1978(昭和53)年4月4日、後楽園球場で「キャンディーズ」の解散コンサートが行われ、
それと全く同日(1978/4/4)横浜スタジアムで、新生・横浜大洋ホエールズの本拠地開幕戦が行われたが、そこに至るまでの、
「キャンディーズと大洋ホエールズの物語」
を、連載中である。
前回は、1975(昭和50)年夏、「キャンディーズ」が6枚目のシングル『内気なあいつ』をスマッシュヒットさせ、「キャンディーズ」の熱狂的なファン達を引き連れた、バスツアーを開催した所までを描いた。
1975(昭和50)年の「キャンディーズ」は、5枚目のシングル『年下の男の子』を大ヒットさせ、一気に大ブレイクを果たしたが、
その「キャンディーズ」はこの年(1975年)、「ファン」達との結束を強めて行く事なる。
という事で、1975(昭和50)年秋の「キャンディーズと大洋ホエールズの物語」を、ご覧頂こう。
<1975(昭和50)年8月15日…広島郵便貯金ホール⇒同年(1975年)8月17日…大阪フェスティバルホールにて、「キャンディーズ」コンサート開催~「キャンディーズ」初の単独開催による、地方公演のコンサート>
「キャンディーズ」は、終始、「歌」を大切にして来たグループである。
それは、デビューからずっと変わる事は無かったが、
1975(昭和50)年、5枚目のシングル『年下の男の子』を大ヒットさせた後も、その姿勢は変わらなかった。
そして、この年「キャンディーズ」は、積極的に「ライブ活動」を行ない、
ファンの前で直接、歌を披露する機会を設けた。
1975(昭和50)年8月15日、「キャンディーズ」は広島郵便貯金ホールにて、初の単独開催による地方公演のコンサートを開催した。
広島といえば、かつて、ブレイク前の「キャンディーズ」が、「広島ナタリー」というレジャーランドのCMキャラクターとして起用してくれたという、「大恩」有る土地であるが、それから幾星霜、遂に「売れっ子」の仲間入りを果たした「キャンディーズ」は、広島の地に「凱旋」を果たした。
そして、その2日後の1975(昭和50)年8月17日、「キャンディーズ」は、大阪フェスティバルホールでもコンサートを開催し、「キャンディーズ」は、広島と大阪のファン達を、それぞれ熱狂させた。
これを機に、「キャンディーズ」はコンサートを沢山開き、ファンの前に積極的に登場するという「戦略」を取って行く事となる。
<1975(昭和50)年8月26日…「日劇ウエスタン・カーニバル」で「キャンディーズ・ショー」開催>
それから約10日後、1975(昭和50)年8月26日、
「キャンディーズ」は、今度は伝統有る「日劇ウエスタンカーニバル」で、「キャンディーズ・ショー」を開催した。
「日劇ウエスタンカーニバル」といえば、かつては「ロカビリー旋風」を起こし、その後は「GSブーム」の火付け役にもなったが、その「日劇ウエスタンカーニバル」の舞台に、「キャンディーズ」は堂々たる人気アイドルとして登場した。
勿論、この「キャンディーズショー」にも、熱狂的な「キャンディーズ」ファンが、多数、詰め掛けていた。
思えば、1975(昭和50)年の「キャンディーズ」は、年明けの頃は、
「ザ・ドリフターズ・ショー」に出た時も、ほんの「オマケ」扱いであった。
しかし、その直後、『年下の男の子』が大ヒットした事により、状況は「激変」し、
「キャンディーズ」は、あっという間に「スター」の仲間入りを果たした。
ラン(伊藤蘭)・スー(田中好子)・ミキ(藤村美樹)の3人は、この状況を喜んだというよりも、
目まぐるしく変わって行く状況に、付いて行くだけで必死だったかもしれない。
それぐらい、この短い期間で、全てがガラッと変わっていた。
<1975(昭和50)年9月1日…「キャンディーズ」7枚目のシングル『その気にさせないで』リリース~オリコン最高「17位」のスマッシュヒット>
1975(昭和50)年9月1日、「キャンディーズ」は7枚目のシングル『その気にさせないで』をリリースした。
『その気にさせないで』も、ラン(伊藤蘭)が「センター」を務め、スー(田中好子)・ミキ(藤村美樹)が脇を固めているが、この曲は、それまでの「キャンディーズ」のイメージを変えるような、カッコいい曲調が印象的である。
「スリーディグリーズを、チョッピリ意識したような、ソウルフルな曲です。色っぽくせまったつもりでしたが、そうでもなかったカナ。コーラスが決まった時の気分は最高でした。振りも気に入っています」
…後に、『その気にさせないで』について、ラン(伊藤蘭)は、そのようなコメントを残しているが、
「キャンディーズ」のために、作家陣も腕によりをかけて、ちょっと難易度の高い曲を提供するようになっており、「キャンディーズ」のメンバー達も、懸命にそれに応えようとしていた。
こうしてリリースされた『その気にさせないで』は、
「キャンディーズ」ファン達の後押しを受け、オリコン最高「17位」という、スマッシュヒットとなった。
なお、『その気にさせないで』のジャケット撮影は、この年(1975年)の6月、まだ冷たい大磯の海で行われたが、
スー(田中好子)が、危うく波にさらわれそうになるというアクシデントが有った。
そのため、『その気にさせないで』のジャケット写真に写っている3人の表情は、少し強張っているというか、ただならぬ雰囲気が有る。
だが、その表情は、今までの「キャンディーズ」に無かったような、独特の「色気」を醸し出すという、思わぬ効果も有った。
<1975(昭和50)年10月1日…「キャンディーズ」7枚目のアルバム『その気にさせないで』リリース>
「キャンディーズ」7枚目のシングル『その気にさせないで』リリースから1ヶ月後、
1975(昭和50)年10月1日、「キャンディーズ」は、シングルと同名タイトルである、『その気にさせないで』をリリースした。
アルバムは全12曲が収録されているが、シングル『その気にさせないで』と同じ写真が流用されている。
なお、前述の通り、このジャケット撮影の時、スー(田中好子)が、危うく大磯の海の波にさらわれそうになるというアクシデントが有ったが、
「このジャケットは、私達はとても気に入っている」
と、スー(田中好子)は後に振り返っている。
<1975(昭和50)年の大洋ホエールズ~かつての大エース・秋山登監督率いる大洋、「5位」と低迷~長嶋巨人の「最下位」転落で、辛うじて「5位」を死守>
さて、かつての大エース・秋山登が監督に就任し、大きな期待をかけられていた、1975(昭和50)年の大洋ホエールズは、残念ながら「5位」に終わってしまった。
当時の大洋といえば、頼れる投手はエース・平松政次のみであり、松原誠・シピン・山下大輔…といった野手陣は活躍したが、如何せん、大洋はチームとしての総合力が弱かった。
この年(1975年)は、「長嶋巨人」が「最下位」に転落したため、大洋は辛うじて「最下位」を免れ、「5位」を死守したものの、大洋は終始、下位に低迷してしまい、投手出身の秋山監督は、投手陣を整備する事が出来ず、苦悩の深いシーズンとなってしまた。
大洋の本拠地・川崎球場は、巨人戦以外は常にガラガラだったが、大洋は4年連続Bクラスと低迷したとあっては、それも仕方無い事であった。
果たして、大洋ホエールズは浮上のキッカケを掴む事は出来るのであろうか?
<1975(昭和50)年…「長嶋巨人」は球団史上初の「最下位」に転落>
前述の通り、1975(昭和50)年の大洋ホエールズは「5位」という結果だったが、
この年(1975年)は長嶋茂雄監督率いる「長嶋巨人」が、とにかく弱すぎであった。
「長嶋巨人」は、この年(1975年)、遂に球団史上初の「最下位」に転落してしまったのである。
前回の記事でも書いた通り、あまりにも弱すぎる「長嶋巨人」を応援しようと、本拠地・後楽園球場は連日、超満員となったが、長嶋監督にとって、それは却って屈辱的だったかもしれない。
あの名門・巨人軍が、
「弱すぎるから、応援してやろう」
などという立場になってしまう事自体、何とも情けない事ではあった。
そして、「最下位」に沈んだ「長嶋巨人」を尻目に、遂に「あの球団」に、栄光の時が訪れる事となった。
<1975(昭和50)年10月15日…広島カープ、球団創立26年目で悲願の初優勝!!~「マジック1」の広島カープが、巨人の本拠地・後楽園球場で巨人を破り、「広島カープ初優勝」が決定>
さて、1975(昭和50)年の「主役」といえば、「キャンディーズ」もそうだが、
やはり、広島カープこそが、この年(1975年)を象徴する存在と言って良いであろう。
以前の記事でも書いたが、この年(1975年)広島カープの監督に就任したジョー・ルーツは、
「万年Bクラス」に低迷するカープの選手達に闘志を植え付けるため、ユニフォームの色を「赤」を基調とした物に変えた。
ところが、1975(昭和50)年4月27日、ルーツ監督は、甲子園球場の「阪神VS広島」の試合で、審判の判定に猛抗議し、「退場」を命じられた後も、その場を動かず、グラウンドに入って来た、広島の球団社長に説得された。
ルーツ監督は、これを「フロントによる現場介入」と受け止め、そのまま辞任してしまった。
その後、急遽、ルーツ監督の後を継いだ、古葉竹識監督率いる広島カープは、
例年と違い、粘り強い戦いを続け、首位戦線に食らい付いていた。
そして、前回の記事でも書いたが、
「オールスターゲームでの、山本浩二・衣笠祥雄の2打席連続アベックホームラン」
を機に、全国的に「赤ヘル旋風」が注目されるようになって行った。
そして、オールスター以降も、広島カープは、中日ドラゴンズ・阪神タイガースとの「三つ巴」の首位争いを繰り広げた。
そして、夏場を過ぎても、首位争いを繰り広げるカープを応援しようと、球場には連日、沢山のファンが詰め掛けるようになっていた。
広島カープは、それまで球団創設25年間、一度も優勝した事は無かったが、
「ひょっとしたら、今年のカープは優勝出来るかも!?」
というファンの期待は、一気に高まって行った。
そして、カープの行く所、どの球場も沢山のカープファンが詰め掛け、物凄い熱気となっていた。
「赤ヘルブーム」
は、まさに社会現象となって行った。
1975(昭和50)年9月、セ・リーグの優勝争いは、
広島カープと中日ドラゴンズの「2強」の争いに絞られていた。
そんな中、1975(昭和50)年9月10日、広島市民球場の「広島VS中日」の試合で、
審判の判定を巡り、熱くなり過ぎた広島ファンが「暴徒」と化し、グラウンドに大挙して雪崩れ込み、大暴れするという、残念な出来事も有ったが、それもこれも、
「カープの優勝が見たい!!」
という、カープファンの熱い思いが表に出てしまった為であった。
そして、1975(昭和50)年10月15日、遂に運命の「大一番」がやって来た。
この日(1975/10/15)広島カープは「マジック1」として、「長嶋巨人」の本拠地・後楽園球場に乗り込んだが、遂に初優勝に「王手」を掛けていたカープを応援しようと、日本全国からカープファンが一斉に後楽園球場に集まり、後楽園は、カープファンの「赤」一色で埋め尽くされていた。
こうして、「巨人VS広島」の大一番が幕を開けたが、
カープファンの大声援を受け、5回表、カープは大下剛史のタイムリーで1点を先取した。
そして、カープが1-0と、僅か1点リードのまま9回表を迎えたが、
カープは9回表2死1・2塁のチャンスを作ると、
この場面でホプキンスがライトスタンドへ値千金の3ランホームランを放った。
この時、カープファン一色の後楽園球場は興奮の坩堝と化したが、三塁コーチを務める、広島・古葉監督も、喜色満面であり、カープの選手達も大喜びで、ホプキンスを出迎えた。
そして、カープが4-0とリードした9回裏のマウンドには、
カープの抑えの切り札・金城基泰が上ったが、
9回裏2死、金城は巨人の最後の打者・柴田勲をレフトフライに打ち取った。
この瞬間、広島カープの球団創設26年目の悲願の初優勝が決まった。
カープ初優勝が決まった瞬間、カープの選手達は一斉にマウンドに集まり、喜びを爆発させた。
そして、カープ初優勝決定と同時に、後楽園球場のグラウンドには、一斉にカープファンが雪崩れ込み、カープの選手とファンが一体となって、古葉監督を胴上げした。
山本浩二は、感極まり号泣していたが、遂にカープは夢にまで見た「初優勝」を現実の物として、栄光のゴールテープを切った。
広島カープの初優勝は、本当に感動的な出来事だったが、この出来事は、「最下位」に沈む「長嶋巨人」の本拠地・後楽園球場で起こった。
長嶋監督は、屈辱の思いをグッと噛み締め、カープの歓喜の瞬間を見詰めていた。
<1975(昭和50)年…上田利治監督率いる阪急ブレーブスが優勝~「阪急VS広島」の日本シリーズで、阪急が広島を4勝2分で破り、阪急ブレーブスが球団創設40年目で初の「日本一」>
という事で、広島カープの初優勝は、日本全国に感動の渦を巻き起こしたが、
1975(昭和50)年のプロ野球の頂点に立ったのは、上田利治監督率いる阪急ブレーブスである。
この年(1975年)阪急には、関西大学-松下電器で活躍していた、剛速球投手・山口高志が入団したが、
上田監督は、山口を先発に抑えにと、フル回転させたが、その山口の大活躍により、阪急ブレーブスは、まずは1975(昭和50)年の前期優勝を果たした。
そして、1975(昭和50)年パ・リーグ後期は、かつて阪急を率いていた西本幸雄監督の近鉄バファローズが後期優勝を果たし、
「阪急VS近鉄」
というプレーオフとなった。
そのプレーオフで、阪急が2勝1敗とリードして迎えた、1975(昭和50)年10月19日の第4戦、3-3の同点で迎えた9回表、福本豊・加藤秀司の連続ホームランで、阪急が勝ち越した。
そして、その裏を山口高志が抑え、
阪急ブレーブスが近鉄バファローズを3勝1敗で破り、阪急ブレーブスが3年振りの優勝を達成した。
上田監督率いる阪急ブレーブスが、かつての「恩師」西本監督率いる近鉄バファローズを破るという、劇的な展開となったが、こうして、1975(昭和50)年の日本シリーズは「阪急VS広島」の対決となった。
そして、1975(昭和50)年の「阪急VS広島」の日本シリーズでも、
阪急・上田監督は、山口高志を「切り札」としてフル回転させた。
そして、山口の剛速球に、広島打線は手も足も出ず、
「こんな速い球、見た事ない…」
と、カープの選手達は呆然としていた。
そして、1975(昭和50)年11月2日、阪急が3勝2分と、「日本一」に「王手」をかけて迎えた、西宮球場での第6戦も、阪急がリードした場面で、上田監督は山口をマウンドに送った。
そして、山口高志が最後まで阪急のリードを守り切り、
阪急ブレーブスが広島カープを4勝2分で破り、遂に阪急ブレーブスが球団創設40年目にして、悲願の初の「日本一」を達成した。
阪急ブレーブスの「日本一」が決まった瞬間、上田利治監督が、阪急の選手達の胴上げを受け、宙を舞う中、西宮球場を埋め尽くしたブレーブスファンから、一斉に物凄い量の紙テープが投げられたが、それは本当に壮観であった。
こうして、プロ野球の世界に、
「阪急ブレーブスの時代」
が到来する事となった。
<1975(昭和50)年9月1日…「キャンディーズ・カーニバル実行委員会」が発足~1975(昭和50)年10月19日…蔵前国技館にて「第1回・蔵前国技館 キャンディーズ・カーニバル」開催>
さてさて、1975(昭和50)年の「キャンディーズ」は、積極的に「ライブ活動」を行なう事により、ますます「ファン」達との結束を強めていた。
そして、「キャンディーズ」のファン達も、
「キャンディーズは、自分達が支えてやらないと!!」
という気持ちに燃えるようになっていた。
そんな「キャンディーズ」と「ファン」達の結束の強さの象徴的な出来事が有った。
1975(昭和50)年9月1日、大学生を中心とした、「キャンディーズ」のファン達は、
「キャンディーズ・カーニバル実行委員会」
を発足させた。
これは、「ファン」の有志が主催し、「キャンディーズ」のコンサートを開催するという、実に画期的な企画だったが、
実行委員会の尽力により、1975(昭和50)年10月19日、東京・蔵前国技館にて、
「第1回・蔵前国技館 キャンディーズ・カーニバル」
が開催される事となった。
1975(昭和50)年10月19日、東京・蔵前国技館にて、
「第1回・蔵前国技館 キャンディーズ・カーニバル」
が開催された。
蔵前国技館には、1万人の熱狂的な「キャンディーズ」ファンが集まり、「キャンディーズ」に大声援を送ったが、それまでのアイドルのステージとは全く違う熱狂度であり、ショーの完成度も高かった。
そして、「キャンディーズ」のメンバー達も、高まる一方の観客のボルテージに煽られ、素晴らしいパフォーマンスを見せた。
この日(1975/10/19)は、広島カープ初優勝の4日後であり、阪急ブレーブス優勝の1日前だったが、
「キャンディーズ」のファン達は、カープやブレーブスのファンに負けないぐらいの熱狂ぶりであった。
そして、「キャンディーズ」のステージに向かって、夥しい数の紙テープが投げ込まれていたが、蔵前国技館は祝祭的な雰囲気に満ち満ちていた。
この日(1975/10/19)を境に、
「パフォーマーとしてのキャンディーズ」
の評価は急速に高まって行ったが、「キャンディーズ」はこの後、ファン達と共に、前代未聞の熱狂を巻き起こして行く事となる。
(つづく)