『勝手にシンドバッド』誕生秘話⑦ ~『UFO』編(前編)~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

今年(2023年)サザンオールスターズは、「デビュー45周年」を迎えたが、

当ブログでは、サザンの「デビュー45周年」を勝手に記念し(?)、

サザンのデビュー曲『勝手にシンドバッド』誕生秘話のシリーズを書いている。

サザンがデビューする前年である1977(昭和52)年、桑田佳祐が、『勝手にしやがれ』(沢田研二)、『渚のシンドバッド』(ピンク・レディー)のタイトルをくっつけ、『勝手にシンドバッド』という曲を作り、それがサザンのデビュー曲になったという「物語」を、私は書かせて頂いた。

 

 

そして、前回の記事では、『勝手にシンドバッド』誕生秘話という趣旨からは少し外れてしまうが、

『勝手にしやがれ』(沢田研二)「アンサー・ソング」としての趣が有る、『プレイバック part2』(山口百恵)についての記事を書き、「歌手:山口百恵」を主人公とした「物語」を書いた。

という事で、今回は『渚のシンドバッド』が大ヒットして以降のピンク・レディー「物語」を書く。

そして、デビュー当時のサザンオールスターズの動向も、併せて書いて行く事としたい。

それでは、「ピンク・レディーの物語」としての、『勝手にシンドバッド』誕生秘話の「UFO」編(前編)を、ご覧頂こう。

 

<1976(昭和51)年…静岡出身のミー(根本美鶴代)・ケイ(増田恵子)の2人組が「スター誕生」で合格し、デビュー決定>

 

 

1971(昭和46)年10月に放送開始された、日本テレビのオーディション番組「スター誕生」は、

森昌子・桜田淳子・山口百恵という、所謂「花の中3トリオ」を輩出し、一気に注目度が高まった。

そして、山口百恵が、群を抜いたスーパーアイドルへと成長して行った事は、既に以前の記事で書いた通りだが、

そのようなスーパースターが誕生した事もあり、明日のスターを夢見る沢山の少年少女達が、「スター誕生」に応募して来るようになった。

 

 

「スター誕生」の応募者の中に、静岡出身のミー(根本美鶴代)・ケイ(増田恵子)という、2人組の女の子が居た。

2人の生年月日は、下記の通りである・

 

・ミー(根本美鶴代)…1958(昭和33)年3月9日

・ケイ(増田恵子)…1957(昭和32)年9月2日

 

ミーとケイは、中学~高校の「同級生」であり、

学生時代は、当時、大人気だった「キャンディーズ」にあやかって、「クッキー」というユニット名を名乗り、「セミプロ」として活動していた。

だが、なかなかプロ・デビューにまでは至らず、2人は焦りを感じていた。

 

 

 

高校卒業を目前に控えた1976(昭和51)年3月、ミーとケイは勝負をかけ、

日本テレビ「スター誕生」へと応募した。

そして、順調に予選大会を勝ち上がったミーとケイは、決勝大会へと駒を進め、

そして、見事に「8社」のレコード会社からスカウトされ、遂に「プロ・デビュー」への切符を掴んだ。

 

 

そして、「スター誕生」の審査員の中に、

作詞家の阿久悠、作曲家の都倉俊一が居たが、

レコード会社・ビクターに所属し、プロ歌手(ユニット)としてデビューする事になったミーとケイの楽曲を、

阿久悠・都倉俊一のコンビが手掛ける事となった。

当初、静岡出身に因んで、「みかん箱」というユニット名や、フォーク・デュオっぽい「白い風船」というユニット名も候補に挙がっていたという。

 

 

しかし、都倉俊一によって、カクテルの名前に因んで、

「ピンク・レディー」

というユニット名が命名された。

何ともお洒落でカッコイイ「ピンク・レディー」という名前を、ミーもケイも大いに気に入った。

こうして、阿久悠・都倉俊一が「仕掛け人」となり、「ピンク・レディー」はデビューする事となった。

 

<1976(昭和51)年8月25日…ピンク・レディーのデビュー曲『ペッパー警部』リリース~オリコン最高「4位」まで上昇し、ピンク・レディーは各種「新人賞」を受賞>

 

 

1976(昭和51)年8月25日、ピンク・レディーは、

『ペッパー警部』(作詞:阿久悠、作曲:都倉俊一)

という曲で、デビューを果たした。

8月後半のデビューというのは、新人歌手としては、いかにも遅かった。

何故なら、年末の音楽番組での「新人賞」を狙うためには、新人歌手は、遅くとも春ぐらいにはデビューしなければらなないというのが、当時の「常識」であった。

従って、こんな遅い時期にデビューしたという事は、当初、ピンク・レディーは、レコード会社(ビクター)からも、あまり期待されていなかったのかもしれない。

 

 

 

だが、あまり期待されていなかった分、ピンク・レディーは、思い切った事をする事が出来た。

まず、それは楽曲のユニークさであった。

『ペッパー警部』というのは、映画『ピンク・パンサー』クルーゾー警部から、阿久悠が着想を得て「創造」した、架空の「警察官」であるが、『ペッパー警部』の主人公である若い男女のカップルが、夜にデートしている最中、良い雰囲気になった所で、無粋な「ペッパー警部」が現れ、

「もしもし、君達、帰りなさい…」

と声を掛け、カップルの良い雰囲気を台無しにしてしまう(?)というような、何とも面白い内容である。

コミカルな内容だが、阿久悠が書いた詞と、都倉俊一が作った曲はとても素晴らしく、それをピンク・レディーの2人が、力強く歌っている。

『ペッパー警部』は、まず楽曲として、とても出来が良かった。

 

 

 

そして、『ペッパー警部』で、特に人目を引いたのが、個性的な「振り付け」である。

『ペッパー警部』の「振り付け」を担当したのが、土居甫という人物であったが、

以後、土居甫は、ピンク・レディーの楽曲の全ての「振り付け」を担当する事となった。

こうして、「作詞:阿久悠、作曲:都倉俊一、振り付け:土居甫、唄:ピンク・レディー」という、一つのプロジェクト・チームが作られ、以後、この体制でピンク・レディーの楽曲は作られて行く事となる。

 

 

 

 

 

 

では、『ペッパー警部』は、どんな「振り付け」だったのかといえば、

まず、イントロが流れると、ピンク・レディーは、両手を身体の右上の上げ、ポーズを取る。

そして、「ペッパー警部」というフレーズでは、右手にマイクを持ちながら、左手を高く上げ、

そして、左手をL字型にして、そのL字型の左手を顔の横に持って来る。

極めつけは、足をパカパカさせる動きだが、これは何ともセクシーというか、大胆な動きであり、

「若い女の子が、はしたない…」

と言われる事も有ったが、これは絶大なインパクトが有った。

 

 

 

ともかく、『ペッパー警部』は、色々と見所、聴き所の多い楽曲であった。

当初、『ペッパー警部』は、売れ行きも今一つだったが、

1976(昭和51)年9月4日には、ピンク・レディーは『ペッパー警部』を引っ提げ、

ザ・ドリフターズの超人気番組「8時だヨ!全員集合」にも初出演を果たす。

そして、『ペッパー警部』という楽曲の素晴らしさと、ピンク・レディーの魅力が、徐々にお茶の間にも浸透し、『ペッパー警部』はヒットチャートを急上昇して行った。

 

 

 

 

 

『ペッパー警部』は、ヒットチャートを急上昇し、

最終的には、『ペッパー警部』はオリコン最高「4位」にまで浮上した。

『ペッパー警部』がヒットした事には、色々な要因が有ったと思われるが、

何よりも、歌手としてのピンク・レディーの魅力による所が大きかった。

ピンク・レディーは、健康的でセクシーで可愛くて、とても「華」が有った。

ピンク・レディーがテレビ画面に登場するだけで、画面は一気に華やいだのである。

 

 

 

 

 

そして、ピンク・レディーは、8月後半という遅いデビューだったにも関わらず、

この年(1976年)の各種音楽賞の「新人賞」を受賞する事となった。

如何に、ピンク・レディーの『ペッパー警部』の大ヒットぶりが凄かったのかという事を示しているが、つい1年前までは、ごく普通の高校生だったミー・ケイという2人組は、気が付けば「ピンク・レディー」という、スーパーアイドルに「変身」していた。

これには、かつて山本リンダフィンガー5を人気歌手に「変身」させて来た阿久悠としても、「してやったり」だったと思われる。

 

<1976(昭和51)年11月25日…ピンク・レディー2枚目のシングル『S・O・S』リリース~ピンク・レディー初のオリコン「1位」を記録>

 

 

 

 

 

さて、デビュー曲『ペッパー警部』を大ヒットさせたピンク・レディーは、

その勢いに乗り、1976(昭和51)年11月25日、

2枚目のシングル『S・O・S』(作詞:阿久悠、作曲:都倉俊一)をリリースした。

この楽曲も、前作『ペッパー警部』と同じ、

「作詞:阿久悠、作曲:都倉俊一、振り付け:土居甫、唄:ピンク・レディー」

という、最強チームによって制作されたが、

『S・O・S』は、主人公である若い女の子が、

「この人だけは大丈夫…」

と、男の子に対して「油断」していたところ、いきなり男の子が「男」に豹変し、女の子が「ピンチ」に陥るという内容である。

「S・O・S」というのは、そういう目に遭っている若い女の子からの「救難信号」(?)の事であり、

阿久悠は、「男は狼なのよ 気を付けなさい…」という、コミカルな詞(?)で、若い女の子に対し、

「若い女の子は、男に対して、あんまり油断したらダメだよ」という「啓蒙」をしているかのようである。

という事で、『S・O・S』も大ヒットし、ピンク・レディーは『S・O・S』で初の「オリコン1位」を獲得した。

 

<1977(昭和52)年3月10日…ピンク・レディー3枚目のシングル『カルメン'77』リリース~2作連続のオリコン「1位」を達成>

 

 

1977(昭和52)年3月10日、ピンク・レディーは、

3枚目のシングル『カルメン'77』(作詞:阿久悠、作曲:都倉俊一)をリリースした。

この曲も、前作・前々作の『ペッパー警部』『S・O・S』に引き続き、

「作詞:阿久悠、作曲:都倉俊一、振り付け:土居甫、唄:ピンク・レディー」

という体制で作られた。

阿久悠は、ピンク・レディーの楽曲の詞を書く時、

「次は、どんな題材にしようか?」

と、毎回、楽しんで書いていたというが、今度の曲の題材に選んだのは、あの超有名オペラの主人公であった。

 

 

それは、ビゼーが作ったオペラ『カルメン』である。

『カルメン』といえば、炎の女・カルメンを主人公とした物語であり、

自らの恋と欲望に忠実に突き進むカルメンは、関わった人達を皆、不幸にしてしまう。

阿久悠は、そんな「炎の女」カルメンをモチーフに、ピンク・レディーの楽曲の主人公を描いた。

 

 

 

 

阿久悠は、ピンク・レディーの新曲として、『カルメン'77』を書いたが、

それは、

「もしも、炎の女・カルメンが現代に現れたら」

というテーマ(?)の楽曲であり、その『カルメン'77』を、ピンク・レディーは情熱的に歌った。

そう、初期のピンク・レディーの楽曲は、実はかなり大人っぽいのである。

そして、『カルメン'77』は、前作『S・O・S』に続き、2作連続「オリコン1位」という大ヒットを記録した。

こうして、デビューから僅か半年余りで、ピンク・レディーは「スーパーアイドル」として大人気になっていた。

 

<1977(昭和52)年6月10日…ピンク・レディー4枚目のシングル『渚のシンドバッド』リリース~3作連続のオリコン1位、ピンク・レディー初のミリオン・セラー(100万枚)の大ヒット!!>

 

 

1977(昭和52)年6月10日、ピンク・レディーは、

4枚目のシングル『渚のシンドバッド』(作詞:阿久悠、作曲:都倉俊一)をリリースした。

引き続き、「作詞:阿久悠、作曲:都倉俊一、振り付け:土居甫、唄:ピンク・レディー」という体制で作られた『渚のシンドバッド』については、既に以前の記事で詳しく書いたが、

『渚のシンドバッド』は、あまりにも完璧な楽曲であり、ピンク・レディーの大ブームを決定付けた作品である。

 

 

 

阿久悠が、今度のピンク・レディーの「新曲」の題材に選んだのが、

「アラビアン・ナイト(千夜一夜物語)」の中の、

『船乗りシンドバッドの冒険』の快男児・シンドバッドである。

阿久悠は、「夏のビーチで、女の子をナンパしまくる男」を「シンドバッド」になぞらえ、

その「シンドバッド」に眉を顰めながらも、どうしようもなく惹かれてしまう女の子…という物語として、

『渚のシンドバッド』の詞を書いた。

そして、ピンク・レディーの爽やかさが、この曲に絶妙にマッチしていた。

 

 

 

 

 

 

 

『渚のシンドバッド』は、ピンク・レディーの魅力全開の楽曲である。

ピンク・レディーの、『渚のシンドバッド』の衣装といえば、

ビキニの水着を着たり、キラキラのラメ入りの衣装だったりと、より一層、セクシーさを増していたが、

『渚のシンドバッド』の衣装の特徴といえば、髪の毛に付けた羽飾りであり、これがアクセントになっている。

そして、『渚のシンドバッド』は、それまでの3曲以上に、とても素晴らしい楽曲であり、「振り付け」も覚えやすく、とてもインパクトが有った。

前の記事でも書いたが、私は『渚のシンドバッド』が、ピンク・レディーの楽曲の中で、最も好きな曲である。

 

 

 

そして、『渚のシンドバッド』は、オリコン8週連続「1位」、

ピンク・レディー初のミリオン・セラー(100万枚)の大ヒットを記録した。

『渚のシンドバッド』の大ヒットにより、ピンク・レディーは日本音楽史上、空前の大ブームを巻き起こした。

ピンク・レディーは、今や向かう所敵無しの「怪物ユニット」へと変貌を遂げていた。

それにしても、『ペッパー警部』でデビューしてから、『渚のシンドバッド』の大ヒットの頃まで、まだ1年も経過していない。

そう考えると、ピンク・レディーの快進撃ぶりは、驚異的であった。

 

<1977(昭和52)年6月6日…フジテレビ「夜のヒットスタジオ」&キャンディーズ&ピンク・レディーの「二大アイドル」が夢の共演>

 

 

 

この頃、当時の芸能界の「二大アイドル」である、

キャンディーズとピンク・レディーが「夢の共演」を果たすという一幕も有った。

1977(昭和52)年6月6日、フジテレビ「夜のヒットスタジオ」にて、

キャンディーズ&ピンク・レディーの「夢の共演」が実現したのである。

当時の芸能界で大人気だった、スーパーアイドル同士の共演であるが、今見ても、誠に豪華な共演である。

学生時代、キャンディーズに憧れ、「クッキー」というユニット名で活動していたミーとケイにとっては、感慨深い物が有った。

だが、この直後、キャンディーズは衝撃的な「解散宣言」をしてしまう。

キャンディーズとピンク・レディーが並び立っていた時代は、実はごくごく短期間であった。

 

<1977(昭和52)年8月27日…サザンオールスターズが「イーストウエスト'77」決勝大会に出場~桑田佳祐が「ベスト・ボーカリスト賞」を受賞し、サザンは「入賞」~サザンはピンク・レディーも所属するビクターにスカウトされる>

 

 

ピンク・レディーの『渚のシンドバッド』が大ヒットし、

空前の「ピンク・レディー旋風」が吹き荒れていた頃、

桑田佳祐・原由子を中心とした、青山学院大学の学生バンド・サザンオールスターズは、

「イーストウエスト'77」

という、アマチュア・バンドのコンクールに出場し、

桑田佳祐「ベスト・ボーカリスト賞」を受賞、サザンも「入賞」を果たし、

サザンは、ピンク・レディーも所属するレコード会社・ビクターに「スカウト」された。

こうして、サザンも「プロ・デビュー」への切符を掴んだが、

サザンが世に出て来るのは、もう少し先の話である。

 

<1977(昭和52)年9月3日…王貞治(巨人)、ハンク・アーロンの記録を破る、「通算756号」ホームランの「世界新記録」達成>

 

 

ピンク・レディーの『渚のシンドバッド』が、大ヒット街道を驀進し、

青山学院大学の学生バンド・サザンオールスターズが、「イーストウエスト'77」を機に、プロ・デビューへの切符を掴んでいた頃、日本中の注目を集めていたのが、プロ野球界のスーパースター・王貞治(巨人)であった。

この年(1977年)王貞治は、ハンク・アーロン「通算755ホームラン」に挑戦し、邁進していたが、

1977(昭和52)年9月3日、後楽園球場の巨人-ヤクルト戦で、王貞治は遂に「通算756号ホームラン」の「世界新記録」を達成した。

王の「756号フィーバー」も、ピンク・レディーと同様、世間を熱狂させたが、野球好きの阿久悠も、勿論、王の活躍には胸を躍らせていた。

この王貞治が、やがてピンク・レディーの楽曲の題材になろうとは、この時、まだ誰も知る由も無かった。

 

<1977(昭和52)年9月5日…ピンク・レディー5枚目のシングル『ウォンテッド(指名手配)』リリース~オリコン12週連続「1位」、ピンク・レディー2作連続のミリオン・セラー(120万枚)の大ヒット!!>

 

 

 

1977(昭和52)年9月5日、ピンク・レディーは、

5枚目のシングル『ウォンテッド(指名手配)』(作詞:阿久悠、作曲:都倉俊一)をリリースした。

なお、「余談」だが、その全く同日(1977/9/5)、「通算756号」を達成した王貞治に対し、時の福田赳夫首相により、「国民栄誉賞」が授与されている。

王は「国民栄誉賞」の第1号となったが、『ウォンテッド(指名手配)』も、日本国民を更に熱狂させる楽曲であった。

 

 

 

 

『ウォンテッド(指名手配)』も、

「作詞:阿久悠、作曲:都倉俊一、振り付け:土居甫、唄:ピンク・レディー」

という体制で作られたが、この体制も5曲目を迎え、更に楽曲の完成度は増していた。

『ウォンテッド(指名手配)』は、まずはミーとケイが見つめ合い、お互いのマイクを相手に対して掲げ、

「私の胸の鍵を 壊して逃げて行った あいつは何処に居るのか 盗んだ心返せ…」

と、いきなりイントロ無しで歌い始める所からスタートする。

ピンク・レディーの2人の、お互いに対する絶対の信頼感を象徴するような出だしである。

 

 

 

 

そして、『ウォンテッド(指名手配)』という楽曲は、

主人公の女の子の心を盗み、すっかり夢中にさせながら、何処かに消えてしまった男を追い掛ける…という、女の子の主人公の心情をテーマにしている。

主人公の男は、ある時は「アラブの大富豪」、またある時は「ニヒルな渡り鳥」などに変装しながら、逃げ回るが、女の子は、その男を何処までも追い掛けて行く。

その女の子が、必死に男を追い掛ける様子を「指名手配」と表現しているのが、阿久悠の発想の面白さであろう。

「ウー、ウォンテッド!!」

という、インパクトの有る「振り付け」も、これまた大いに話題を呼んだ。

 

 

 

そして、『ウォンテッド(指名手配)』は、

オリコン12週連続「1位」、ピンク・レディー2作連続のミリオン・セラー(120万枚)という、爆発的な大ヒットを記録した。

ピンク・レディーの大ブームは、この時、まさに頂点に達しようとしていた。

ピンク・レディーは、テレビやラジオや雑誌など、各媒体の「引っ張りだこ」の、超スーパースターになってしまったが、

この頃、あまりの超多忙さに、ピンク・レディーは「寝る時間も無い」ぐらいの、超ハードスケジュールの日々を送っていたという。

当時、ミーとケイは19~20歳ぐらいと、まだ若かったので、とんでもないハードスケジュールでも、何とか乗り越える事が出来たのであろう。

だが、いくら若いとはいえ、2人の体力と精神力は激しく消耗され、それは筆舌に尽くし難いものであった。

 

<1977(昭和52)年12月5日…ピンク・レディー6枚目のシングル『UFO』リリース>

 

 

1977(昭和52)年12月5日、ピンク・レディーは、

6枚目のシングル『UFO』(作詞:阿久悠、作曲:都倉俊一)をリリースした。

これこそ、ピンク・レディーを象徴する楽曲として、今もなお語り継がれている名曲中の名曲であるが、

『UFO』については、次回の記事で詳しく述べさせて頂く事として、

ここでは、ピンク・レディーの大ブームの真っ最中、1977(昭和52)年の年の暮れに、『UFO』というシングルがリリースされた、という事に留めておく。

 

(つづく)