか゛松崎陣屋゛と呼ばれるべきですが、上記のように居館は中々に規模雄大であり、現在は゛松崎城゛の名称が地元では定着しているやうです。




星ヶ嶺、斬られて候 <松崎城図(現地案内板より)>




豊祐は藩内の治世に力を注ぎますが、貞享元年(1684)、姉婿の土方雄隆が治める窪田藩(藩庁は福島県)でお家騒動が起こった折、積極的に調停にあたらなかったことを咎められて改易となり、ここに松崎藩の14年にして消滅しました。

豊祐は本藩・久留米藩預かりとなり、松崎藩領は幕府天領となって城は破却、その跡に代官所が置かれました(後に領地は久留米藩に返還)。


現在、城址は三井高校を中心に宅地、林、耕地等となり、遺構は散発的に残っている。

本丸南には広い内堀が残り、北の桜の馬場の土堤も残存、春には桜が咲き誇ります。

台地辺縁部には所々に土塁が残りますが、わかりにくい所にあるのもあり、探し出すのは中々に骨が折れました。

白眉は城下・松崎宿の南北両端に残る構口の門袖の石垣で、その両構口に挟まれた宿場の景も往時の雰囲気を感じさせます。


甘木鉄道・松崎駅より徒歩5分。



星ヶ嶺、斬られて候 <本丸、二の丸の南には堀が残る>




星ヶ嶺、斬られて候 <桜の馬場の土堤と桜。左は三井高校で現在、工事中>



星ヶ嶺、斬られて候 <北構口跡。門は東を向いていた>




星ヶ嶺、斬られて候 <こちらは南構口跡。北側よりも良好に遺存>