このブログで、断続的に連載している、「マスコットで振り返るプロ野球史」というシリーズの、
「北海道日本ハムファイターズ編」をお送りしているが、前回は日本ハムが北海道に本拠地を移転し、
2004(平成16)年から「北海道日本ハムファイターズ」として新たなスタートを切り、2006(平成18)年に日本ハムが44年振りの日本一の座に就く所までを書いた。
そして、「北海道日本ハムファイターズ」のマスコットとして、「B.B(ブリスキー・ザ・ベアー)」が登場し、当初の「怖い顔」から「可愛い顔」に「変身」した経緯も、ご紹介させて頂いた。
今回は、その「続編」として、「北海道日本ハムファイターズ」という球団を、北海道に定着させるために奮闘した、「B.B」の活躍と、黄金時代を築き上げた北海道日本ハムファイターズの躍動を描く。
それでは、ご覧頂こう。
<2005(平成17)年~、「球界再編騒動」の産物で、パ・リーグ各球団が日本各地に割拠し、「地域密着」の時代が到来>
かつて、「昭和」の時代のパ・リーグは、本拠地の分布に、かなり偏りが有った。
事実上、「昭和」最後の年だった1988(昭和63)年の時点での、パ・リーグ6球団の本拠地は、下記の通りであった。
西武ライオンズ=西武ライオンズ球場(埼玉・所沢)
日本ハムファイターズ=東京ドーム(東京)
ロッテオリオンズ=川崎球場(神奈川・川崎)
阪急ブレーブス=西宮球場(兵庫・西宮)
南海ホークス=大阪球場(大阪)
近鉄バファローズ=藤井寺球場(大阪)
特に、関西圏には、関西の私鉄を親会社とする、
「阪急ブレーブス」「南海ホークス」「近鉄バファローズ」
という3球団の本拠地が集中していたが、
「昭和」の時代は、関西の鉄道会社が羽振りが良かったため、パ・リーグ6球団の内、3球団が関西圏に集まっている状態であった。
だが、その後、時代は大きく変わった。
1989(平成元)年、「阪急ブレーブス」が「オリックス」に、「南海ホークス」が「ダイエー」に、それぞれ身売りし、オリックスは、引き続き関西(神戸)を本拠地としたが、
「ダイエー」に買収されたホークスは、本拠地を福岡に移転し、「福岡ダイエーホークス」として、新たなスタートを切った。
そして、これがパ・リーグ球団の「地方進出」への第一歩となった。
それから更に時代は流れ、前回の記事で書いた通り、2004(平成16)年に「球界再編騒動」が勃発し
すったもんだの末、どうにか「プロ野球12球団制」が維持された。
その結果、2005(平成17)年、宮城・仙台を本拠地とする「東北楽天ゴールデンイーグルス」が誕生し、
同年(2005年)「福岡ダイエーホークス」が「ソフトバンク」に身売りし、「福岡ソフトバンクホークス」として、引き続き福岡を本拠地として使用する事となったが、
これまで述べて来た通り、既に2004(平成16)年から、日本ハムが北海道に本拠地を移して「北海道日本ハムファイターズ」として活動を開始していた。
その結果、パ・リーグ6球団の本拠地は、
北海道日本ハムファイターズ=札幌ドーム(北海道)
東北楽天ゴールデンイーグルス=Kスタ宮城(宮城・仙台)
千葉ロッテマリーンズ=千葉マリンスタジアム(千葉)
西武ライオンズ=西武ドーム(埼玉・所沢)
オリックスバファローズ=大阪ドーム(大阪)
福岡ソフトバンクホークス=福岡ドーム(福岡)
…という事で、パ・リーグ6球団の本拠地は、見事に、日本各地に分布する事となった。
あの「球界再編騒動」の結果、パ・リーグは「地域密着」を模索する時代を迎えたのである。
そして、「北海道日本ハムファイターズ」という球団を、北海道に定着させるために大奮闘したのが、あの「B.B(ブリスキー・ザ・ベアー)」であった。
<「B.B」は、「北海道日本ハムファイターズ」誕生時の北海道の市町村の数「212」を背番号として背負い、北海道全体を駆け回る!!>
「B.B」は、「北海道日本ハムファイターズ」という球団のマスコットである。
だが、「B.B」の仕事は、札幌ドームで日本ハムの試合が開催された際に、球場を盛り上げる事だけに留まらなかった。
勿論、それも「B.B」の主要な仕事ではあるのだが、「B.B」には、
「ファイターズを、北海道に定着させる」
という、重要なミッションが有った。
「B.B」は、背番号「212」を背負っているが、この「212」という数字は何かと言えば、
「北海道日本ハムファイターズ誕生時の、北海道の市町村の数」
の事である。
つまり、「B.B」の背番号「212」には、
「北海道の全ての市町村に、ファイターズの存在をアピールする」
という意味が込められていた。
「B.B」は、札幌ドームでファイターズの試合を盛り上げる一方、その合間を縫って、北海道の各地を巡り、ファイターズを北海道全体にアピールするという、地道なアピール活動を続け、北海道の人達に、ファイターズの事を知ってもらうよう、懸命に頑張っていた。
元々、北海道といえば、「野球といえば巨人」という土地柄であり、ファイターズが北海道に来るまでは、巨人ファンばかりだったのだが、ファイターズの活躍と、「B.B」の地道な「北海道巡り」のお陰も有り、徐々に北海道にファイターズのファンが増えて行った。
「B.B」は「北海道巡り」を通して、各地の人達と交流し、すっかり愛される存在になって行ったが、
地道な「草の根」の活動が有ったからこそ、「北海道日本ハムファイターズ」と「B.B」は、北海道の人達に受け入れられて行ったと言って良いであろう。
<大先達「つば九郎」「ドアラ」などの影響を受け、「球団マスコット」の枠を超え、大人気となった「B.B」>
このように、地道な活動により、徐々に北海道の人達に愛されるようになって行った「B.B」であるが、
「B.B」が、その後を追い掛け、大いに影響を受けたのが、
「球団マスコット」の大先達である、ヤクルトスワローズの「つば九郎」や、中日ドラゴンズの「ドアラ」などであった。
「つば九郎」「ドアラ」は、「球団マスコット」としてだけの活動だけではなく、ファン拡大のため、色々な場に出掛け、それまで野球に興味が無かった人達にまで、認知度を高めていたが、
「B.B」も、そんな先輩達の活動を見て、大いに刺激を受けた筈である。
「B.B」は、当時、球団マスコットとしては非常に珍しかった、「ブログ」を書いて、ファイターズや「B.B」自身の活動についてアピールしたり、
何と、「ディナーショー」を開催し、ピアノを弾いてみせたりと、とにかく積極的に活動した。
その結果、「つば九郎」「ドアラ」達と同じように、「B.B」はプロ野球ファンは勿論、野球にあまり興味が無い人達にまで、その名を知られるようになって行った。
このように、「B.B」は、「北海道日本ハムファイターズ」の新たなファン層拡大のために、大きく貢献した、「功労者(功労熊?)」であり、ファイターズの歴史に残る大活躍を見せた。
そして、「球団マスコット」の存在感が大きく増して行った時代に、「B.B」も、その一翼を担っていた。
<2006(平成18)年…日本ハムの二軍の本拠地「鎌ヶ谷」で、日本ハムの二軍専属マスコット「カビー・ザ・ベアー」が誕生>
このように、「B.B」がファイターズを北海道に定着させるために、大奮闘していた頃、
日本ハムは、非常に画期的な事を行なっている。
日本ハムの一軍の本拠地は、北海道の札幌ドームであるが、日本ハムは二軍の本拠地を、千葉・鎌ヶ谷に置いた。
そして、日本ハムの二軍の本拠地・鎌ヶ谷で、2006(平成18)年~以降、日本ハムは二軍専用のマスコットを誕生させた。
それが、「B.B」の弟である、「カビー・ザ・ベアー」である。
2006(平成18)年、日本ハムの二軍の本拠地・鎌ヶ谷スタジアムで、「カビー」のお披露目が行われた。
こうして、「カビー」は「鎌ヶ谷ファイターズ」の「顔」になったが、
以後、「カビー」はプロ野球12球団唯一の、「二軍専用マスコット」として、活躍を続けている。
そして、兄貴である「B.B」と、弟である「カビー」は、時として一緒のステージに立ち、ファンを盛り上げたりしているが、
このように、日本ハムという球団は、既成概念に捉われず、新しい事には何でも挑戦する気概を持った球団なのである。
そして、「北海道は、ちょっと遠くて行けないけど、鎌ヶ谷になら行きやすい」という、関東在住のファイターズファンにとっては、「カビー」は親しみやすい存在であり、「カビー」も、ファイターズのファン層拡大に貢献して行った。
それにしても、日本ハムという球団は、色々と面白い事をやるものだと、私もつくづく感心してしまう。
<2007(平成19)年…新庄剛志が抜けた日本ハムが、エース・ダルビッシュ有の活躍で「連覇」達成~しかし、日本シリーズでは中日ドラゴンズに敗退>
さてさて、「B.B」「カビー」というマスコット達が奮闘していた頃、
2007(平成19)年、北海道日本ハムファイターズは、パ・リーグ連覇を達成した。
新庄剛志が抜けてしまい、日本ハムは前途が危ぶまれていたが、ヒルマン監督の巧みな采配と、プロ2年目にして早くもエースに成長したダルビッシュ有の大活躍もあり、日本ハムは2年連続優勝を果たした。
日本ハムの「連覇」は、北海道のファンを熱狂させ、北海道におけるファイターズ人気は、ますます高まって行った。
だが、この年(2007年)の日本シリーズは、「中日VS日本ハム」という、前年(2006年)と同じ顔合わせの対決となったが、日本ハムは中日の「リベンジ」を許し、日本ハムは1勝4敗で中日に敗退を喫した。
しかも、最終戦である第5戦は、後々まで物議を醸した、中日・落合博満監督の采配による、山井大介-岩瀬仁紀の「完全試合リレー」を喫するという、屈辱的な敗北であった。
そして、日本ハムの北海道移転初期に、黄金時代を築き上げた名将・ヒルマン監督は、この年(2007年)限りで日本ハムの監督を退任した。
<2007(平成19)年シーズンオフ…梨田昌孝が日本ハムの新監督に就任し、中田翔が日本ハムに入団>
ヒルマン監督が、2007(平成19)年限りで日本ハムの監督を退任した後、
日本ハムの後任監督として、梨田昌孝が就任した。
梨田監督は、「近鉄最後の監督」であり、あの2004(平成16)年の「球界再編騒動」の当事者でもあったが、
日本ハムは、それまで何の縁もゆかりも無かった梨田監督に、名将・ヒルマン監督の後を託した。
そして、梨田監督就任直後のドラフト会議で、
日本ハムは、大阪桐蔭高校の主砲として、甲子園で大活躍した中田翔を、ドラフト1位で獲得した。
こうして、ダルビッシュ有・中田翔という、甲子園の投打のスターが日本ハムに揃ったが、
前回の記事でも書いた通り、どういうわけだか、日本ハムには次々にスター選手達が入団して行く事となる。
これも、天がファイターズという球団に味方していたという事であろうか。
<2009(平成21)年…日本ハムが2年振り優勝~28年振りに「巨人VS日本ハム」の日本シリーズが実現し、東京ドームにも多数のファイターズファンが詰め掛ける!!>
2009(平成21)年、梨田昌孝監督率いる北海道日本ハムファイターズは、2年振りの優勝を達成した。
この年(2009年)のパ・リーグは、日本ハムとソフトバンクが激しい優勝争いを繰り広げたが、
日本ハムがソフトバンクの追撃を振り切って、見事に日本ハムが2年振りのリーグ優勝を成し遂げた。
そして、日本ハムの優勝記念の集合写真には、「B.B」もファイターズの一員として、誇らしげに写っていた。
そして、2009(平成21)年は、セ・リーグは原辰徳監督率いる巨人が優勝し、CS(クライマックスシリーズ)も突破すると、
梨田監督率いる日本ハムも、リーグ優勝の後、CSを突破した。
この結果、2009(平成21)年の日本シリーズは、
「巨人VS日本ハム」
の対決となったが、あの1981(昭和56)年の「後楽園シリーズ」以来、実に28年振りに、この対決が実現したのである。
そして、2009(平成21)年の「巨人VS日本ハム」の日本シリーズでは、第3~5戦は巨人の本拠地・東京ドームで行われたが、東京ドームのビジター席には、沢山のファイターズファンが詰め掛け、ファイターズに大声援を送っていた。
あの1981(昭和56)年の「巨人VS日本ハム」の「後楽園シリーズ」では、日本ハムファンは殆んど居らず、肩身の狭い思いをしていたが、それから28年の時を経て、「敵地」である東京ドームに、これだけ沢山のファイターズファンが来るようになったのである。
これは、東京時代から日本ハムを応援していたファンにとっては、まさに感無量だったのではないだろうか。
だが、2009(平成21)年の「巨人VS日本ハム」の日本シリーズは、
日本ハムは健闘虚しく巨人に敗れ、1981(昭和56)年の時と同じく、巨人に2勝4敗で敗れてしまった。
第6戦で、巨人が日本ハムを破り、巨人が日本一になった時、札幌ドームは静まり返ってしまったが、
これは、既に札幌ドームはファイターズの「聖地」になっており、大多数がファイターズのファンになっていた事を、如実に示していた。
ファイターズは、「北海道のチーム」として、愛される球団になっていたのでる。
ちなみに、巨人・原辰徳監督は、1981(昭和56)年は新人選手として活躍し、巨人の日本一に大きく貢献したが、その28年後、今度は監督として日本ハムを破ったという事になる。
<札幌ドーム名物「稲葉ジャンプ」~「法政の星」⇒「ヤクルトの星」から「札幌ドームの星」になった稲葉篤紀>
さて、この時代に日本ハムの中心選手として、特筆すべき存在だったのが、稲葉篤紀である。
稲葉は、元々、法政大学の中心選手だったが、当時、ヤクルト・野村克也監督の息子・克則(カツノリ)は明治大学に所属しており、野村監督が、カツノリの試合を見るために、神宮に行っていたところ、その対戦相手だった、法政の稲葉の事が目に留まった。
そして、稲葉は1994(平成6)年にヤクルトにドラフト3位で指名され、野村監督の下、ヤクルトの中心打者として活躍した。
その稲葉篤紀が、2005(平成17)年~、ヤクルトから日本ハムに移籍すると、
稲葉は日本ハムでは、ヤクルト時代以上に大活躍し、札幌ドームのファンの心をガッチリと掴んだ。
そして、稲葉が打席に入る度に、札幌ドームのファイターズファン全体で、飛び跳ねて応援する、
「稲葉ジャンプ」
が、札幌ドームの「名物」となって行った。
このように、稲葉篤紀は「法政の星」⇒「ヤクルトの星」から、「札幌ドームの星」となったのである。
<2011(平成23)年…斎藤祐樹の日本ハム入団と、オリックスバファローズの新マスコット「バファローベル」の登場>
2010(平成22)年のドラフト会議で、日本ハムは、またしても「甲子園のスター」をドラフト1位で指名し、入団させた。
その「甲子園のスター」とは、2006(平成18)年夏の甲子園で、早稲田実業(早実)のエースとして大活躍した、斎藤佑樹である。
斎藤佑樹は、夏の甲子園の決勝で、駒大苫小牧の田中将大と投げ合い、田中に投げ勝った斎藤は、一躍、日本中の人気者となったが、その後、斎藤は早稲田大学を経て、この年(2010年)のドラフト1位として、日本ハムに入団した。
2011(平成23)年、プロ1年目の斎藤は6勝を挙げたが、以後、斎藤のプロ野球人生は苦闘の連続であった。
そして、2011(平成23)年、ある意味、斎藤佑樹以上に、プロ野球界で大人気となったのが、
オリックスバファローズの新マスコット「バファローベル」である。
「バファローベル」は、「バファローブル」の妹であるが、「バファローベル」は、それまでのプロ野球のマスコットには無かった、圧倒的に可愛いルックスで、忽ち、大人気となった。
そして、「B.B」も「バファローベル」には、メロメロになっていた(?)が、
「ファイターズにも、可愛い女の子のマスコットが誕生して欲しい」
という機運が高まって行った。
そして、この後、ファイターズにも「女の子」の球団マスコットが登場する事となるのである。
<2012(平成24)年…就任1年目の栗山英樹監督率いる日本ハムが3年振り優勝~しかし、「巨人VS日本ハム」の日本シリーズでは、日本ハムは2勝4敗で敗退>
2011(平成23)年限りで、梨田昌孝が日本ハムの監督を退任したが、
日本ハムが、その後任監督として選んだのが、ヤクルトOBの栗山英樹であった。
この人事には、誰もがビックリ仰天したが、何故かといえば、栗山英樹がヤクルトで現役引退したのは、1990(平成2)年の事であり、それから20年間、栗山は解説者として過ごしており、その間、指導者の経験は一度も無かった。
従って、栗山が日本ハムの新監督に就任すると判明した時、
「あんな、何の経験も無い素人(?)に監督を任せて、大丈夫なのか?」
と、その手腕を疑問視する声も多かった。
だが、日本ハムという球団は、
「既成概念には捉われない」
という所が強味であり、この時も、日本ハムは、
「とにかく、まずは監督をやらせてみなければ、わからない」
というつもりだったのかもしれない。
その栗山監督は、就任1年目の2012(平成24)年、見事に日本ハムを3年振りの優勝に導き、
栗山監督は、その手腕を疑問視していた人達を、物の見事に見返してみせた。
「とにかく、結果を出すしか無い」
と、栗山監督も腹を括っていたものと思われるが、
それにしても、北海道移転後、ヒルマン・梨田昌孝・栗山英樹と、異なる3人の監督で優勝し、「黄金時代」を築き上げたファイターズは、誠に見事であると言うしか無い。
これには、「B.B」も満足気な表情を浮かべていた(?)。
そして、2012(平成24)年の日本シリーズは、
原辰徳監督率いる巨人と、栗山英樹監督率いる北海道日本ハムファイターズが激突し、
「巨人VS日本ハム」
の、日本シリーズでの3度目の対決が実現した。
日本ハムは、過去2度、日本シリーズで巨人に敗れているので、
「今度こそ、巨人を倒す!!」
と、強い意気込みを持って臨んでいた。
そして、2009(平成21)年と同じく、この年(2012年)も、東京ドームの巨人のホームゲームにも、沢山のファイターズファンが詰め掛け、ファイターズに熱い声援を送っていた。
だが、この時も、過去2度(1981年、2009年)と全く同じく、
日本ハムは2勝4敗で巨人に敗れてしまい、巨人に「日本一」の座を許す事となってしまった。
原監督が「日本一」の胴上げをされている光景を見て、栗山監督は、こう思ったそうである。
「何故、俺が宙を舞っていないんだ…」
そして、栗山監督は、悔しさを押し殺し、原監督を称えるため、原監督と握手をしに行ったが、
この翌年(2013年)、北海道日本ハムファイターズに、遂にあのスーパースターが入団する事となるのである。
(つづく)