サザンオールスターズ『いとしのエリー』誕生秘話⑩ ~『女呼んでブギ』~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1979(昭和54)年にリリースされた、サザンオールスターズの3枚目のシングル、

『いとしのエリー』

は、桑田佳祐原由子のために作った曲であり、サザン史を代表する名曲中の名曲である。

そして、現在、当ブログでは、『いとしのエリー』誕生秘話を連載中である。

 

 

1976(昭和51)年秋、それまで、青山学院大学の音楽サークル、

「ベターデイズ」

を母体として誕生した学生バンド、

「サザンオールスターズ」

で、一緒にバンド活動をしていた桑田佳祐原由子が、遂に交際を始め、桑田佳祐原由子は、

「恋人同士」

となった。

そして、翌1977(昭和52)年、遂にサザンに、

「運命の分岐点」

が訪れる事となる。

という事で、『いとしのエリー』誕生秘話の「第10話」、

『女呼んでブギ』

を、ご覧頂こう。

 

<1977(昭和52)年2月…大森隆志、松田弘がサザンオールスターズに加入>

 

 

1977(昭和52)年2月、ギターの大森隆志と、ドラムの松田弘が、サザンオールスターズに加入した。

前回までの記事で書いた通り、初期のサザンは、ボーカルの桑田佳祐と、キーボードの原由子以外は、メンバーも非常に流動的であり、極端に言えば、ライブの度にメンバーが異なったりしていた。

そして、大森隆志は、青山学院大学原由子と同学年の、

「ギター小僧」

であり、「ベターデイズ」やサザンの活動にこそ参加していなかったが、大森はしょっちゅう、サザンや「ベターデイズ」の練習などには顔を出しており、桑田達とも顔馴染みだった。

そして、人懐っこい大森は、サザンや「ベターデイズ」のメンバー達とも、あっという間に仲良くなった。

1977(昭和52)年2月、その大森隆志がサザンに入った事により、大森とは地元・宮崎県で幼馴染だった松田弘も、一緒にサザンに入る事となった。

以前の記事でも書いた通り、松田弘は、

「日本一のドラマーになる」

という大志を胸に抱き、上京して来ていた。

こうして、ギターの大森隆志、ドラムの松田弘が加入した事により、サザンの「骨格」が固まりつつあったが、この当時のベースは、「Aさん」という男性だったという。

 

<1977(昭和52)年2月~3月…原由子と「モリ」と「ノリ」達が、ヨーロッパへ「美術と教養の旅」に出掛けたが…?>

 

 

さて、大森隆志松田弘がサザンに入った直後、

1977(昭和52)年2~3月にかけて、原由子は、ジェロニモの「モリ」や、「ノリ」といった友人達と共に、

「美術と教養の旅」

という、ヨーロッパへの海外旅行ツアーに出掛けた。

このツアーは、学生向けの格安ツアーで、ギリシャ、イタリア、スイス、ドイツ、ベルギー、オランダ、スペイン、デンマーク、英国…と、25日間で9ヶ国を回り、毎日、遺跡や美術館を巡る…という旅だった。

もしも、この私なら、そういうツアーであれば非常に興味深い…というか、是非とも参加してみたいと思ってしまうが、

当時の原由子達は、毎日、

「日本に帰ったら、思いっきり、お醤油をかけてお寿司を食べたい」

「やっぱり、お味噌汁が良いよね…」

といった話ばかりをして過ごしていたという。

「私達にとっては、『豚に真珠』の旅だった…」

と、後に原由子は語っているが、当時、原由子は、いよいよサザンとしての活動が楽しくて仕方が無かった頃でもあり、

「早くバンドやりたいよー!!みんなに会いたいよー!!」

という思いでいっぱいだった。

 

<1977(昭和52)年3月…日本に帰国した原由子がサザンに合流し、「5人」で活動>

 

 

こうして、1977(昭和52)年3月、原由子は約1ヶ月振りに、日本に帰国したが、原由子にとって、

「ヨーロッパへの美術と教養の旅」

に参加した意味というのは、

「私にとって、最も大切なのは、サザンの活動だ!!」

という事を、より一層、ハッキリと認識した…という事だったのかもしれない。

そして、1977(昭和52)年3月、日本に帰国した原由子は、志賀高原で合宿を行なっていたサザンに合流した。

こうして、帰って来た原由子を加え、サザンは、

「5人」

で活動する事となったが、1977(昭和52)年3月当時のサザンオールスターズのメンバーの内訳は、

 

・桑田佳祐(ボーカル&ギター)

・原由子(キーボード)

・大森隆志(ギター)

・松田弘(ドラム)

・Aさん(ベース)

 

…である。

これは、後にプロ・デビューする事となるサザンのメンバー構成と、ほぼ同じである。

いよいよ、サザンの陣容が整って来た…と言えよう。

 

<1977(昭和52)年…「セミプロ」の野沢秀行が、サザンの練習に顔を出すようになるが…?>

 

 

さてさて、いよいよ陣容が整って来たサザンに、

「異色の男」

が接触して来た。

それは、大森隆志のアルバイト先だった、下北沢のライブハウス、

「ロフト」

に出入りしていた、パーカッション奏者で、

「毛ガニ」

という愛称で呼ばれていた、野沢秀行である。

以前もご紹介した通り、当時の野沢は、「ロフト」では大森を良いようにこき使い(?)、ロクにお金も払わず、

「ロフトのダニ」

と呼ばれていたが、そうは言っても、野沢は南佳孝のバック・バンドに所属していた、

「セミプロ」

でもあり、一応、大森達からも一目置かれていた(?)。

そんな野沢秀行が、大森を介して、1977(昭和52)年頃から(※正確な時期は不明?)、サザンの練習に顔を出すようになっていた。

当初、野沢は、

「君達、僕が手伝ってあげても良いよ?」

という感じだったらしく、サザンのメンバー達も、

「へー、セミプロかあ…。やっぱり、セミプロって、何か雰囲気が違うなあ…」

と、一応(?)野沢に一目置いていた。

 

 

ところがである。

いざ、サザンのメンバー達と、野沢がセッションをしよう…という段になった時、

原由子大森隆志は、時間通りに来たものの、他のメンバーがなかなか現れず、桑田佳祐に至っては、とうとう、約束をすっぽかして、セッションの場には現れなかった。

当時のサザンは、こんな風に、いかにも「学生ノリ」で、時間にもルーズで、いい加減だった。

これに野沢は激怒し、顔を真っ赤にして、本当に「毛ガニ」のようになって、

「そんなに時間にルーズじゃ、プロになんかなれないぜ!!えっ、お前達!?」

と、サザンのメンバー達を怒鳴り付けた。

「おっしゃる通りです、へへーっ!!」

…と、サザンのメンバー達はすっかり恐縮し、野沢に平伏した。

「毛ガニさん…。もう呆れちゃって、来てくれないだろうな…」

サザンのメンバー達は、そう思っていたが、その後も、野沢はサザンの練習には、来てくれたという。

…というわけで、後に、この野沢秀行を巡って、

「ひと悶着」(?)

が有るのだが、その話については、後述する。

 

<1977(昭和52)年4月…大森隆志の熱心な勧めにより、サザンが「イーストウエスト'77」というアマチュア・バンドのコンクール(ブロック大会)に出場へ~大森は野沢に「サザン加入」を勧めるも、アッサリと断られる…>

 

 

 

さて、1977(昭和52)年4月、サザンにとって、運命を大きく左右する出来事が有った。

その頃、桑田佳祐原由子には、プロになりたい…というような野望は無かったのだが、

大森隆志松田弘は、どちらかと言えば、

「プロ志向」

が強かった。

そして、1977(昭和52)年4月、大森隆志は、

「イーストウエスト'77」

という、アマチュア・バンドコンクールのチラシを、桑田達に見せ、大森は、

「俺達、このコンクールに出てみようよ!!」

と、熱心に働きかけていた。

桑田も、それを見て、

「良いよー。じゃあ、出てみようか…」

といった、ごく軽い調子で、大森の誘いに乗ってみる事にした。

原由子も、

「ほんの腕試し」

というような、軽い気持ちだったという。

なお、

「イーストウエスト」

とは、ヤマハが主催する、かなり大規模なアマチュアバンド・コンクールであり、まずは、東京A・東京B・東京C・埼玉・千葉&茨城…と、いくつかの地区に分かれ、

「ブロック大会」

が行われ、その「ブロック大会」を勝ち抜いたバンドが、

「決勝大会」

に駒を進める…という、大掛かりな物だった。

桑田達の同意を得た大森隆志は、

「イーストウエスト'77」

へ、サザンが出場する手続きを進めたが、このように、その時の大森は本当に熱心に、サザンのコンクール出場に動いていた。

「これは、サザンにとって大きなチャンスだ」

…と、大森は思っていたのかもしれない。

 

 

 

 

そして、大森隆志は、

「サザンが、『イーストウエスト』で勝ち抜くためには、毛ガニさんの力が必要だ」

と、思っていた。

そこで、大森は「毛ガニ」こと野沢秀行を訪ね、

「サザンに入って欲しい。是非とも力を貸して欲しい」

と頼み込み、野沢に対し、

「サザン加入」

を勧めた。

しかし、その頃の野沢は、

「セミプロ」

であり、野沢から見れば、サザンの事など、

「ただの学生バンド」

として、完全に下に見ていた。

「まあ、俺もセミプロだし、色々と忙しいワケよ。まあ、その内、ヒマになったらね…」

野沢はそう言って、大森の頼みなど、鼻にも引っ掛けずに、けんもほろろに断ってしまった。

そして、これが後に、大きな「火種」(?)になってしまうのであるが、そんな事など、サザンのメンバーや野沢達も、夢にも思っていなかった…。

ともあれ、1977(昭和52)年4月、サザンオールスターズは、「イーストウエスト'77」に出場する事となった。

 

<1977(昭和52)年4月…桑田佳祐が次々にオリジナル曲を生み出し、絶好調のサザンが「イーストウエスト’77」のブロック大会予選を突破~「ベターデイズ」の後輩達による「サクラ大作戦」も功を奏す!?>

 

 

さて、大森隆志による熱心な誘いを受け、最初は、ごく軽い気持ちで、サザンの、

「イーストウエスト'77」

への出場を決めた桑田佳祐であるが、その頃、ヤマハ渋谷店が、サザンの事を熱心に後押ししてくれていた。

そして、その頃、桑田佳祐は、

『女呼んでブギ』『今宵あなたに』『別れ話は最後に』

…など、後にサザンのファースト・アルバム、

『熱い胸さわぎ』

に収録される事になる、オリジナル曲を次々に作曲しており、それ以外にも、

『渋谷の女』『悲しみはブギの彼方に』

…といったオリジナル曲も作っていた(※この2曲はレコーディングはされていない「未発表曲」)。

当時、桑田の「ソング・ライティング」の才能は完全に開花し、その桑田が作ったオリジナル曲を引っ提げ、サザンは絶好調で、乗りに乗っていた。

ヤマハ渋谷店では、そのサザンのオリジナル曲のデモテープを作ってくれるなど、かなりサザンの事を後押ししてくれていたが、

1977(昭和52)年4月、そのヤマハ渋谷店にて、

「イーストウエスト'77」

の、ブロック大会予選が行われ、サザンも出場した。

そして、このブロック大会に、

「ベターデイズ」

の後輩達が、大挙してサザンの応援のために集まり、ノリノリで踊りまくって、応援してくれた。

「アンコール!!」

のコールまでしてくれたので、これには審査員達もビックリしていたようだが、かなりのインパクトは有ったと思われる。

こうして、

「ベターデイズ」

が一丸となった(?)、

「サクラ大作戦」

は見事に大成功し、サザンは、

「イーストウエスト'77」

のブロック大会を突破した。

…という事で、「サクラ」のインパクトは勿論、大きかったと思われるが、それはそれとして、この頃、サザンのバンドとしての実力もかなり上がっていた事も確かである。

何より、当時のサザンは、「ベターデイズ」の後輩達が、進んで応援したくなるようなバンドだった…。それが本当に素晴らしいと、私は思う。

 

<1977(昭和52)年5月…ベースの「Aさん」が脱退し、関口和之が後任のベースとしてサザンに加入~1977(昭和52)年7月…サザンは「イーストウエスト'77」のブロック大会本選を突破>

 

 

 

 

1977(昭和52)年4月、

「イーストウエスト'77」

のブロック大会予選を突破したサザンであるが、その時点で、ベースの「Aさん」が、サザンを脱退した。

「Aさん」は、既に青山学院大学の5年生であり、就職の事などもあり、それ以上のバンド活動は難しかった。

その後、1977(昭和52)年5月、脱退した「Aさん」の後釜として、関口和之が、ベースとしてサザンに加入した。

桑田佳祐関口和之が、一緒のバンドで活動するのは、1975(昭和50)年の、

「ピストン桑田とシリンダーズ」

以来、約2年振りだった。

 

 

こうして、関口和之がサザンに加入し、サザンは1977(昭和52)年7月、

「イーストウエスト'77」

のブロック大会本選に挑む事となった。

そして、当時のサザンオールスターズのメンバーは、下記の通りである。

 

・桑田佳祐(ボーカル&ギター)

・原由子(キーボード)

・大森隆志(ギター)

・松田弘(ドラム)

・関口和之(ベース)

 

…そう、この5人のメンバーは、後にプロ・デビューする事になるサザンのメンバー達である。

いよいよ、サザンは名実共に、

「最強メンバー」

が、顔を揃えた。

 

 

 

1977(昭和52)年7月、サザンオールスターズは、渋谷エピキュラスで行われた、

「イーストウエスト'77」

のブロック大会本選に出場した。

そして、ここでも、

「ベターデイズ」

の後輩達が、大挙してサザンの応援に駆け付け、旗やのぼりまで作って、ノリノリでサザンに声援を送った。

またしても、

「サクラ大作戦」

が敢行された(?)が、この大会には、シャネルズ(後のラッツ&スター)などの強豪も居た中で、サザンオールスターズ見事にブロック大会本選を突破し、いよいよ、「イーストウエスト'77」の決勝大会に駒を進める事となった(※サザンと同時に、シャネルズも決勝大会に進出した)。

「この時は、みんな肩を抱き合って泣いた。あ、泣いたのは私だけだったかな…。とにかく嬉しかった。何だか、甲子園出場を決めた高校球児のように、みんな感動していた…」

原由子は、後に、この時の感激を、そのように振り返っている。

なお、

「ベターデイズ」

は、この時も、例によって、

「アンコール!!」

のコールまでしてくれたが、そもそも、この大会では、

「アンコール」

のコールが起こる事自体、とても異例であり、前年(1976年)にカシオペアが出場した際に、正真正銘の本物の(?)「アンコール」が起こり、それが「伝説」になっていたほどだという。

「私達は、後輩という『サクラ』を使った、正真正銘の偽物の『アンコール』だった。…いばってどうする…」

と、この時の事を、原由子はユーモアたっぷりに(?)回想していた。

ともあれ、「ベターデイズ」の後輩達による熱烈な応援も受け、サザンはいよいよ、

「イーストウエスト'77 決勝大会」

という大舞台に挑む事となった。

 

<ドラムの松田弘が、先輩のバンドの手伝いのため、一時サザンを抜ける~1977(昭和52)年8月27日…中野サンプラザの「イーストウエスト'77」決勝大会で、サザンが入賞し、桑田佳祐が「ベスト・ボーカリスト賞」を受賞!!~サザンは『女呼んでブギ』『今宵あなたに』の2曲を披露>

 

 

こうして、サザンは快進撃を続けたが、

「イーストウエスト'77」

の決勝大会を前にして、ドラムの松田弘が、地元・宮崎でお世話になった先輩のバンドを手伝わなければならなくなり、どうしても、松田は決勝大会に出られなくなってしまった。

「悔しいけど、決勝大会には出られない…」

松田も無念の表情だったが、サザンとしても、ドラムの松田が抜けてしまうのは、かなりの痛手である。

しかし、この大ピンチで、急遽、知り合いの紹介で、「Oさん」という、ジャズ系のドラマーが、松田の代役のドラムを務める事になってくれた。

最初は、サザンのドタバタのリズムに合わせるのが、かなり大変そうだった「Oさん」も、とても頑張って、サザンのリズムに合わせてくれたという。

そして、遂に、サザンにとっての、

「運命の日」

が訪れた。

1977(昭和52)年8月27日、中野サンプラザにて、

「イーストウエスト'77」

の決勝大会が行われ、サザンも、その大舞台に立ったのである。

 

 

 

この時の、

「イーストウエスト'77」

の決勝大会には、サザンの他にも、

2度目の出場となったカシオペア、シャネルズ、後にDJとなった赤坂泰彦も所属していた東京JAP、そして円広志…

といった、実力派のバンドやアーティスト達がズラリと顔を揃えていた。

「出番を待つ間、他のバンドの演奏を聴いていると、どのバンドも演奏テクニック抜群だった。私は、もう尻尾を巻いて逃げ出したい気持ちだった…」

原由子は、後に、その時の気持ちを、そう振り返っている。

そして、遂にサザンオールスターズの出番がやって来た…。

 

 

 

この時、サザンオールスターズは、桑田佳祐が作詞・作曲した、

『女呼んでブギ』『今宵あなたに』

…という、2曲のオリジナル曲を披露したが、この時、原由子はあまりの緊張で、殆んど意識を失いかけていた(?)という。

そして、

『女呼んでブギ』

のイントロは、原由子のピアノから始まるのだが、原由子は、緊張のあまり、そのイントロを、

「史上最速のテンポ」

で弾いてしまったという…。

しかし、そんな調子だったが、何と、サザンオールスターズは「イーストウエスト'77」の「入賞」を果たし、

桑田佳祐は、

「ベスト・ボーカリスト賞」

を受賞するという栄誉に浴した。

そう、サザンは見事に「イーストウエスト'77」という大舞台で、素晴らしい結果を残したのである。

この時、会場で、レコード会社・ビクターのディレクターだった高垣健という人物が、サザンを見ていた。

高垣は、サザンに興味を示し、この後、サザンに「プロ・デビュー」への道を示す事となるのである。

「『女呼んでブギ』というコミカルな曲と、『今宵あなたに』という、しっとりとした曲、全然違う曲調の曲を歌っている、こいつらって、面白いバンドだなと思った…」

後に、高垣はそう語っているが、高垣が言う通り、サザンと言えば、コミカルな曲も歌えば、しっとりとした曲やバラードも歌う…という、

「幅広い音楽性」

が、その最大の魅力である。

そんなサザンの特色は、この時から既に遺憾なく発揮されていたのであった…。

こうして、サザンの歴史の歯車が、大きく動き始めようとしていた。

 

<「イーストウエスト'77」でのサザンの「運命の曲」となった『女呼んでブギ』~後に、サザンのファースト・アルバム『熱い胸さわぎ』に収録>

 

 

…という事であるが、1977(昭和52)年、

サザンオールスターズは、怒涛の快進撃で、

「イーストウエスト'77」

という、アマチュア・バンドの登竜門で、素晴らしい結果を残した。

というわけで、

「イーストウエスト'77」

での、サザンの「運命の曲」となった、

『女呼んでブギ』

の歌詞を、ここでご紹介させて頂こう。

なお、

『女呼んでブギ』

は、とても「コミカル」な曲であるが、

「まあ、今の時代では、『新曲』としては絶対に出せない曲ですね…」

と、後に桑田佳祐も自嘲気味に(?)語っていた通り、もしかしたら、今の時代ではコンプライアンス的に(?)「アウト」だったかもしれない。

まあ、これは「洒落」のわかる人にはわかる曲である…と言っておく。

とりあえず、その辺は、各々が歌詞を読んで、ご判断頂きたい。

ちなみに、この曲は、最後でサビを繰り返す際に、原由子が、

「もう一丁!!」

と、半ばヤケッパチ(?)で言っているもの、聴きどころである。

 

 

『女呼んでブギ』

作詞・作曲:桑田佳祐

唄:サザンオールスターズ

 

※女 呼んで もんで 抱いて いい気持ち

夢にまで見た Rug and Roll 女なんてそんなもんさ※

 

あんたに声かけられりゃ 女は迷う

それがうそだとて 女はチョイトだめなんて言わねえさ

あんたもてるね 気になる男よ

more more more 本当の気持ちは

女 呼んで もんで 抱いて

 

女の気持ちが手にとるようにわかるのね

それにしてもdarlin' 女はちょいといやよなんて言わねえさ

どうしてもてるの 気になる男よ

more more more 本当の気持ちは

女 呼んで もんで 抱いて

 

※※Oh! Baby 気になる人よ

いつまでもそれじゃだめよ

Oh! Baby いつまでそうよ

なれ合いのつもりだろうが

Oh! Honey Honey やっぱり女が最高※※

 

あんたに声かけられりゃ 女は迷う

それがウソだとて 女はチョイトいやよなんて言わねえさ

どうしてもてるの 気になる男よ

more more more 何やかんや言うたかて

女 呼んで もんで 抱いて

※※

 

(つづく)