野の草は、それぞれの役割を果たし、その時々の調和を図っていく。
畑は、違う。
自然の流れに沿うということは同じであっても、そこに意図がある。
種を撒くのは、食べるものをいただくため。
自然界の調和の中で、そうして意図して人は生きていく。
意図せずに、ただ流れに乗っていればそれが循環の輪の中で生きることにつながる他の生き物(違うかもしれないけど)とは、ちょっと違う存在が人間なのでは。
それが霊長類と言われるゆえんだとも思うし、人の業だとも使命だとも言えると思う。
種子を撒いたら、撒きっぱなしでうまくいく場合もあるけれど、持続性を考えた栽培となれば、ある程度の手入れは必要。
土壌の循環がうまくいっているか、周りの環境とのバランスが図れているか。
その作物の持っている力を大事にして、やりすぎず、でも放置もせず。(子育てと同じだねー。)
環境整えました、適度に水あげるから育つでしょってもんじゃない。
それって、家があって、食べ物いれときゃ、いい子に育つでしょっていうのと同じこと。
育たんわ。
枯れるわ。
パーマカルチャー学んだ時に、教わった言葉。
『野菜は、足音を聞いて大きくなる。』
どれだけそこに心をかけているか。
望む意図があって、種を撒くからには、そこに心と手をかけて育てていくというか寄り添っていく必要がある。
それは、楽しくも根気のいること。
だから、種子は自分が本当に望むものでないと、育ちにくいのだと思う。
『何かのために』そんなふうにして撒いた種子は、育ちにくい。
子どもに例えれば、生まれてくることを望まれていたのよと言われるのと、なんとなくできちゃったのよと言われるのでは、気持ちが違うみたいなもんか。
どんなに素晴らしい種子であっても、それが自分の種子なのか、他人の種子なのか見極めないといけない。
人は、自分の種子を育てたらいいと思う。
それが、めぐりめぐって周りのためにもなることもある、というだけ。
私の場合、目の前に本物の畑がありまして。
畑の維持のために分業して、占星術で生計を支えてきて、気が付けば農の部分はなんだか望んだ方向と違う方にいってた。
間違ってた。
望む種子を自ら育てる手間暇を夫一人に負わせて、ネグレクトしてたようなもの。(畑に出てるとは言っても、十分な作業量ではなかったし、一人でどうこうできるようなものでもなかった。)
自分の夢なのに、自分で追ってなかった。
星の方の種子は、それなりに望んだように育っているのとは好対照。
そして、もうひとつ撒きたい種子もあって、それは星を根底に宿した対話「星のまなびば」
これを大事に育てていくには、どうしたらいいのだろう。
いろいろな育て方があると思うのだけど、私は自分の手で一粒一粒大事に育てていきたい。
他の畑のことまで気を配って育てていけたら(コアチームとして)、それは素晴らしい事だけど、それは現状の私の土壌向きではない。
それを無理にやっても、きっと何も実らない。
それだけの素地がないから。
「人は思った以上の者にはなれない。」
確かにそうだと思う。
そして、今、自分は何度考えてもそうとしか思えないので、「やりとげなければならない」を手放す。
一粒がどんなものか、味わい尽くしてもいないのに、全体を見回すことはできないし、私はそれを見たいから。
自分の時計で歩きたいから。
手厚くいろいろなものを与えてくれた手を思うと、なんでできないんだろうと申し訳なく思うけれど、私は私が心を込めてできる育て方をしていく。
どれがいいではなく、自分がどうするか。
それによって、育てられない種子というのも出てくるけれど、本当に育てたいものを大事にするためには、仕方がない。
それをするのは、自分しかいないから。
私が育てられない種子を、誰かは育てられるのかもしれない。
それが全体を豊かにすると信じている。
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