テレビを通して、その時代を読み解く、
「テレビ史」
シリーズを書かせて頂いているが、今回は、
「『歌番組』の歴史」
について描いている。
そして、1978(昭和53)年に放送開始された、TBSの歌番組、
「ザ・ベストテン」
を中心に、
「『ザ・ベストテン』と歌番組黄金時代」
の章を、当時のサザンオールスターズの活躍を中心に綴っているが、この時代こそ、この連載で私が最も書きたかった時代でもある。
さて、今回の記事は、
「『歌番組』の歴史」
という「本筋」からは少し外れるが、
1981(昭和56)年に勃発した、
「TBS VS フジテレビ」
の、所謂「土8戦争」を中心に描く。
この時代は、「テレビ史」の中でも、最も熱かった時代と言っても過言ではなく、
「土曜夜8時」
という全く同じ時間帯で、
「8時だヨ!全員集合」(TBS)と「オレたちひょうきん族」(フジテレビ)が激突し、
「土8戦争」
が勃発した時代であった。
そんな時代を、タモリ、明石家さんま、ビートたけし…という、
「お笑いビッグ3」
台頭の経緯と共に描く。
それでは、ご覧頂こう。
<久米宏の台頭~TBSアナウンサーとして、「永六輔の土曜ワイドラジオTokyo」(1970~1975)、「ぴったしカン・カン」(1975~1986」などで頭角を現す>
「ザ・ベストテン」
で、黒柳徹子とコンビを組み、大人気となった久米宏は、1944(昭和19)年7月14日、埼玉県浦和市に生まれた。
そして東京都立大学附属高校から早稲田大学政治経済学部を経て、1967(昭和42)年、TBSにアナウンサーとして入局した久米は、当初、極度の「あがり症」だった。
これは、アナウンサーとしては致命傷だったが、1970(昭和45)年、久米の早稲田の先輩・永六輔がパーソナリティーを務めていた、
「永六輔の土曜ワイドラジオTokyo」
というTBSのラジオ番組で、久米宏は中継レポーターに抜擢された。
そして、この番組で久米は、水を得た魚のように、生き生きと中継レポーターを務め、永六輔・久米宏の軽妙なやり取りは、大人気となった。
なお、余談だが、私の父は昔からラジオが大好きであり、当時、このラジオ番組を通して、久米宏というアナウンサーの事を知ったと、よく語っていた。
1975(昭和50)年、久米宏は、
「ぴったしカン・カン」
というTBSテレビのバラエティー番組の司会に就任したが、この番組は、
「コント55号」
の、萩本欽一・坂上二郎の両人が、それぞれチームを率いて、久米宏が出題し、久米が出すヒントを元にして、例えば、
「今日のゲストは誰でしょう?」
とか、
「この言葉は、何を指し示しているのでしょう?」
とか、そういう問題を答えて行く…という番組である。
そして、回答者が見事に正解を当てると、久米が、
「ぴったしカン・カン!!」
と言って、正解を宣言する。
そして、この番組の久米の喋りは、とにかく達者というか軽妙というか、絶対に他の人が真似できないような名司会ぶりであった。
そして、
「ぴったしカン・カン」
で、久米宏は大人気となり、そのままの勢いで、久米は1978(昭和53)年に放送開始された、
「ザ・ベストテン」
の司会にも抜擢された…というのは、既に述べて来た通りである。
なお、1979(昭和54)年に、久米はTBSを退職し、以後、フリー・アナウンサーとなったが、引き続き、
「ザ・ベストテン」「ぴったしカン・カン」
などの、TBSの番組の司会を務める事となった。
<関口宏の台頭~名優・佐野周二の息子として俳優デビュー~西田佐知子との結婚を経て、TBS「クイズ100人に聞きました」(1979~1992)の「名司会者」に>
さて、TBSの番組を代表する「名司会者」の「宏(ひろし)」と言えば、関口宏も忘れてはなるまい。
関口宏は、1943(昭和18)年7月13日、名優・佐野周二の息子として東京に生まれた。
関口は、立教中学校-立教高校-立教大学…という、生粋の「立教っ子」だったが、
1963(昭和38)年、当時20歳の頃に、関口宏は俳優としてデビューし、以後、数々の映画やドラマに出演した。
だが、率直に言って、偉大なる父親・佐野周二と比べると、俳優としての関口は今一つであった。
そんな中、1970(昭和45)年、関口宏は、当時、フジテレビで放送されていた、
「ラブラブショー」(1970~1979)
という番組で、歌手の西田佐知子と共演したが、西田佐知子と言えば、
『コーヒールンバ』『アカシアの雨がやむとき』
といった大ヒット曲を連発していた、人気歌手だった。
西田佐知子は1939(昭和14)年1月9日生まれで、関口よりも4歳年上だったが、この2人は初対面から意気投合していた。
そして、翌1971(昭和46)年、関口宏・西田佐知子の夫妻は、めでたく結婚した。
当時、関口宏は28歳、西田佐知子は32歳だった。
そして、この夫婦の間に、1972(昭和47)年に生まれた長男が関口知宏である(※関口知宏は、俳優業を経て、後に旅番組のレポーターとして活躍)。
そんな幸せいっぱいの関口は、この頃、俳優業と同時に、ある番組で、
「司会業」
に挑戦する事となった。
その番組とは、フジテレビで放送されていた、
「スター千一夜」
というトーク番組である。
「スター千一夜」(1959~1981)
は、フジテレビの黎明期から放送されている番組であり、文字通り、様々な「スター」をゲストに迎え、司会者とトークをする…という番組だったが、第1回のゲスト、長門裕之・津川雅彦兄弟を皮切りに、映画やテレビで活躍する、キラ星の如きスター達が出演し、
「素の顔」
を見せてくれる番組でもあった。
関口宏は、西田佐知子と結婚した年、1971(昭和46)年から、
「スター千一夜」
で、本格的に司会を務め、後に関口宏・石坂浩二のコンビで、司会を務める事となった。
さて、その後…。
1979(昭和54)年頃、関口宏は、西郷輝彦が主演するTBSの時代劇、
『江戸を斬る』
に、同心(※幕府の捕り方の役人)の役で出演していた。
そんな関口の元へ、TBSから、ある新番組…クイズ番組の司会者就任のオファーが有った。
前述の通り、関口は、フジテレビで、
「スター千一夜」
というトーク番組の司会を務めていたが、クイズ番組の司会を務めた事は無かった。
「僕に、クイズ番組の司会者が務まるでしょうか…?」
関口宏は、当時、TBSの超人気番組、
「クイズダービー」
の司会を務めていた、大橋巨泉に相談した。
すると、巨泉は関口に対し、
「お前は、間抜けな同心の役なんかより、クイズ番組の司会の方が、絶対に向いている」
と、太鼓判を押した(?)。
関口は、先輩司会者の言葉にも励まされ(?)、TBSからのオファーを受ける事となった。
そして、関口宏は、1979(昭和54)年4月2日に放送開始された、TBSの新番組、
「クイズ100人に聞きました」(1979~1992)
の司会者に就任した。
なお、より正確に言えば、日曜午後に放送され、関口が司会を務めていた、
「家族対抗クイズ合戦」(1978~1979)
が、ゴールデン・タイムに昇格し、それに伴って番組タイトルも変わったものであるが、それを機に、関口は、
「スター千一夜」
の司会を降板し、後任は坂本九が司会となった。
そして、以後、関口は、
「クイズ100人に聞きました」
の司会に専念する事となった。
では、関口宏が司会を務める事となった、
「クイズ100人に聞きました」
とは、一体どんな番組なのかと言えば、まず、放送時間は、
「月曜夜7時」
からの30分番組である。
そして、一般視聴者から出場者を募り、選ばれた視聴者が2チームに分かれて、勝敗を競う(※大体、家族や親戚同士などで出場するケースが多かった)。
そして、番組のタイトル通り、様々なテーマで、広くアンケートを取り、出場チームは、その答えを当てて行く。
例えば、
「〇〇な人、100人に聞きました。答えは6つ…」
と、関口が問題を読み上げ、出場チームは、アンケートで、回答が多かった物を当てて行く。
アンケートで答えが多いものほど、得点が高く、答えが少ないものほど、得点は低い。
まずは、両チームのキャプテン同士が対決し、正解したキャプテンのチームが、先に解答権を得るが、3つ、不正解になると、相手チームに解答権が移る…という仕組みだった。
なお、関口宏は、ご覧の通り、回答するチームの机(?)に肘をつき、
「さあ、答えは何だと思う?」
と、非常にラフな感じで語り掛けていた。
「何だ、あの偉そうな態度は…」
と、当初は眉を顰める向きも有ったが、このスタイルは非常に斬新でもあり、徐々に視聴者に受け入れられて行った。
そして、両チームが対決し、最終的に得点が多いチームが勝利となるが、
勝利チームは、最後の関門、
「トラベルチャンス」
に挑戦する権利を得る。
「トラベルチャンス」
では、やはりアンケートで答えが多いものを当てて行くが、得点が高ければ高いほど、
「ハワイ旅行御招待」
の人数が決まる…という、非常にスリリングなものであり、結果次第では、全員がハワイに行けたり、場合によっては、誰もハワイに行けない…というケースも有り得た。
ちなみに、得点によって、誰がハワイに行けるかという人数が決まるので、出場チームの中でも、ハワイに行けない人は、
「お見送り」
となってしまう…。
という事で、
「クイズ100人に聞きました」
は、非常によく出来た仕組みのクイズ番組であり、この番組の司会を務めた関口宏は、以後、
「名司会者」
の地位を不動のものとした。
「お前は、間抜けな同心の役よりも、クイズ番組の司会の方が向いている」
と、いち早く、関口の素質を見抜いた大橋巨泉の慧眼は、流石であった。
<タモリの登場~早稲田大学の「モダン・ジャズ研究会」で活動するも、学費未納で早稲田を除籍~その後、山下洋輔・赤塚不二夫らに見出され、「密室芸」を得意技として芸能界デビュー>
さて、続いては、タモリの登場の経緯を書く。
後に、タモリと名乗る事となる森田一義は、1945(昭和20)年8月22日、福岡県に生まれた。
その後、福岡県立筑紫丘高校を卒業後、一浪を経て、1965(昭和40)年、森田一義は早稲田大学第二文学部に入学した。
なお、森田一義が入学した当時の早稲田には、久米宏・田中真紀子・吉永小百合…らも在学していた。
そして、早稲田に入学後、彼は、
「早稲田大学モダン・ジャズ研究会」
というサークルに入り、ジャズに熱中したが、そのサークルで、当時、ミュージシャン達の間で流行っていた、苗字を引っ繰り返して読む、
「タモリ」
という名前で呼ばれるようになり、以後、「タモリ」が彼の通り名になった。
ちなみに、タモリの担当楽器はトランペットであり、タモリのトランペットは、なかなかの腕前だった。
また、大学在学中、タモリは、
「大学対抗バンド合戦」
の司会を務めた事が有ったが、この時、早稲田OBで、元々はジャズ評論家だった大橋巨泉から、その才能を求められたという(※ここでも、巨泉の慧眼が発揮されていた)。
だが、タモリは、あまりにもジャズに熱中し過ぎたせいで、学業も疎かとなり、
結局は「学費未納」により、早稲田を中退してしまった。
以後、タモリは保険会社の外交員や、旅行会社の社員など、暫くの間、サラリーマン生活を送っていた。
だが、1972(昭和47)年のある日、タモリに大きな転機が訪れた。
この時、福岡県内で、渡辺貞夫のジャズ・コンサートが有り、そのコンサート・スタッフに、タモリの学生時代の友人が居たので、タモリは彼を訪ねて、彼の宿泊先ホテルに遊びに来ていた。
この時、渡辺貞夫に同行して、
「山下洋輔トリオ」
も来ていたが、友人と酒を飲み、終電を逃してしまったタモリが、たまたま、ある部屋の前を通りかかると、「山下洋輔トリオ」が、何やら大宴会をやっていた。
この時、何故かドアが開いていたのを見て、タモリは咄嗟に、「歌舞伎」の真似事をして、飛び入り参加した。
最初、「山下洋輔トリオ」もビックリしていたが、その中の一人が、
「ニセ朝鮮語」
で、タモリの事を咎めた(?)ところ、学生時代から、
「ニセ外国語」
が、大の得意技だったタモリは、更に上手い「ニセ朝鮮語」を披露し、一同は大ウケとなった。
こうして、
「山下洋輔トリオ」
に、強烈な印象を残したタモリは、以後、
「素人だけど、何かメチャクチャ面白い男が居る」
と、ジャズ畑のミュージシャン達の間で大評判となり、彼を上京させようという機運が盛り上がり、
紆余曲折を経て、ジャズ畑のミュージシャン達の「カンパ」によって、1975(昭和50)年春、タモリは上京を果たす。
「福岡から、凄く面白い奴が東京に来ている」
東京・新宿のゴールデン街に集まっていた、赤塚不二夫らの「文化人」の間でも、タモリは忽ち有名になったが、
タモリは、得意の「ニセ外国語」に更に磨きをかけ、
「4か国語麻雀」
などの「密室芸」で、度々、独演会を開き、その都度、会場を爆笑の渦に巻き込んでいた。
そして、タモリを大いに気に入った赤塚不二夫は、タモリを自宅に「居候」させ、赤塚はタモリを芸能界に売り込んだ。
そして、赤塚不二夫の強力な推薦もあり、
1977(昭和52)年8月11日、当時32歳のタモリは、まだ半分素人のような立場でありながら、
「徹子の部屋」
に初出演を果たす。
そして、タモリは「徹子の部屋」でも、得意の「4か国語麻雀」などを披露し、黒柳徹子を大笑いさせていた。
こうして、タモリはサラリーマン生活を経て、芸能界デビューを果たしたが、デビュー当時のタモリは、
「イグアナのマネ」
など、少々ゲテモノ的な「アングラ芸」を得意としており、「裏街道」を行く人…のようなイメージが強かった。
そんなタモリが、
「お昼の顔」
になるのは、もう少し先の話である。
<明石家さんまの登場~高校時代、学校中の人気者だった杉本高文~落語家・笑福亭松之助に弟子入りし、「落語家」に~その後、「明石家さんま」として全国区の人気者に>
さて、続いては明石家さんまの話である。
後に、明石家さんまと名乗る事となる杉本高文は、1955(昭和30)年7月1日、奈良県奈良市に生まれた。
杉本高文は、学年で言えば、サザンオールスターズの桑田佳祐の「同学年」である。
彼は、子供の頃から大変「面白い」少年であり、高校(奈良県立奈良商業高校)時代には、学校中の人気者になっていた。
「17歳の頃が、俺の人生のピークだった」
と、後に彼は冗談めかして語っているが、それは、あながち冗談でもなかったらしい。
それぐらい、彼は学生時代から桁外れの人気者であった。
1974(昭和49)年、杉本高文は、高校卒業後、落語家の笑福亭松之助に「弟子入り」した。
なお、この年(1974年)は、桑田佳祐が青山学院大学に入学した年でもあったが、
当時19歳の杉本高文青年は、師匠・笑福亭松之助から、
「笑福亭さんま」
という芸名を貰い、その後、内弟子修行を勝手に打ち切ってしまい、一度は師匠の元を脱走してしまった。
だが、その後、師匠に詫びを入れ、改めて戻って来た際に、師匠は、さんまの事を一切咎めなかった。
そして、師匠の元に帰って来たのを機に、
「明石家さんま」
という名前に改め、以後、彼はその名を名乗る事となった。
その後、明石家さんまは、若手芸人として、地元・関西の演芸番組などに、ちょくちょく出演するようになっていたが、
1977(昭和52)年頃、明石家さんまは、兄弟子・明石家小禄と漫才コンビを組み、活動していた。
その頃、さんまが得意としていたネタは、
「小林繁の形態模写」
というものであった。
当時、長嶋茂雄監督率いる巨人のメンバーを、さんまは、1番打者・柴田勲から順に、打撃フォームのマネをして行き、
最後に、当時、巨人のエースだった小林繁の、特徴的なアンダースローの投球フォームを真似る…というものだったが、
さんまが、小林繁の「形態模写」をやると、これが本当にソックリであり、いつも客は大ウケであった。
そして、1979(昭和54)年、明石家さんまに、思わぬ「追い風」が吹いた。
当時、巨人が、所謂、
「空白の一日」
騒動で、江川卓をゴり押しで巨人に入団させるために、江川を一旦、形式的に阪神に入団させた後、巨人のエース・小林繁を阪神にトレードし、その代わりに江川は巨人のトレードさせる…という、何とも強引な形で、江川は巨人に入った。
この巨人の強引な手法に、当時、世論は猛反発し、巨人と江川は大バッシングを受けてしまったが、それに反して、
「人身御供」
のような形で、巨人から阪神にトレードされてしまった小林繁は、
「悲劇のヒーロー」
として、大人気となってしまった。
そして、この年(1979年)小林繁は、対巨人戦で、
「8勝0敗」
という成績を残し、意地を見せ、ますます世間の喝采を浴びたが、明石家さんまは、小林の巨人時代から、
「小林繁の形態模写」
をやっていたお陰で、その小林が阪神に移籍して大活躍してくれた事もあり、さんまも、関西で絶大な人気を得るようになっていた。
まさに、明石家さんまにとっては、
「小林繁サマサマ」
だった。
そして、翌1980(昭和55)年、
「漫才ブーム」
が起こり、若手芸人達が一挙、大人気とって行ったが、
「漫才ブーム」
の立役者の一人となったのが、ビートたけしだった。
<ビートたけしの登場~明治大学工学部を経て、浅草フランス座で深見千三郎に弟子入りし、ビートたけし・ビートきよしの漫才コンビ「ツービート」を結成>
さて、いよいよ、ビートたけしの話である。
後にビートたけしと名乗る事となる北野武は、1947(昭和22)年1月18日、東京都足立区に生まれた。
幼い頃から「野球少年」だった北野武は、算数や図画工作なども得意な子だったが、
お利口なな2人の兄に比べると、やんちゃで腕白な子だった。
しかし、得意の理数系を活かし、1965(昭和40)年に、明治大学工学部に入学した。
なお、明治では、武は星野仙一と同学年である。
武の学生時代は、
「学生運動」
が激化した時代でもあったが、武は「学生運動」には熱心ではなかったものの、やがて学業もサボりがちになり、大学を中退し、以後、暫くは、アマチュア劇団などで活動する傍ら、いくつかの職を転々とするなど、「根なし草」のような生活を送っていた。
その後、北野武は、紆余曲折を経て、
1972(昭和47)年、当時25歳の頃、
「浅草フランス座」
に流れ着いた。
そして、その「浅草フランス座」で、エレベーターボーイとして働いていた武は、深見千三郎という芸人に弟子入りした。
深見千三郎は、テレビ出演を拒み、徹底して、
「舞台」
にこだわった、昔気質の芸人だったが、武は深見千三郎から、タップダンスなどを仕込まれ、
「芸人のイロハ」
を叩き込まれた。
その後、1974(昭和49)年、北野武は、空きよしという芸人と出逢い、
「一緒に漫才をやろう」
という誘いを受けた。
当時、コント志向が強かった武は、渋っていたものの、その誘いを承諾し、空きよしと共に、
「ツービート」
という漫才コンビを結成し、以後、北野武はビートたけし、空きよしはビートきよしと名乗る事となった。
そして、
「ツービート」
は、毒舌全開で破天荒な、型破りの漫才を披露し、以後、人気は急上昇して行く…。
ちなみに、ビートたけしの若かりし頃、浅草フランス座~ツービート結成の頃を描いた、
『浅草キッド』
という、ビートたけしの「自伝」が、2022(令和4)年に、劇団ひとり監督によって、NETFLIXで映画化され、
深見千三郎役を大泉洋、ビートたけし役を柳楽優弥、ビートきよし役を土屋伸之…が、それぞれ演じ、
桑田佳祐が歌った、
『Soulコブラツイスト~魂の悶絶』
が、主題歌として起用された…というのは、記憶に新しい。
それはともかく、1980(昭和55)年、
「漫才ブーム」
の年を迎える事となった。
<1980(昭和55)年…フジテレビ「THE MANZAI」で「漫才ブーム」が巻き起こる>
1980(昭和55)年、突如として、
「漫才ブーム」
が巻き起こった。
それまで、
「漫才」
と言えば、主に関西の古臭い演芸番組で披露されるもの…といったイメージが強かった。
しかし、この年(1980年)4月以降、フジテレビで、
「THE MANZAI」
という特番が、数回にわたって作られた。
この番組では、舞台は綺麗で華やかにショーアップされ、お客さんも若い人達が中心となり、一気に、
「若者向けコンテンツ」
として、「漫才」を売り出す事を目的としていた。
そして、
「THE MANZAI」
には、
横山やすし・きよし、西川のりお・上方よしお、オール阪神・巨人、ザ・ぼんち、B&B、島田紳助・松本竜介、ツービート…
といった、当時の若手漫才コンビが大挙出演し、彼らの全く新しい感覚の「漫才」は、客席を爆笑の渦に巻き込んでいた。
中でも、全く忖度なしの、
「毒舌漫才」
が売り物のツービートの印象は強烈であり、ビートたけしが、まるで機関銃のように早口で捲し立て、それに対し、ビートきよしがツッコミを入れる…というパターンだったが、例えば、前年(1979年)に始まった、
「クイズ100人に聞きました」
も、ツービートの漫才の餌食になり、たけしは、
「『クイズ100人に聞きました』なんて、くだらねえ番組が始まったけどね、俺だったら、『死刑囚100人に聞きました』とか、そういうクイズをやっちゃうね…」
などというネタを、平気でぶっ込んでいた。
やはり、「芸人」たるもの、それぐらい尖っていなければ、面白くない。
当時のビートたけしは、それはもう、鋭利な刃物のように鋭い感覚で、世の中を斬りまくっていたが、それがツービートの最大の魅力だった。
そして、
「THE MANZAI」
の出演者達と、明石家さんまなどが中心となって、翌1981(昭和56)年、フジテレビで、
「オレたちひょうきん族」
という番組が放送開始される事となった。
<1981(昭和56)年5月16日…フジテレビ「オレたちひょうきん族」(1981~1989)放送開始~「8時だヨ!全員集合」(TBS)VS「オレたちひょうきん族」(フジテレビ)の「土8戦争」勃発!!>
1981(昭和56)年5月16日、
「土曜夜8時」
という時間帯で、フジテレビにて、
「オレたちひょうきん族」
という、新たなバラエティー番組が放送開始された。
「オレたちひょうきん族」
の出演者は、
ビートたけし(ツービート)、島田紳助(紳助・竜介)、島田洋七(B&B)、西川のりお…
など、
「漫才ブーム」
で、大人気となっていた若手芸人が多く、その他、明石家さんま・片岡鶴太郎・山田邦子…などもレギュラー出演していた。
そして、この番組は、
「土曜8時」
という事で、TBSの人気番組、
「8時だヨ!全員集合」
の裏番組だったが、「ひょうきん族」は、番組放送開始当初から、
「打倒・ドリフ、打倒・全員集合」
を公言してやまなかった。
「オレたちひょうきん族」
は、当初は「土曜8時」の「特番」として、数回放送された後、
1981(昭和56)年10月以降、「土曜8時」のレギュラー番組となった。
そして、先程から述べている通り、これで、
「8時だヨ!全員集合」(TBS)と「オレたちひょうきん族」(フジテレビ)は、全く同じ「土曜8時」という時間帯で激突する事となり、ここに、テレビ史上でも名高い、
「土8戦争」
が勃発する事なった。
当初は、老舗の「全員集合」の方が強かったが、ビートたけしが「タケちゃんマン」、明石家さんまが「ブラックデビル」に、それぞれ扮して、たけしとさんまが対決(?)するドラマや、TBSの歌番組、
「ザ・ベストテン」
を、堂々とパクり、島田紳助と、フジテレビアナウンサー・長野智子が司会を務めた、
「ひょうきんベストテン」
のコーナーなどが大人気となり、「ひょうきん族」は若者を中心に大人気となり、徐々に形勢は「ひょうきん族」優勢に傾いて行った。
なお、「余談」だが、私の父は「全員集合」よりも「ひょうきん族」派であり、毎週、「ひょうきん族」を見ながら、ゲラゲラと大笑いしていたものである。
…という事で、
「土8戦争」
が起こった頃、「歌番組」の世界でも、華やかで多士済々な顔ぶれが登場して行く事となった…。
(つづく)