【サザン・デビュー45周年】『勝手にシンドバッド』誕生秘話①~『勝手にしやがれ』編 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1978(昭和53)年6月25日、サザンオールスターズ『勝手にシンドバッド』をリリースし、デビューを飾ってから、今年(2023年)で「45周年」を迎える事となる。

サザンの「デビュー45周年」の記念日(2023/6/25)まで、もう少しであるが、

私が大好きなサザンの「デビュー45周年」を当ブログでも勝手にお祝いさせて頂きたく思い、このような企画を考えた。

それが、サザンのデビュー曲『勝手にシンドバッド』誕生秘話である。

 

 

非常に良く知られた話だが、そもそも『勝手にシンドバッド』という曲のタイトルは、

1977(昭和52)年の大ヒット曲、沢田研二『勝手にしやがれ』と、ピンク・レディー『渚のシンドバッド』から、

当時、サザンがデビューする前年だった桑田佳祐が、タイトルを「拝借」し、この2つの曲のタイトルをくっつけた物である。

そして、『勝手にしやがれ』『渚のシンドバッド』は、共に阿久悠が作詞をした曲であった。

つまり、『勝手にシンドバッド』には、『勝手にしやがれ』『渚のシンドバッド』という、2つの源流が存在する。

そこで、『勝手にシンドバッド』誕生秘話として、『勝手にしやがれ』『渚のシンドバッド』『勝手にシンドバッド』の、それぞれの誕生秘話を1編ずつ書いてみる事としたい。

という事で、まずは『勝手にしやがれ』編から、ご覧頂こう。

 

<1942(昭和17)年…映画『カサブランカ』公開~「ボギー」ことハンフリー・ボガートと、「絶世の美女」イングリッド・バーグマンが共演した「世紀の名作」>

 

 

 

『勝手にしやがれ』の源流は、1942(昭和17)年に公開されたアメリカ映画『カサブランカ』である。

『カサブランカ』といえば、「ボギー」という愛称で知られたハンフリー・ボガートと、「絶世の美女」と謳われたイングリッド・バーグマンが共演した、不滅の名作映画である。

今でも、『カサブランカ』といえば、「アメリカ映画史上に残る世紀の名作」と言われているが、何故この映画が「名作」になったのかといえば、それは「偶然の産物」であった。

 

 

『カサブランカ』が公開された1942(昭和17)年といえば、第二次世界大戦の真っ最中の時代である。

当時は、ナチス・ドイツを中心にした枢軸国と、英国・フランス・アメリカを中心とした連合国が激しく戦っており、勝敗の行方は、まだどちらに転ぶか全く予断を許さなかった。

ドイツもアメリカも、国民の戦意を昂揚させるため、沢山の「プロパガンダ映画」を作っていたが、『カサブランカ』も、そんな「プロパガンダ映画」の一つとして製作・公開された。

つまり、当初は、『カサブランカ』は大量に上映された、「プログラム・ピクチャー」の一つに過ぎなかった。

しかし、『カサブランカ』という映画の出来栄えがあまりにも素晴らしかったため、単なる「プロパガンダ映画」「プログラム・ピクチャー」の枠を超え、気が付けば『カサブランカ』は「世紀の名作」と称されるまでになってしまったのである。

 

 

では、『カサブランカ』とは、どんな映画なのか、簡単にご紹介させて頂く。

「カサブランカ」とは、アフリカ北部・モロッコの都市であり、第二次世界大戦の真っ只中にあって、ナチス・ドイツの軍門に下っていた、フランスの統治下にあった。

当時、ヨーロッパ各地でのナチス・ドイツの迫害を逃れた人達が、カサブランカには沢山訪れていたが、カサブランカでパスポートを手に入れ、中立国のポルトガルのリスボンに渡り、アメリカへ亡命する事を目指すという亡命者が沢山訪れていた街、それがカサブランカであった。

ハンフリー・ボガート演じるリックは、そのカサブランカで酒場を営んでいる。

リックは、腕の良い黒人ピアニストのサムを雇い、サムの素晴らしいピアノと歌が評判を呼んだ事もあって、リックの酒場は大繁盛していた。

 

 

そんなある日の事、リックの酒場に、飛びっきりの美女が客として現れた。

彼女は、凛々しい顔立ちの男性と一緒に店を訪れたが、その美女は、店でピアノを弾いているサムの顔を見て、ちょっとビックリした顔をしていた。

そして、彼女の姿を見たサムも驚愕の表情をしていた。

実は、この美女とサムは、以前から「顔見知り」であった。

 

 

「サム、久し振りね。元気だったかしら?」

その美女は、連れの男性が席を外している間に、親しげにサムに話しかけた。

「ええ、まあ…」

サムは、とても戸惑っていた。

「ねえ、サム、あの曲を弾いてちょうだい…。『時の過ぎゆくままに(As Time Goes by)』を…」

彼女は、サムに対し、そんなリクエストをした。

ちなみに、この台詞は英語では、

"Play it, Sam…. Play『As Time Goes by』…”

と言っているが、これは映画史に残る名台詞として、未だに引用される事が多い。

 

 

サムは、その美女からのリクエストに対し、当初、渋っていたものの、

「どうしても、歌ってちょうだい」

という彼女からのリクエストに抗し切れず、仕方なく歌い始めた。

こうして、サムが哀愁を帯びた歌声で歌う、

『時の過ぎゆくままに』を聴き、彼女は物思いに耽っていた。

 

 

 

そこへ、険しい顔をしたリックがやって来た。

「おい、サム!!その曲は禁止した筈だぞ!!」

リックはサムを叱責したが、サムが、リックに対し、目配せをして、彼女の事を指し示した。

リックが、その美女に顔を向けると…そこには、彼が良く知った顔が有った。

彼女は、かつてのリックの恋人…イングリッド・バーグマンが演じるイルザであった。

そして、イルザが一緒に居た男性は、ヴィクター・ラズロという、反ナチス・ドイツのレジスタンスの闘士である。

リックは、とても複雑な表情である。

何しろ、イルザはかつて、突然リックの前から姿を消してしまっていた。

それが、思わぬ形で「再会」を果たしたからであった。

 

 

 

実は、リックイルザは、かつてパリに滞在していた頃、熱愛する恋人同士であった。

当時、リックも反ナチスの立場だったが、ひょんな事からイルザと出逢い、熱烈な恋に落ちた。

そして、当時からリックに付き従っていたのが、黒人ピアニストのサムである。

サムは、「ラブラブ」な恋人同士だったリックとイルザのために、

『時の過ぎゆくままに』

という曲を、良く歌ってあげていた。

つまり、この曲はリックとイルザにとって、思い出の曲だったのである。

 

 

ところで、『カサブランカ』といえば、あまりにも有名な、

「君の瞳に乾杯」

という台詞が有る。

これは、英語の台詞では、

”Here's looking at you,kid.”

と言っているのだが、直訳すると、

「子猫ちゃん、君を見つめて乾杯」

というような言葉になるようである。

それを、当時の翻訳家が、思い切って、

「君の瞳に乾杯」

という台詞に「意訳」してしまい、これが超有名な「名台詞」になった。

リックは、イルザとお酒を飲む時、良くこの言葉を言っていた(※『カサブランカ』の中で、この台詞は何度も出てくる)

ちなみに、『カサブランカ』には、「これでもか」というぐらい、名台詞が沢山出て来るのだが、それも、この映画の素晴らしさを引き立たせている。

 

 

という事で、パリではリックイルザは、とても幸せな日々を送っていた。

しかし、そんな幸せな日々も、突如、終わりを迎えてしまう。

1940(昭和15)年、ナチス・ドイツがフランスに侵攻し、パリへと迫って来たからである。

リックは、イルザと共にパリを逃れようとするが、そんな中、イルザは突如、リックの前から姿を消してしまった…。

実は、イルザはナチスとの戦いを決意し、「反ナチス」の闘士、ヴィクター・ラズロの元に走ったのであった。

イルザに去られてしまったリックは、とても傷付いた。

そして、彼女を忘れるため、カサブランカに渡ったリックは、過去と訣別するため、酒場を経営するようになった。

 

 

 

 

…という事で、この後、リック、イルザ、そしてヴィクター・ラズロの三者が、

ナチスとの闘いや、亡命を巡る葛藤なども有り、波乱万丈の物語が展開されて行くのだが、

この調子で行くと、この記事は『カサブランカ』だけで終わってしまうので、『カサブランカ』については、また別の機会にでも語らせて頂く事としたい。

一つ言えるのは、『カサブランカ』は本当に素晴らしい映画であり、私も大好きな作品だという事である。

なお、『カサブランカ』に主演したハンフリー・ボガート「ボギー」という愛称で親しまれる大スターとなった。

そして、「ボギー」の相手役を演じたイングリッド・バーグマンも、映画史上に残る美女として、歴史に名を残した。

 

<映画青年・阿久悠と、オードリー・ヘップバーン、ハンフリー・ボガート、ウィリアム・ホールデンが共演した『麗しのサブリナ』>

 

 

さて、ここで日本に視点を移してみよう。

日本では、一人のある「映画青年」が、洋画に夢中の日々を送っていた。

それが、1937(昭和12)年2月7日、兵庫県洲本市に生まれた深田公之…後の阿久悠である。

前述の『カサブランカ』は、阿久悠が5歳の時に公開された映画であるが、当時は日本とアメリカは戦争中であり、日本ではアメリカ映画などは見る事が出来なかった。

戦後、沢山の洋画が日本で上映されるようになったが、青年時代の阿久悠も、映画館に通い、夢中になって沢山の洋画を見ていた。

洲本高校時代、阿久悠は映画三昧の「映画青年」であり、沢山の本を読む「文学青年」でもあった。

 

 

 

 

1954(昭和29)年、阿久悠が洲本高校に在学していた頃、

オードリー・ヘップバーン主演の映画『麗しのサブリナ』が日本でも公開された。

『麗しのサブリナ』では、オードリー・ヘップバーンと、あの「ボギー」ことハンフリー・ボガート、そしてウィリアム・ホールデンという大スター同士が共演しており、オードリー初の主演映画『ローマの休日』に続き、『麗しのサブリナ』も大ヒットした。

 

 

 

そして、阿久悠オードリー・ヘップバーンには夢中になったが、

絵がとても上手かった阿久悠青年は、オードリーのイラストを描いたりしている。

「映画って、良いな…」

阿久悠は、沢山の映画を見て行く内に、

「自分も、こんな物語を描いてみたい」

と思うようになって行った。

 

<1960(昭和35)年…ゴダール監督のフランス映画『勝手にしやがれ』公開~「ヌーヴェル・ヴァーグ」旋風が巻き起こる~阿久悠は明治大学を卒業し宣弘社に入社>

 

 

1955(昭和30)年、阿久悠は洲本高校を卒業し、明治大学に進学した。

明治大学文学部に進んだ阿久悠は、引き続き映画や文学に熱中し、小説の習作なども行なっていた。

阿久悠は一時は教員を目指していたが、諸事情により教員になる事は断念した。

そして、阿久悠が就職を目指したのが、宣弘社という広告会社であった。

 

 

当時、日本は「戦後復興」の時代を迎えていたが、

宣弘社は、数々の企業のネオンサインを手掛けたり、

1958(昭和33)年には、日本初の国産テレビ映画『月光仮面』を大ヒットさせるなど、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いであった。

阿久悠は、「これからは、広告の時代だ!!」と直感が働いた事もあり、宣弘社に入りたいと願った。

 

 

1959(昭和34)年春、明治大学を卒業した阿久悠は、

無事に宣弘社に入社し、企画課に配属されたが、

阿久悠は映画鑑賞や読書で培った企画力を活かし、沢山の企画書を手掛けた。

そして、阿久悠が「広告マン」として働き始めていた1960(昭和35)年、世界の映画史を変える、衝撃の映画が公開された。

 

 

その映画というのが、1960(昭和35)年に公開された、ジャン・リュック・ゴダール監督のフランス映画『勝手にしやがれ』である。

この映画のフランス語の原題は、

"À bout de souffle"という物であり、直訳すると、

「息せき切って」

という物であるが、そのまま直訳するのではなく、

『勝手にしやがれ』

という邦題で公開された。

これは、主演のジャン・ポール・ベルモンドの劇中の台詞から取られたものである。

 

 

 

では、『勝手にしやがれ』とは、どんな映画なのか、簡単にご紹介させて頂くと、

一言で言えば、「パリを舞台に描かれた、無軌道で自由奔放なチンピラを主人公とした映画」である。

ジャン・ポール・ベルモンド演じるミシェルは、「ボギー」ことハンフリー・ボガートに憧れる青年であった。

「ボギー」に憧れるミシェルは、「ボギー」を真似て、ソフト帽を粋に被って、カッコ付けたりしているが、実は殺人を犯した逃亡者であった。

そんなミシェルには、アメリカ人のガールフレンド、パトリシアが居たが、パトリシアを演じていたのが、ベリー・ショートの髪型が似合う、ジーン・セバーグである。

 

 

ミシェルというのは、とにかく、やる事なす事がメチャクチャであり、どうしようもないチンピラだが、そんな彼が劇中で言い放った台詞、

「海が嫌いなら、山が嫌いなら、都会が嫌いなら、勝手にしやがれ!!」

は、とても有名になった。

という事で、『勝手にしやがれ』は、映画界の新しい潮流「ヌーヴェル・ヴァーグ」を象徴する作品となり、

この映画を撮ったゴダールと、主演のジャン・ポール・ベルモンドは、一躍、映画界の大スターとなった。

そして、当時23歳の阿久悠も、自由奔放に撮られた映画『勝手にしやがれ』には衝撃を受けた。

 

<1967(昭和42)~1968(昭和43)年…「GSブーム」と、沢田研二の「ザ・タイガース」の大活躍~阿久悠も『朝まで待てない』(1967年)で「作詞家デビュー」>

 

 

 

さて、1966(昭和41)年のザ・ビートルズ来日を機に、

日本の音楽界に「GS(グループ・サウンズ)」の時代が到来し、

1967(昭和42)~1968(昭和43)年にかけて、

「GSブーム」

が到来し、数々のGSのバンドが誕生した。

「猫も杓子もGS」

というような状況だったが、数多あるGSのバンドの中で、最も人気が有ったのが、

「ザ・タイガース」

である。

 

 

 

「ザ・タイガース」は、「ジュリー」こと沢田研二がボーカルを務めるバンドだったが、

当時の「ザ・タイガース」と沢田研二の人気は凄まじく、それこそ、日本中の女の子が熱狂していたと言って良い。

沢田研二は、日本人離れした、彫りの深い顔立ちの美青年であり、とてもカッコ良かったが、

彼はカッコイイのは勿論の事、とても歌が上手く、歌手としても確かな実力が有った。

「ザ・タイガース」があれほど売れたのは、ボーカルの沢田研二の歌が素晴らしかったという要因がとても大きかったと思われる。

 

 

 

そんな「GSブーム」の波に乗り、

1967(昭和42)年、当時30歳の阿久悠は、宣弘社に在籍したまま、

GSの「ザ・モップス」のために『朝まで待てない』の作詞を行なった。

これが、「作詞家・阿久悠」の「デビュー作」となったが、

以後、阿久悠は1970(昭和45)年の北原ミレイ『ざんげの値打ちもない』、1971(昭和46)年の尾崎紀世彦『また逢う日まで』などの大ヒット曲を飛ばし、新進気鋭の作詞家として順調なスタートを切った。

 

<「ザ・タイガース」解散以降の沢田研二~1971(昭和46)年…「ザ・タイガース」解散⇒1971(昭和46)~1972(昭和47)年…「PYG」として活動⇒ソロ・デビューした沢田研二、1973(昭和48)年に『危険なふたり』を大ヒットさせる>

 

 

1971(昭和46)年1月24日、人気絶頂の「ザ・タイガース」は解散してしまい、

日本武道館で「ザ・タイガース」の解散コンサートが開かれた。

以後、「ザ・タイガース」の各メンバーはソロとして活動して行く事となるが、

「ザ・タイガース」の沢田研二は、新たなバンドを結成する事となった。

 

 

1971(昭和46)年、「ザ・タイガース」沢田研二、「ザ・テンプターズ」萩原健一を中心とした、

沢田研二・萩原健一・岸部修三・大野克夫・井上堯之・大口宏司ら、

「GS界のオールスター」が勢揃いした新バンド「PYG」が結成された。

しかし、「PYG」は1971(昭和46)~1972(昭和47)年の間しか活動せず、萩原健一は脱退し、ソロ歌手や俳優として活動するようになり、沢田研二もソロ歌手に転じた。

 

 

 

なお、萩原が脱退した後、残りのメンバーは沢田研二のバックで演奏する「井上堯之バンド」となり、

萩原健一が出演した『太陽にほえろ!』『傷だらけの天使』のテーマ曲を演奏した事でも知られている。

この「井上堯之バンド」を番組関係者に推薦したのが、「PYG」を脱退してしまった萩原健一であった。

もしかしたら、先に脱退してしまった萩原の「罪滅ぼし」の意味も有ったのかもしれない。

 

 

沢田研二は、ソロ・デビューして以降、暫くはヒット曲に恵まれなかったが、

1973(昭和48)年、沢田研二の6枚目のシングル『危険なふたり』(作詞:安井かずみ、作曲:加瀬邦彦)が大ヒットし、沢田研二は、遂にソロ歌手としてもブレイクを果たした。

そして、沢田研二がソロ歌手として確かな地位を築きつつあった時、遂に阿久悠・沢田研二が出逢い「最強タッグ」を組む事となる。

 

<1975(昭和50)年…沢田研二の14枚目のシングル『時の過ぎゆくままに』(作詞・阿久悠、作曲:大野克夫)が大ヒット~「阿久悠&沢田研二」の「最強タッグ」が大ヒットを飛ばす>

 

 

 

 

1975(昭和50)年、沢田研二が「三億円事件」の犯人役を演じ、

主演を務めたTBSドラマ『悪魔のようなあいつ』が放送されたが、

そのドラマの主題歌としてリリースされたのが、

『時の過ぎゆくままに』

という楽曲である。

「作詞:阿久悠、作曲:大野克夫」

のコンビが手掛けた曲であり、遂に沢田研二・阿久悠が「最強タッグ」を組んだ。

 

 

 

 

そして、『時の過ぎゆくままに』は大ヒットを記録し、

ソロ歌手・沢田研二の最大のヒット曲となったが、

もう皆様もお気付きの通り、『時の過ぎゆくままに』は、

あの映画『カサブランカ』で、黒人ピアニストのサムが歌っていた曲のタイトルである。

そう、阿久悠は『カサブランカ』からタイトルを「拝借」したが、阿久悠は、

「沢田研二という歌手に詞を書く時、彼に1つの物語の主人公を演じてもらうつもりで書いていた」

と、後に語っている。

つまり、阿久悠は沢田研二を主役とした「物語」を創造していたという事である。

そして、「阿久悠&沢田研二」の「最強タッグ」が生み出した物語の「最高傑作」こそ、1977(昭和52)年にリリースされた『勝手にしやがれ』である。

 

<1977(昭和52)年…『勝手にしやがれ』(作詞:阿久悠、作曲:大野克夫)が爆発的な大ヒット!!>

 

 

 

1977(昭和52)年5月21日、遂に「あの曲」がリリースされる。

それが、沢田研二の19枚目のシングル『勝手にしやがれ』(作詞:阿久悠、作曲:大野克夫)である。

「作詞:阿久悠、作曲:大野克夫、歌:沢田研二」

という黄金トリオが、『時の過ぎゆくままに』に引き続き、とても素晴らしい楽曲を世に送り出した。

この曲のタイトルは、勿論、あの1960(昭和35)年のフランス映画『勝手にしやがれ』からの引用である。

という事で、まずは『勝手にしやがれ』の歌詞を、ご覧頂こう。

 

 

『勝手にしやがれ』

作詞:阿久悠

作曲:大野克夫

唄:沢田研二

 

壁ぎわに寝がえり打って 背中できいている

やっぱりお前は出て行くんだな

悪いことばかりじゃないと 思い出かき集め

鞄につめこむ気配がしてる

 

行ったきりなら幸せになるがいい

戻る気になりゃいつでもおいでよ

せめて少しはカッコつけさせてくれ

寝たふりしてる間に出て行ってくれ

 

アア アアア アアア アア

アア アアア アアア アア

 

バーボンのボトルを抱いて 夜ふけの窓に立つ

お前がふらふら行くのが見える

さよならと言うのもなぜか しらけた感じだし

あばよとサラリと送ってみるか

 

別にふざけて困らせたわけじゃない

愛というのに照れてただけだよ

 

※夜というのに派手なレコードかけて

朝までふざけよう ワンマンショーで

アア アアア アアア アア

アア アアア アアア アア

 

(※くりかえし)

 

 

…というわけであるが、

『勝手にしやがれ』は、阿久悠が「男女の別れの場面」を、とても劇的に切り取っている。

まるで映画のワンシーンのように情景が目に浮かぶが、流石は阿久悠といった所である。

そして、作曲の大野克夫も、メチャクチャ印象的でカッコイイ最高のイントロから、

とても疾走感の有る、素晴らしい楽曲を書いている。

 

 

 

そして、『勝手にしやがれ』における、沢田研二の衣装は、

ご覧の通り、カッコ良くスーツを着こなし、ソフト帽を斜めに被っているが、

これは、どう見ても『カサブランカ』のハンフリー・ボガートや、『勝手にしやがれ』のジャン・ポール・ベルモンドを意識した物であろう。

そう、阿久悠が語っていた通り、『勝手にしやがれ』の沢田研二は、1つの映画の主人公を演じているように歌っているのである。

 

 

 

 

 

 

そして、『勝手にしやがれ』で大いに話題になったのが、沢田研二のパフォーマンスである。

「行ったきりなら幸せになるがいい…」

の部分で、沢田研二は、被っている帽子を取り、その帽子を放り投げる。

そして、「寝たふりしてる間に出て行ってくれ…」の部分で、カメラに向かって指さした後、

「アア アアア…」の部分では、両手を上に上げ、全身を揺らすような「振り付け」をしている。

このように、『勝手にしやがれ』の全編にわたり、ただ歌うだけではなく、沢田研二は全身を使って「芝居」をしているかのようである。

 

 

 

 

という事で、『勝手にしやがれ』は、

「阿久悠が書いた映画の一場面のような印象的な詞、大野克夫が書いた素晴らしい楽曲、沢田研二の抜群の歌唱力と最高のパフォーマンス」

が、三位一体となり、奇跡的な化学反応を示した、最高の出来栄えの楽曲となったが、

『勝手にしやがれ』は爆発的な大ヒットを記録し、1977(昭和52)年の日本レコード大賞を受賞した。

そして、沢田研二のために、萩原健一・大野克夫・井上堯之や、かつての「ザ・タイガース」のメンバー達なども、お祝いに駆け付けている。

沢田研二も万感の表情だったが、『勝手にしやがれ』という傑作を生み出した阿久悠も、大変な充実感が有ったに違いない。

なお、全く「余談」だが、『勝手にしやがれ』は私のカラオケの「十八番」である(※何百回も練習したので、歌詞は全く見ずに歌える)。

それぐらい、『勝手にしやがれ』は、私も大好きな楽曲である。