サザンオールスターズ『いとしのエリー』誕生秘話⑮~⑱「『いとしのエリー』誕生物語編」~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1979(昭和54)年にリリースされた、サザンオールスターズの3枚目のシングル、

『いとしのエリー』

は、桑田佳祐原由子のために作った曲である。

『いとしのエリー』

は、サザン史に残る名曲中の名曲だが、

当ブログでは、『いとしのエリー』誕生秘話を連載している…。

…というような書き出しで、毎回、書いて来た、

『いとしのエリー』

誕生秘話シリーズは、お陰様で、「全23話」で完結した。

そして、現在は、

『いとしのエリー』

誕生秘話シリーズの「リンク集」と「あらすじ」を、いくつかの章に分けて、ご紹介させて頂いている。

 

 

私は、

「『いとしのエリー』は、一日にして成らず」

…という事をテーマ(?)として、この連載を書いて来た。

桑田佳祐原由子の幼少期から、話を書き始め、そして青山学院大学桑田佳祐原由子が出逢い、

やがて、桑田と原が青山学院大学の音楽サークル、

「ベターデイズ」

で、一緒にバンド活動を始め、そのバンドは、

「サザンオールスターズ」

と名乗るようになったが、サザンがデビューし、デビュー曲である、

『勝手にシンドバッド』

が大ヒットしたものの、その副産物として、サザンのメンバー間の関係性に亀裂が生じ、そして、

「恋人同士」

だった桑田佳祐原由子の関係にも危機が生じる…。

…というような話を書き、いよいよ、

『いとしのエリー』

が誕生する…という物語を書いた。

そして、私がこの連載で最も書きたかったのは、この箇所である。

中でも、『いとしのエリー』誕生秘話の「第16話」の、

「『いとしのエリー』誕生編」

を書きたくて、私は長々と、この連載を書いて来たようなものである。

従って、皆様にも、「第16話」を読んで頂ければ、筆者である私としても、これに勝る喜びは無い。

…という事で、『いとしのエリー』誕生秘話の「第15話」~「第18話」、

「『いとしのエリー』誕生物語編」

のリンク集を、ご覧頂こう。

 

<サザンオールスターズ『いとしのエリー』誕生秘話⑮ ~『別れ話は最後に』~>(2024/9/19)

サザンオールスターズ『いとしのエリー』誕生秘話⑮ ~『別れ話は最後に』~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

 

 

桑田佳祐原由子は、青山学院大学の音楽サークルで出逢い、

桑田と原は、一緒にバンド活動を始め、そのバンドは、桑田の友人・宮治淳一により、

「サザンオールスターズ」

と命名された。

そして、サザンがデビューする前…桑田と原が、まだ学生だった頃、桑田が原に対し、

「プロポーズ」

をした。

そして、この時から、桑田と原は、

「恋人同士」

となった。

その後、紆余曲折を経て、1978(昭和53)年6月25日、サザンオールスターズは、

『勝手にシンドバッド』

で、デビューを果たす。

サザンのデビュー曲『勝手にシンドバッド』は、大ヒットしたが、そのために、サザンを取り巻く環境は激変してしまう。

サザンを引っ張る桑田も、大変な思いをしていたが、その頃、原由子は精神のバランスを崩してしまった。

やがて、サザンが多忙さを増すにつれて、桑田と原の関係は、次第にギクシャクして行く。

そして、遂に桑田佳祐原由子に、

「破局」

の危機が訪れてしまう…。

という事で、『いとしのエリー』誕生秘話の「第15話」、

『別れ話は最後に』

では、後に原由子が書いた自伝、

『娘心にブルースを』

に基づき、桑田佳祐原由子の2人の物語を、

「小説仕立て」

にして、描いている。

 

<サザンオールスターズ『いとしのエリー』誕生秘話⑯ ~『いとしのエリー』(誕生編)~>(2024/9/20)

サザンオールスターズ『いとしのエリー』誕生秘話⑯ ~『いとしのエリー』(誕生編)~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

 

 

1979(昭和54)年1月、それまで、色々な事が重なった末、桑田佳祐原由子の2人に、

「破局」

の危機が訪れていた。

そして、1979(昭和54)年1月末の、ある夜の事、

桑田佳祐が、原由子の住むアパートを訪れ、

「別れ話」

を切り出した。

それまで、桑田との「破局」の危機を常に恐れていた原は、逆に、ホッとしたような気持ちになっていた。

だが、そんな原由子の目から、勝手に涙が溢れ出していた。

その時、桑田佳祐も泣いていた…。

こうして、遂に桑田と原という恋人同士は、別れた。

だが、別れた後も、桑田と原は一晩中、電話で励まし合っていた。

その時、桑田と原は、改めて、お互いの存在の大切さを知った。

その翌朝、桑田が原の元を訪れ、改めて、

「結婚しよう!!」

と告げた。

結局、桑田と原は別れる事は出来なかったのである。

その数日後、桑田が原に、

「新曲が出来たよ」

という電話をして来た。

その電話越しに、桑田佳祐原由子のために歌って聴かせて曲…。

それこそ、桑田佳祐原由子のために作った曲、

『いとしのエリー』

だった…。

…という事で、この回も、後に原由子が書いた自伝、

『娘心にブルースを』

に基づき、

「小説仕立て」

にして描いているが、再三述べている通り、私はこの回(※『いとしのエリー』誕生秘話「第16話」~『いとしのエリー』(誕生編))を書きたいばかりに、延々と、この連載を書いて来た。

なので、こんなに長い話を、とても全部は読んでいられないという方は、この回だけでも読んで頂ければ幸い(?)である…。

 

<サザンオールスターズ『いとしのエリー』誕生秘話⑰ ~『いとしのエリー』(栄光編)~>(2024/9/24)

サザンオールスターズ『いとしのエリー』誕生秘話⑰ ~『いとしのエリー』(栄光編)~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

 

 

桑田佳祐原由子のために作った曲…。

『いとしのエリー』

は、1979(昭和54)年3月25日、サザンオールスターズの3枚目のシングルとして、リリースされた。

サザンがリリースして来た、それまでの2枚のシングル、

『勝手にシンドバッド』『気分しだいで責めないで』

は、「ロック調」の曲であり、

『いとしのエリー』

は、それまでのサザンのイメージとは真逆の曲だった。

だが、

『いとしのエリー』

という楽曲の素晴らしさが、徐々に人々に浸透し、遂に『いとしのエリー』は、1979(昭和54)年6~7月にかけて、「ザ・ベストテン」で「7週連続1位」という大ヒットを記録した。

サザンは、それまでは、

「コミックバンド」

と揶揄されていたものの、

『いとしのエリー』

の大ヒットにより、サザンは「コミックバンド」扱いを払拭し、遂にサザンは真にアーティストとしての名声を確立した。

…という事で、この回は、『いとしのエリー』大ヒットの経緯を描いている。

 

<サザンオールスターズ『いとしのエリー』誕生秘話⑱ ~『いとしのエリー』(祝祭編)~>(2024/9/27)

サザンオールスターズ『いとしのエリー』誕生秘話⑱ ~『いとしのエリー』(祝祭編)~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

 

 

1979(昭和54)年、サザンオールスターズは、

『いとしのエリー』

の大ヒットにより、実力を認められ、アーティストとしての名声を確立した。

同年(1979年)夏、サザンは、

「1979 江ノ島ジャパン・ジャム」

という、海外アーティストも出演する、

「夏フェス」

に、図らずも「日本代表」として出演を果たす。

サザンは、それまで経験した事が無かった「夏フェス」の洗礼を受けたものの、どうにか、このステージを無事に乗り切った。

なお、

「1979江ノ島ジャパン・ジャム」

でのエピソードは、桑田佳祐の著書、

『ポップス歌手の耐えられない軽さ』

に基づき、描いた。

そして、サザンの活躍は、NHKにも認められ、

1979(昭和54)年12月31日の、

「第30回NHK紅白歌合戦」

に、サザンは初出場を果たし、サザンは遂に「紅白」出場歌手の仲間入りを果たした。

その「紅白」で、サザンが歌った曲は、勿論、

『いとしのエリー』

だった…。

という事で、この回は、『いとしのエリー』の大ヒットをはじめ、次々に大ヒット曲を連発した、1979(昭和54)年のサザンの大活躍について、描いている。

 

(つづく)