1979(昭和54)年にリリースされた、サザンオールスターズの3枚目のシングル、
『いとしのエリー』
は、桑田佳祐が原由子のために作った曲である。
『いとしのエリー』
は、サザン史に残る名曲中の名曲だが、
当ブログでは、『いとしのエリー』誕生秘話を連載している…。
…というような書き出しで、毎回、書いて来た、
『いとしのエリー』
誕生秘話シリーズは、お陰様で、「全23話」で完結した。
そして、現在は、
『いとしのエリー』
誕生秘話シリーズの「リンク集」と「あらすじ」を、いくつかの章に分けて、ご紹介させて頂いている。
私は、
「『いとしのエリー』は、一日にして成らず」
…という事をテーマ(?)として、この連載を書いて来た。
桑田佳祐と原由子の幼少期から、話を書き始め、そして青山学院大学で桑田佳祐と原由子が出逢い、
やがて、桑田と原が青山学院大学の音楽サークル、
「ベターデイズ」
で、一緒にバンド活動を始め、そのバンドは、
「サザンオールスターズ」
と名乗るようになったが、サザンがデビューし、デビュー曲である、
『勝手にシンドバッド』
が大ヒットしたものの、その副産物として、サザンのメンバー間の関係性に亀裂が生じ、そして、
「恋人同士」
だった桑田佳祐と原由子の関係にも危機が生じる…。
…というような話を書き、いよいよ、
『いとしのエリー』
が誕生する…という物語を書いた。
そして、私がこの連載で最も書きたかったのは、この箇所である。
中でも、『いとしのエリー』誕生秘話の「第16話」の、
「『いとしのエリー』誕生編」
を書きたくて、私は長々と、この連載を書いて来たようなものである。
従って、皆様にも、「第16話」を読んで頂ければ、筆者である私としても、これに勝る喜びは無い。
…という事で、『いとしのエリー』誕生秘話の「第15話」~「第18話」、
「『いとしのエリー』誕生物語編」
のリンク集を、ご覧頂こう。
<サザンオールスターズ『いとしのエリー』誕生秘話⑮ ~『別れ話は最後に』~>(2024/9/19)
サザンオールスターズ『いとしのエリー』誕生秘話⑮ ~『別れ話は最後に』~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~
桑田佳祐と原由子は、青山学院大学の音楽サークルで出逢い、
桑田と原は、一緒にバンド活動を始め、そのバンドは、桑田の友人・宮治淳一により、
「サザンオールスターズ」
と命名された。
そして、サザンがデビューする前…桑田と原が、まだ学生だった頃、桑田が原に対し、
「プロポーズ」
をした。
そして、この時から、桑田と原は、
「恋人同士」
となった。
その後、紆余曲折を経て、1978(昭和53)年6月25日、サザンオールスターズは、
『勝手にシンドバッド』
で、デビューを果たす。
サザンのデビュー曲『勝手にシンドバッド』は、大ヒットしたが、そのために、サザンを取り巻く環境は激変してしまう。
サザンを引っ張る桑田も、大変な思いをしていたが、その頃、原由子は精神のバランスを崩してしまった。
やがて、サザンが多忙さを増すにつれて、桑田と原の関係は、次第にギクシャクして行く。
そして、遂に桑田佳祐と原由子に、
「破局」
の危機が訪れてしまう…。
という事で、『いとしのエリー』誕生秘話の「第15話」、
『別れ話は最後に』
では、後に原由子が書いた自伝、
『娘心にブルースを』
に基づき、桑田佳祐と原由子の2人の物語を、
「小説仕立て」
にして、描いている。
<サザンオールスターズ『いとしのエリー』誕生秘話⑯ ~『いとしのエリー』(誕生編)~>(2024/9/20)
サザンオールスターズ『いとしのエリー』誕生秘話⑯ ~『いとしのエリー』(誕生編)~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~
1979(昭和54)年1月、それまで、色々な事が重なった末、桑田佳祐と原由子の2人に、
「破局」
の危機が訪れていた。
そして、1979(昭和54)年1月末の、ある夜の事、
桑田佳祐が、原由子の住むアパートを訪れ、
「別れ話」
を切り出した。
それまで、桑田との「破局」の危機を常に恐れていた原は、逆に、ホッとしたような気持ちになっていた。
だが、そんな原由子の目から、勝手に涙が溢れ出していた。
その時、桑田佳祐も泣いていた…。
こうして、遂に桑田と原という恋人同士は、別れた。
だが、別れた後も、桑田と原は一晩中、電話で励まし合っていた。
その時、桑田と原は、改めて、お互いの存在の大切さを知った。
その翌朝、桑田が原の元を訪れ、改めて、
「結婚しよう!!」
と告げた。
結局、桑田と原は別れる事は出来なかったのである。
その数日後、桑田が原に、
「新曲が出来たよ」
という電話をして来た。
その電話越しに、桑田佳祐が原由子のために歌って聴かせて曲…。
それこそ、桑田佳祐が原由子のために作った曲、
『いとしのエリー』
だった…。
…という事で、この回も、後に原由子が書いた自伝、
『娘心にブルースを』
に基づき、
「小説仕立て」
にして描いているが、再三述べている通り、私はこの回(※『いとしのエリー』誕生秘話「第16話」~『いとしのエリー』(誕生編))を書きたいばかりに、延々と、この連載を書いて来た。
なので、こんなに長い話を、とても全部は読んでいられないという方は、この回だけでも読んで頂ければ幸い(?)である…。
<サザンオールスターズ『いとしのエリー』誕生秘話⑰ ~『いとしのエリー』(栄光編)~>(2024/9/24)
サザンオールスターズ『いとしのエリー』誕生秘話⑰ ~『いとしのエリー』(栄光編)~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~
桑田佳祐が原由子のために作った曲…。
『いとしのエリー』
は、1979(昭和54)年3月25日、サザンオールスターズの3枚目のシングルとして、リリースされた。
サザンがリリースして来た、それまでの2枚のシングル、
『勝手にシンドバッド』『気分しだいで責めないで』
は、「ロック調」の曲であり、
『いとしのエリー』
は、それまでのサザンのイメージとは真逆の曲だった。
だが、
『いとしのエリー』
という楽曲の素晴らしさが、徐々に人々に浸透し、遂に『いとしのエリー』は、1979(昭和54)年6~7月にかけて、「ザ・ベストテン」で「7週連続1位」という大ヒットを記録した。
サザンは、それまでは、
「コミックバンド」
と揶揄されていたものの、
『いとしのエリー』
の大ヒットにより、サザンは「コミックバンド」扱いを払拭し、遂にサザンは真にアーティストとしての名声を確立した。
…という事で、この回は、『いとしのエリー』大ヒットの経緯を描いている。
<サザンオールスターズ『いとしのエリー』誕生秘話⑱ ~『いとしのエリー』(祝祭編)~>(2024/9/27)
サザンオールスターズ『いとしのエリー』誕生秘話⑱ ~『いとしのエリー』(祝祭編)~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~
1979(昭和54)年、サザンオールスターズは、
『いとしのエリー』
の大ヒットにより、実力を認められ、アーティストとしての名声を確立した。
同年(1979年)夏、サザンは、
「1979 江ノ島ジャパン・ジャム」
という、海外アーティストも出演する、
「夏フェス」
に、図らずも「日本代表」として出演を果たす。
サザンは、それまで経験した事が無かった「夏フェス」の洗礼を受けたものの、どうにか、このステージを無事に乗り切った。
なお、
「1979江ノ島ジャパン・ジャム」
でのエピソードは、桑田佳祐の著書、
『ポップス歌手の耐えられない軽さ』
に基づき、描いた。
そして、サザンの活躍は、NHKにも認められ、
1979(昭和54)年12月31日の、
「第30回NHK紅白歌合戦」
に、サザンは初出場を果たし、サザンは遂に「紅白」出場歌手の仲間入りを果たした。
その「紅白」で、サザンが歌った曲は、勿論、
『いとしのエリー』
だった…。
という事で、この回は、『いとしのエリー』の大ヒットをはじめ、次々に大ヒット曲を連発した、1979(昭和54)年のサザンの大活躍について、描いている。
(つづく)