サザンオールスターズと野球界の41年① ~2019年『レッツゴーボウリング』と、イチロー引退~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

私は、以前、このブログで、サザンオールスターズと野球界の出来事を「編年体」で記す、

「サザンオールスターズと野球界の40年」

という連載記事を書いて来た。

その「大長編」は、1978(昭和53)~2018(平成30)年の間の、40年間の「サザン史」を描いており、一応、既に「完結」している。

しかし、その後も今に至るまで、サザンの活動は続いているので、その「続編」を書いてみたいと思う。

 

 

前述の、

「サザンオールスターズと野球界の40年」

「最終回(完結編)」は、2018(平成30)年12月31日の、

「第69回NHK紅白歌合戦」

で、サザンオールスターズユーミン(松任谷由実)「夢の共演」を果たした所で終わっているが、

その続編として、その翌年である、2019(令和元)年のサザンオールスターズ桑田佳祐の活動、そして野球界の出来事などを描いてみたい。

そして、この年(2019年)は、元号が「平成」から「令和」に変わるという、大きな出来事が有った。

という事で、

「サザンオールスターズと野球界の41年(その1)」

を、ご覧頂こう。

 

<桑田佳祐とボウリング①~中山律子の登場で、1970年代前半に「ボウリングブーム」が到来~ボウリング界に続々とスター選手が誕生~学生時代の桑田佳祐もボウリングに熱中>

 

 

かつて、日本中に、

「ボウリングブーム」

が巻き起こった事が有った。

その立役者となったのが、美人で有名だった女子プロボウラーの、中山律子である。

中山律子は、1942(昭和17)年10月12日、鹿児島県に生まれ、その後、群馬県で過ごしていたが、

幼少の頃から運動神経抜群だった中山は、当時23歳だった1965(昭和40)年頃から、ボウリングの道を歩み始めた。

1967(昭和42)年、中山はボウリングの全日本オープン選手権で準優勝すると、翌1968(昭和43)年に東京タワー・ボウリングセンターにスカウトされ、入社した。

ちょうどその頃、1960年代後半頃から、ボウリングの人気が高まっており、

「ボウリングブーム」

の兆しが見え始めた頃であった。

 

 

 

1969(昭和44)年、中山律子は、ボウリングの第1回女子プロテストを受け、後に終生のライバルとなる須田開代子に次いで、惜しくも第2位でプロテストに合格し、プロボウラーとしての道を歩み始めた。

そして、翌1970(昭和45)年7月21日、中山律子は、府中卯スターレーンで開催され、テレビ中継されていた、

「女子プロ8月月例会」

で、海野房枝との優勝決定戦を戦ったが、何と、その優勝決定戦で、中山律子は女子プロ史上初の「公認パーフェクトゲーム」を達成してしまった。

一応、言っておくと、ボウリングにおける「パーフェクトゲーム」とは、

「最初から最後まで、一度もミスをする事なく、全部ストライクを達成する事」

である。

その超難易度の高い「神業」を、中山はテレビ中継されている大舞台で達成してしまった。

 

 

 

こうして、中山律子は一躍、スーパースターの座に就き、

「さわやか律子さん」

というフレーズで話題になった、シャンプーのテレビCMに出演するなど、

中山律子は、ボウリング界の枠を超えた、超人気スターとなった。

そして、中山律子の登場により、

「ボウリングブーム」

が到来すると、1970年代前半、ボウリング界に続々とスター選手達が現れて行った。

 

 

 

先程も少し触れたが、中山律子とはプロ入りの同期だった須田開代子は、その後も中山のライバルであり続け、

「中山律子VS須田開代子」

は、数々の名勝負を繰り広げて行った。

中山と須田は、お互いに激しい戦いを繰り広げる事で、ますます、各々のボウリングの技量を高めて行く。

やはり、ライバルの存在は、人間を大きく成長させるという事であろう。

 

 

 

そして、中山律子・須田開代子の他、

サウスポー(左利き)の石井利枝や、その後も半世紀以上も活躍し続ける事になる斉藤志乃ぶなど、

続々と、人気・実力を兼ね備えた女子プロボウラーが登場して行った。

彼女達の活躍によって、ボウリングの人気は、ますます高まって行く。

 

 

 

 

男子プロの方も、負けてはいない。

矢島純一・酒井武雄・岩上太郎…といった、スター選手達が大活躍し、

1970年代前半、女子も男子も、ボウリング界は多士済々で、非常に盛り上がった。

なお、今、私が名前を挙げた方々は、後に、桑田佳祐の楽曲に登場する方達なので、一応、ご記憶願いたい。

 

 

 

という事で、前述のようなプロボウラー達の大活躍により、

1971(昭和46)~1972(昭和47)年頃にかけて、日本中に、

「ボウリングブーム」

が到来した。

日本中にボウリング場が乱立し、1972(昭和47)年には、遂にボウリング人口は1,000万人に達し、

「ボウリングブーム」

は、頂点に達した。

そして、その頃、ボウリングに熱中していたのが、桑田佳祐少年である。

 

 

「ボウリングブーム」

が、日本中に吹き荒れていた、1971(昭和46)~1972(昭和47)年頃といえば、

桑田佳祐少年は、高校生の頃である。

当時、鎌倉学園高校に通っていた桑田佳祐は、ボウリングに夢中になり、

当時、桑田の地元・茅ヶ崎に在った、

「パシフィック・ホテル」

などのボウリング場に通い詰め、ひたすらボウリングに熱中していたという。

そして、高校時代の桑田は、パーフェクトまであと一歩と迫る、

「298点」

というスコアを出した…という伝説が有る。

それぐらい、桑田少年のボウリングの腕前は物凄く、一時は桑田も本気でプロボウラーを目指した程だった。

しかし、後に桑田は、

「プロボウラーのレベルは高過ぎて、自分にはとても無理だと悟った」

と語っており、プロボウラーになる事を断念してしまった。

そして、その後の桑田は、音楽の道に進み、音楽の才能を発揮して行った…というのは、皆様もご存知の通りである。

また、あれだけ盛り上がった「ボウリングブーム」も、いつしか去ってしまい、ボウリング人気は「下火」になってしまった。

 

<桑田佳祐とボウリング②~2016(平成28)年…桑田佳祐は「還暦」を迎え、矢島純一プロから「マイボウル」をプレゼントされる~桑田の「ボウリング熱」が再燃し、桑田は「パーフェクト」を2度達成>

 

 

さて、それから時は流れ…。

2010(平成22)年、桑田佳祐は食道癌という大病を患ってしまったが、幸い、手術が成功し、その後、桑田は音楽活動に復帰する事が出来た。

そして、2016(平成28)年、桑田佳祐「還暦」を迎えたが、桑田の「還暦」祝いと、快気祝いを兼ねて、ボウリングの矢島純一プロから、桑田に対し、

「マイボール」

がプレゼントされた。

そして、それを機に、桑田は体力を付ける意味合いも有り、高校時代以来、久々にボウリングに取り組む事となった。

 

 

 

すると、それをキッカケとして、桑田佳祐の、

「ボウリング熱」

が再燃してしまい、桑田は再びボウリングに熱中して行く。

そして、何と桑田は、高校時代にはあと一歩で達成出来なかった、「パーフェクトゲーム」を2度も達成してしまうなど、高校の頃を上回る結果も出すまでに至った。

2017(平成29)年には、あのスポーツ雑誌の、

『Number(ナンバー)』

で、桑田佳祐のボウリングが特集されるまでになった。

「ボウリングは、老若男女、誰しもが楽しめるスポーツですよ」

と、その時に桑田は力説していたが、確かに、それは桑田の言う通りである。

 

 

なお、前述の『Number(ナンバー)』で、桑田が表紙を飾った際に、

「ボウリング場でカッコつけて」

というフレーズが書いてあったが、これは言うまでもなく、1998(平成10)年のサザンオールスターズの楽曲、

『LOVE AFFAIR ~秘密のデート~』

の歌詞からの引用である。

この曲を歌う時、桑田はボウリングのポーズを取る事が「お約束」になっているが、流石はボウリングが得意な桑田なだけあって、このフォームが、実にサマになっている。

それは、サザンファンなら誰もが知っている事だが、一応、ご紹介させて頂く。

 

<桑田佳祐とボウリング③~2018(平成30)年11月~2019(平成31)年2月…桑田佳祐が主催の全国規模のボウリング大会「KUWATA CUP」が開催>

 

 

さて、こうして燃え上がった、桑田佳祐の「ボウリング熱」は、新たな試みを生んだ。

2018(平成30)年秋、桑田佳祐は、

「老若男女、誰もが参加出来る、全国規模のボウリング大会」

を主催する事を発表した。

その名も、

「KUWATA CUP」

という物であるが、この大会は、

「生涯スポーツ」「世代を超えたコミュニケーション」「地方創生」「日本中どこでもだれでもが参加できる、みんなのボウリング大会」

…などをコンセプトとしており、事前にエントリーすると、日本全国47都道府県の、501のボウリング場で行われる予選大会に参加する事が出来る。

この大会は、2018(平成30)~2019(平成31)年2月にかけて開催され、この大会で最後まで勝ち上がった参加者は、

2019(平成31)年2月10日、渋谷ヒカリエで開催される、決勝大会に進出出来る…という仕組みだった。

 

 

そして、2019(平成31)年2月10日、渋谷ヒカリエのホールA・特設レーンにて、

「KUWATA CUP」

の決勝大会が開催された。

この決勝大会では、桑田佳祐原由子夫妻が「始球式」を務めたが、

前述の通り、桑田が「パーフェクト」を2度達成したのに対し、原のハイスコアは「209点」との事である。

こうして、「KUWATA CUP」は大成功し、大盛況の内に幕を閉じたが、この「KUWATA CUP」のテーマ曲だったのが、2019(平成31)年1月1日、桑田佳祐&The Pin Boys名義でリリースされた、

『レッツゴーボウリング』

という楽曲である。

 

<2019(平成31)年1月1日…桑田佳祐&The Pin Boys『レッツゴーボウリング』リリース>

 

 

2018(平成30)年12月31日、

「第69回NHK紅白歌合戦」

が開催され、サザンオールスターズユーミン(松任谷由実)「夢の共演」が実現し、大いに盛り上がったが、

その翌日、2019(平成31)年1月1日、桑田佳祐&The Pin Boysが、

『レッツゴーボウリング』

という楽曲をリリースした。

この曲は、前述の通り、

「KUWATA CUP」

のテーマ曲であり、桑田の「ボウリング愛」が一杯に詰まった曲である。

 

 

 

そして、2019(平成31)年1月3日、テレビ東京にて、

「桑田佳祐のレッツゴーボウリング 日米オールスター頂上決戦」

という特別番組が放送されたが、この番組のために、日米のボウリング界のスター選手が出演し、桑田佳祐も含め、ガチンコのボウリング対決が繰り広げられた。

こうして、桑田の「ボウリング愛」は、とうとう、ここまで行き着いてしまったが、この番組では、

『レッツゴーボウリング』

の歌も披露されている。

なお、この曲の歌詞については、後程、ご紹介させて頂く。

 

<2019(平成31)年3月21日…東京ドームの「アスレチックスVSマリナーズ」の開幕戦にて、「日米通算4.267安打」のレジェンド、イチローの引退試合が行われる>

 

 

さて、「KUWATA CUP」が大盛況の内に幕を閉じた1ヶ月後、野球界で大きな出来事が有った。

2019(平成31)年3月20~21日は、東京ドームにて、

「アスレチックスVSマリナーズ」

という対戦で、メジャーリーグの開幕戦が行われたが、この開幕シリーズを以て、マリナーズのイチローが現役引退する事が発表された。

 

 

 

2019(平成31)年3月21日、

「アスレチックスVSマリナーズ」

の開幕第2戦が、イチローの現役最後の試合となったが、試合後、イチローは超満員に膨れ上がった東京ドームの場内を一周し、詰め掛けたファンに別れを告げた。

それは、数々の「伝説」を作って来たスーパースター、イチロー「最後の花道」であった。

 

 

 

試合後の記者会見で、イチローは報道陣から、

「現役引退する事に、後悔は有りませんか?」

と聞かれた際に、

「今日の球場を見たら、後悔などあろう筈がありません」

と答えた。

全てをやり切ったイチローは、超満員のファンの前で、現役最後の雄姿を見せる事が出来たが、

「日本での開幕戦」

という絶妙なタイミングでの引退試合は、まさに「天の配剤」としか言いようが無かった。

何故なら、そもそもこの対戦カードは、元から決まっていた事ではあるが、この試合がイチロー「引退試合」になろうとは、誰も予測していなかった筈だからである(※イチローの引退は、直前に決まった)。

そして、これまた絶妙のタイミングというべきが、この翌年は、あの「とんでもない」出来事が世界中を襲い、世の中が野球どころではなくなってしまうのである。

そう考えると、まさしく、

「このタイミングしか無い」

というような、絶妙なタイミングでのイチローの引退であった。

そういう意味で、やはりイチロー「持っている選手」と言えよう。

こうして、「日米通算4,367安打」のレジェンドは、グラウンドを去った。

 

<2016(平成28)年8月8日…明仁天皇が「生前退位」の意向表明⇒2017(平成29)年6月9日「生前退位特例法」成立⇒2017(平成29)年12月1日…「明仁天皇の2019(平成31)年4月末の「退位」及び翌5月1日~の新天皇即位と新元号施行が決定>

 

 

さて、「平成」という元号が施行されてから28年が経過した、2016(平成28)年、皇室を巡り、大きな動きが有った。

当時、明仁天皇は、高齢により、天皇の「象徴」としての役目を果たす事が難しくなって来た…という意向を、周囲に漏らしていた。

そして、明仁天皇は、

「天皇の位を退きたい」

という意向を示すようになっていた。

しかし、「明治」以降、原則として、天皇は亡くなるまでその地位に在る事が、「皇室典範」により、定められており、

「天皇の退位」

というのは、認められていなかった。

そのため、明仁天皇の意思は、政府にも顧みられる事は無かったという。

 

 

だが、自らの意思が、政府によって顧みられる事が無い事に、業を煮やした明仁天皇は、

2016(平成28)年8月8日、ビデオメッセージにて、

「高齢により、象徴としての努めを安定的に行う事が難しくなった」

という意思を、国民に対し、直接、語り掛けた。

これは、極めて異例の事であった。

この時、明仁天皇は、

「退位をしたい」

と、ハッキリと述べたわけではないが、言外にはその意味が込められていた事は明白であった。

なお、言うまでもないが、明仁天皇は日本国民に寄り添う、「象徴」としての役割を何よりも大切にしていた。

だから、高齢により、その役割が果たせなくなった時、天皇の位を退く事を決意した…という事である。

 

 

こうして、政府(※当時は安倍晋三首相)もとうとう重い腰を上げ、

2017(平成29)年6月9日、

「生前退位特例法」

が成立し、

「明仁天皇の一代限りの特例として、生前退位を行なう」

という事が決定された。

そして、2017(平成29)年12月1日、

「明仁天皇の2019(平成31)年4月末での『生前退位』」

及び、

「翌5月1日~の新天皇即位と新元号施行」

が行われる事が、菅義偉・官房長官により発表された。

なお、天皇の「生前退位」は、江戸時代後期の1817(文化14)年の光格天皇以来、約200年振りの事である。

 

<2019(平成31)年4月1日…新元号「令和」が発表~5月1日より施行>

 

 

 

さて、イチローの引退試合から、約10日後、遂に「新元号」が発表された。

2019(平成31)年4月1日、午前11時40分過ぎ、菅義偉・官房長官により、

「令和」

が、「新元号」となる事が発表された。

当時、私も職場で、

「新元号は、何になるんだろう…」

と、気になって仕方がなく、ソワソワしていた(?)が、恐らく、日本中で、そういう思いをしていた人も多かったのではないだろうか。

なお、全く余談だが、菅義偉は、我が法政大学の大先輩である。

「令和」

の発表という晴れ舞台に立つ、法政の大先輩というのは、私としても、なかなか誇らしかったと言っておく。

という事で、2019(平成31)年4月30日を以て明仁天皇「生前退位」し、翌5月1日、皇太子・徳仁親王が直ちに新天皇に即位、そして「令和」という新元号も施行される事となる。

 

<2019(平成31)年4月30日…明仁天皇が「生前退位」~2019(令和元)年5月1日…皇太子・徳仁親王が新天皇に即位し、新元号「令和」が施行>

 

 

 

2019(平成31)年4月30日、明仁天皇は、

「退位礼正殿の儀」

に臨んだ。

これが、明仁天皇の最後の公務となるが、この時、明仁天皇は、時折、声を詰まらせながら、

「国民に、心から感謝している」

という趣旨の事を述べた。

こうして、「平成」の時代が静かに幕を閉じようとしていた。

 

 

 

そして、遂に元号が変わるという「歴史的瞬間」を迎える事となるが、

東京・渋谷の繁華街などに、多くの人達が集まり、恰も「新年」の到来のカウントダウンのように、

「新元号のカウントダウン」

を行なっていた。

そして、そこには祝祭的な雰囲気が有った。

これは、極めて異例中の異例の事である。

何故なら、先程も少し述べた通り、「明治」以降、原則として天皇の「生前退位」は認められておらず、

しかも、天皇の在位中は、ずっと同一の元号が使用されるという、

「一世一元の制」

が採用されていた。

従って、元号というものは、天皇が亡くなった時に替わるものであった。

だから、元号が替わるという出来事が、「お祭り騒ぎ」になるという事は、全く考えられない事だった。

しかし、今まで述べて来た通り、明仁天皇は、

「生前退位」

という特例を認められたため、極めて異例の事ながら、

「元号が替わる」

という事が、大イベントのようになってしまった…という事である。

なお、これまた蛇足ながら付け加えさせて頂くと、

「〇〇天皇」

というのは、天皇の没後の「 諡(おくりな )」である。

なので、例えば、

「明治の元号の時の天皇」

が亡くなった後に、

「明治天皇」

と称されるようになる…という事であり、それは「大正」「昭和」も同じである。

従って、明仁天皇は、まだ御存命なので、便宜上「明仁天皇」と書かせて頂いた。

ともあれ、2019(令和元)年5月1日、遂に、

「令和」

という新時代が始まった。

そして、日付が変わり、新元号「令和」の時代が始まった瞬間、「カウントダウン」のために集まっていた人達からは、大きな歓声が起こり、街はお祭り騒ぎとなった。

 

 

 

2019(令和元)年5月1日、皇太子・徳仁親王が直ちに新天皇に即位し、同日(2019/5/1)、

「即位後朝見の儀」

に臨んだ。

なお、徳仁親王が新天皇に即位したのと同時に、皇太子妃・雅子妃殿下が、新皇后となった。

こうして、元号は「平成」から「令和」に替わり、新たな時代が始もまった。

ちなみに、退位した明仁天皇「上皇」に、美智子皇后「上皇后」と、それぞれ称される事となった。

…という事で、イチロー引退や、「令和」という新元号施行を巡る出来事は、当時、私もこのブログでリアルタイムで書いていたので、非常に印象深い。

 

<桑田佳祐&The Pin Boys『レッツゴーボウリング』の歌詞を、ご紹介>

 

 

では最後に、結果として、桑田佳祐にとって、

「平成最後にリリースされた楽曲」

となった、桑田佳祐&The Pin Boysの、

『レッツゴーボウリング』

の歌詞を、ご紹介させて頂く。

この曲は、桑田の「ボウリング愛」に溢れた、とても楽しい曲であり、この曲を聴くと、思わずボウリングに行きたくなってしまう(?)ような曲である。

 

 

『レッツゴーボウリング』

作詞・作曲:桑田佳祐

唄:桑田佳祐&The Pin Boys

 

ボウリングが好きなんです

ボウリングが好きなんです

悲しい気分で落ち込む時にゃ

ボウリングをするのです

 

ボウリングをしませんか

ボウリング場に来ませんか

昔はあんなに流行ったけれど

愛しい仲間がいるのです

 

律子さん、志乃ぶさん

開代子さんや利枝さん

栄光の世界

 

矢島さん、酒井さん

岩上太郎さん

伝説の舞台

 

ボウリング場にいる人と

友達になってみませんか

プロボウラーやスタッフさんに

逢いに出かけてみませんか

レッツゴー!!

 

ストライクが出りゃ嬉しいが

テンピン取るのは難しい

レーンという名の大海原に

ボール転がしてみませんか

 

律子さん、志乃ぶさん

開代子さんや利枝さん

喜びと涙

 

矢島さん、酒井さん

岩上太郎さん

夢をありがとう

 

軽やかなステップも

ド派手なフォームも

みんな自由でしょう

 

見ただけじゃわからない

魅力にハマると

奥が深いのさ

 

ボウリングが好きなんです

命の限りに愛します

大人も子供も雨降る日でも

ボウリング場にきませんか

 

幸せ探しにきませんか

 

素敵な仲間が待ってます

 

(つづく)