超ざっくり振り返る『鎌倉殿の13人』(3)~源頼朝が築いた「鎌倉政権」と、悲劇の姫君・大姫~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

昨年(2022)放送された、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(脚本:三谷幸喜)は、

大河ドラマ史上に残る大傑作であり、最初から最後まで、全て面白く、1話たりとも「ハズレ回」が無いという、物凄い大河ドラマであった。

この私も、『鎌倉殿の13人』には、ドップリとハマってしまったが、こんなに「どハマリ」した大河は、私としても初めてだった。

 

 

という事で、その『鎌倉殿の13人』の「ダイジェスト版」を、このブログで書かせて頂いているが、

前回は、1192(建久3)年、源頼朝(大泉洋)が、遂に朝廷から「征夷大将軍」に任じられ、名実共に武士のトップに立った所までを描いた。

という事で、今回は、そもそも源頼朝が、何故、武士のトップに立つ事が出来たのか、そして、源頼朝が創建した「鎌倉幕府」とは何だったのか、といった所から、ご紹介させて頂く。

それでは、ご覧頂こう。

 

<源頼朝と「鎌倉幕府」を読み解くキーワード①~「御恩と奉公」>

 

 

 

 

源頼朝(大泉洋)は、父・源義朝「平治の乱」(1159)平清盛(松平健)に敗れ、討ち取られてしまった時に、

義朝の嫡男・頼朝は、まだ幼少だったため、命を助けられ、伊豆に流され、そこで平家方の監視下に置かれ、「流人」として過ごしていた。

頼朝は、「流人」として20年以上を過ごした後、「平家打倒」を目指す、「北条ファミリー」などに担ぎ上げられ、遂に挙兵したが、では何故、頼朝が「御家人」達の支持を集めたのかといえば、それは、

「頼朝をトップに立てれば、自分達も美味しい思いが出来る」

と、「御家人」達が思っていたからである。

頼朝は、「反平家」の旗印として最適であり、なおかつ、頼朝のために働けば、

「見返り」

が期待出来るからこそ、頼朝を「神輿」として、担ぎ上げた。

頼朝も、勿論、その事はよくわかっていたので、自分のために働いてくれた「御家人」達には、それ相応の「御褒美」を与えていた。

つまり、源頼朝「御家人」達の関係は、「ギブ・アンド・テイク」の関係であった。

この関係性を、歴史の教科書などでは、

「御恩と奉公」

と称している(※歴史の教科書で、皆さんも、そう習っている筈である)。

という事で、源頼朝(大泉洋)は、そのようにして味方を増やして行ったからこそ、「御家人」達の支持を集める事が出来た。

そして、頼朝が本拠地にしたのは「鎌倉」だったため、その「鎌倉政権」のトップとして、頼朝は「鎌倉殿」と称されるようになった。

まず、そこが超重要なポイントなので、必ず抑えて頂きたい所である。

 

<源頼朝と「鎌倉幕府」を読み解くキーワード②~「広域暴力団 源氏組」~日本全国に「守護」「地頭」を設置し、源氏の縄張りを確保して行った、源頼朝>

 

 

私は、高校時代、日本史の先生に、

「源氏政権とは、簡単に言うと、『広域暴力団 源氏組』という事である」

という風に習った。

それは、一体どういう事なのかというと、

「源氏政権」とは、煎じ詰めれば、ボスである源頼朝(大泉洋)が、日本全国に、自分の縄張りを広げて行き、自分の縄張りに、自分の部下達を配して行った、という事である。

「それは、まるっきり、現代のヤクザと同じ手法である」

と、その先生は言っていたが、なるほど、そう言われると確かにわかりやすい(?)。

そして、ボスである頼朝は、自分が確保した縄張りの見張りをさせるために、日本全国に、

「守護」「地頭」

と称される人達を置いて行った。

こうして、頼朝の「鎌倉政権」は、事実上、日本全国を支配下に置く事が出来た。

上の図は「広域暴力団 源氏組」が確保した縄張りに置かれた、頼朝の部下のヤクザ達(「守護」「地頭」)を示した物であると理解しておけば、わかりやすい。

 

<源頼朝と「鎌倉幕府」を読み解くキーワード③~源頼朝が整備して行った、「鎌倉幕府」の職制>

 

 

 

 

「広域暴力団 源氏組」のボスとして、日本全国を支配下に置いて行った源頼朝(大泉洋)であるが、

勿論、それだけでは支配体制を盤石にする事は出来ない。

そこで、頼朝が何を行なったのかといえば、自らをトップとする「鎌倉政権」の政治体制を、徐々に整えて行ったという事である。

まず、頼朝は、「御家人」達をまとめて行くにあたって、「御家人」を軍事面で統率する「侍所」という役職を作った。

その「侍所」のトップ(別当)に据えたのが、頼朝挙兵以来の「御家人」である、和田義盛(横田栄司)である。

『鎌倉殿の13人』では、和田義盛は、

「もしも、頼朝様が大願成就した暁には、某(それがし)を侍大将にして頂けませぬか!?」

と、頼朝に「お願い」していたが、頼朝は、その願いを叶え、軍事的に大きな力を持っていた和田義盛「侍所別当」という、重要な役職に就けた。

 

 

 

 

その後、源頼朝(大泉洋)が率いる「鎌倉政権」が、勢力を拡大して行くにあたり、

頼朝は、前述の「侍所」だけではなく、「政所」「公文所」「問注所」などを設置し、

自らをトップとする、「鎌倉政権」の官僚機構の体制をも整えて行った。

そして、当時はまだ京都の朝廷の権威が強かったが、頼朝は自らの支配体制を朝廷に認めさせるため、

1192(建久3)年には、源頼朝(大泉洋)は朝廷から「征夷大将軍」に任じられるよう、画策した。

こうして、源頼朝(大泉洋)は、名実共に「鎌倉政権」のトップとして、支配体制を盤石な物にして行った。

 

 

 

 

 

なお、源頼朝(大泉洋)をトップとする、「鎌倉政権」の官僚機構で、

頼朝の右腕として活躍したのが、「政所」の初代別当となった大江広元(栗原英雄)、「問注所」の初代執事となった三善康信(小林隆)などである。

彼らは、頼朝の挙兵以来、政治の面で頼朝を助け、頼朝が「鎌倉政権」の支配体制を整えて行く事に、大きく貢献した。

こうして、源頼朝は、鎌倉の武士団の頂点に立ち、その後、長く続く事になる「武家政権」の礎を築いて行った。

これで、頼朝は、日本史上に残る、物凄い偉人であるという事が、おわかり頂けたのではないだろうか。

ちなみに、『鎌倉殿の13人』では、「鎌倉幕府」という言葉は、一度も使われておらず、

頼朝をトップとする政権を「鎌倉」という地名によって表していた。

「鎌倉幕府」という名称は、後世の歴史家によって命名された物である。

 

<超ざっくり振り返る、『鎌倉殿の13人』の、あらすじ⑬~「富士の巻狩り」と「曽我兄弟の仇討ち」~実は源頼朝の暗殺計画が進行していた!?>

 

 

 

さて、『鎌倉殿の13人』の、あらすじのご紹介に戻る。

『鎌倉殿の13人』で描かれた、「富士の巻狩り」「曽我兄弟の仇討ち」についてのエピソードは、かなり重要な出来事だったので、少し詳しくご紹介させて頂く。

「曽我兄弟の仇討ち」での重要人物といえば、工藤祐常(坪倉由幸)であるが、この工藤祐常を巡る因果が、「曽我兄弟の仇討ち」の根本である。

工藤祐常は、北条義時(小栗旬)の妻・八重(新垣結衣)の従兄にあたる人物であり、「北条ファミリー」とは、昔から面識が有った。

この男が、歴史に残る大事件の「当事者」となるのである。

 

 

 

その「大事件」とは何かといえば、所謂「曽我兄弟の仇討ち」の事である。

曽我五郎・曽我十郎の兄弟の祖父にあたるのが、北条義時(小栗旬)の妻・八重(新垣結衣)の父親・伊東祐親(浅野和之)だったが、伊東祐親(浅野和之)工藤祐常(坪倉由幸)は、激しく対立していた。

そして、「曽我兄弟」の父親・河津祐泰の「仇敵」として、「曽我兄弟」は、工藤祐常(坪倉由常)を、つけ狙っていた。

 

 

 

『鎌倉殿の13人』でも、工藤祐常(坪倉由幸)の事を、

幼少の頃の「曽我兄弟」が、「人殺し!!」と罵って、石を投げつける場面が描かれていたが、

要するに、「曽我兄弟」にとって、工藤祐常「親の敵」だったのである。

「曽我兄弟の仇討ち」の根本にあるのは、その関係性であった。

 

 

そして、時は流れ、成長した「曽我兄弟」が、北条時政(坂東弥十郎)の元に現れた。

北条時政の前妻は、伊東祐親(浅野和之)の娘だったので、「曽我兄弟」は、時政にとっては、義理のお父さんの孫にあたる。

そんな縁も有って、時政は「曽我兄弟」の面倒を見る事になったが、実は「曽我兄弟」は、とんでもない事を計画していた。

実は、この時、「曽我兄弟」は、長年、つけ狙っていたという、親の敵・工藤祐常(坪倉由幸)ではなく、

祖父・伊東祐親(浅野和之)を死においやっていた、源頼朝(大泉洋)を、暗殺の「標的」にしていた。

『鎌倉殿の13人』での北条時政(坂東弥十郎)は、まさか「曽我兄弟」が、そんな大それた事を企てていたとは露知らず、後で知って驚くのだが、

「北条時政は、実は曽我兄弟が源頼朝の暗殺を企てていたのを、知っていたのではないか?その狙いを知った上で、曽我兄弟を支援し、時政も、頼朝の暗殺を狙っていたのではないか?」

という事は、昔から根強い噂として、囁かれている。

 

 

さてさて、そういう不穏な動きが有った中で、1193(建久4)年5月、

源頼朝(大泉洋)は、元服した嫡男・源頼家(金子大地)「お披露目」も兼ねて、「富士の巻狩り」という行事を開催した。

これは、頼朝の嫡男・頼家が、武士の棟梁として相応しい技量を持っているという事を、「御家人」達に知らしめるための、非常に重要な儀式であった。

 

 

 

この「富士の巻狩り」の時に、北条義時(小栗旬)の長男・金剛が、

前回までの子役から、いきなり大人の姿になって登場していたが、

『鎌倉殿の13人』では、「成長著しい金剛」というテロップが出され、視聴者を笑わせていた。

この金剛こそ、北条義時(小栗旬)の跡取りとなる、北条泰時(坂口健太郎)である。

 

 

 

 

「富士の巻刈り」では、源頼家(金子大地)が、源頼朝(大泉洋)の跡取り、即ち「武家の棟梁」として相応しい力を持っている事を「御家人」達に示す必要が有ったので、頼家が、見事に獲物を仕留めなければならなかったのだが、頼家には、どう見ても、その技量が足りなかった。

頼家とは、従兄同士の関係にあたり、頼家とは「幼馴染み」の間柄だった、北条泰時(坂口健太郎)の方が、狩りの腕前は確かだった。

これを見て、頼朝の「御家人」達である、梶原景時(中村獅童)・比企能員(佐藤二朗)らが、どうにかこうにしか「お膳立て」をして、頼家が獲物を仕留めた風に装ったが、

「これは、私の実力ではない…」

と、却って、頼家は落ち込んでしまった。

 

 

 

 

この「富士の巻狩り」の時、北条義時(小栗旬)比奈(堀田真由)「急接近」していた。

愛する妻・八重(新垣結衣)を亡くし、「再婚するつもりは無い」と言っていた義時は、

一度は、比奈の事を、比企家に追い返してしまうが、「富士の巻狩り」でのドタバタ劇(?)の際に、義時と比奈は、心を通わせる事が出来た。

実は、この時、源頼朝(大泉洋)は、まだ比奈(堀田真由)の事を諦めきれていなかったが、

「もう、お前と女子(おなご)を取り合うのは、御免じゃ!!」

と、吐き捨てるように言って、去って行ってしまった。

頼朝は、元々、「愛人」にしていた八重(新垣結衣)を、義時と取り合った(?)経緯が有ったが、比奈(堀田真由)まで義時と取り合うのはウンザリだという気持ちが有ったのかもしれない。

この時、北条義時(小栗旬)は、源頼朝(大泉洋)に向かって、

「良い方を引き合わせて頂いて、有り難いと思っております」

と言っていたが、義時のその言葉を聞き、比奈(堀田真由)は、パっと表情を輝かせていた。

比奈も、義時の事が好きになっていたので、義時のその言葉は、彼女にとって、とても嬉しいものであった。

 

 

 

 

そんな風に、色々な「ドタバタ劇」が有った「富士の巻狩り」であるが、

その後、実は「曽我兄弟」の真の狙いが、「源頼朝の暗殺」にあった事が発覚する。

これを知って、北条義時(小栗旬)は愕然とし、父・北条時政(坂東弥十郎)に対し、

「何で、あんな奴らを、匿ったのですか!?」

と、詰め寄ったが、時政は、

「あいつらが、頼朝様を狙っているなんて、わしは全く知らなかったんじゃ!!」

と言っていた。

本当の所は、どうだったのかはわからないが、『鎌倉殿の13人』における北条時政(坂東弥十郎)は、「良いオッチャン」だったので、娘・政子(小池栄子)の婿殿である、源頼朝(大泉洋)を殺そうなどとは、時政は全く思っていなかったという風に描かれていた。

その後、「曽我兄弟」は、頼朝の暗殺を決行しようとしたが、結果として、「人違い」により、「親の敵」だった工藤祐常(坪倉由幸)を殺害してしまった。

その後、「曽我兄弟」は捕えられ、頼朝の前に引き出されたが、梶原景時(中村獅童)からの進言により、源頼朝(大泉洋)は、

「曽我兄弟は、最初から、親の敵として工藤祐常を狙っており、見事に本懐を遂げた」

として、この騒動を処理した上、騒動の当事者として「曽我兄弟」を斬首にしてしまった。

こうして、「源頼朝の暗殺」という真の目的は闇に葬られ、長年の「親の敵」を討った「曽我兄弟の仇討ち」は、美談として、後世に語り継がれるようになった。

これが、「曽我兄弟の仇討ち」の顛末である。

 

 

 

こうして、危うく難を逃れた、源頼朝(大泉洋)であるが、頼朝は、何処か寂しそうな顔をしていた。

そして、頼朝は北条義時(小栗旬)に対し、

「今回、わしは運が良かっただけじゃ…。わしは今まで、天に生かされて来たが、わしの命運も、そろそろ尽きようとしているかもしれぬ。わしの為すべき事は、もうこの世には残っていないのか…」

と言って、自分の本当の気持ちを吐露していた。

一代で「鎌倉政権」の基礎を築いた英雄・源頼朝にも、いよいよ「最期の時」が迫っているのだろうか…。

 

<超ざっくり振り返る、『鎌倉殿の13人』の、あらすじ⑭~悲劇の姫君・大姫~時代の激流に翻弄され、二十歳の若さで亡くなった、源頼朝・北条政子夫妻の長女>

 

 

 

 

さて、源頼朝(大泉洋)・北条政子(小池栄子)夫妻の長女として生まれ、

「鎌倉殿」のお姫様として育てられた大姫(南沙良)は、悲劇の生涯を送った人であった。

前回の記事でも書いたが、大姫は幼い頃、木曽義仲(青木崇高)の嫡男・源義高(市川染五郎)の事が好きであり、大姫と義高は「相思相愛」だったのだが、大姫が命懸けで、義高の「命乞い」をしたにも関わらず、結局、義高は殺されてしまった。

この事は、幼い大姫の心に、深い傷を負わせてしまう事となった。

 

 

 

その後、お年頃の娘となった大姫(南沙良)の元には、次々に縁談が来ていたが、

愛する人・義高を亡くし、心を病んでしまった大姫は、

「私には、れっきとした許嫁(いいなずけ)が居ます」

と言って、既にこの世に居ない義高の事を「許嫁(いいなずけ)」と称し、その都度、縁談を断ってしまったりしていた。

そんな大姫の事を案じて、大姫の母・北条政子(小池栄子)は、政子の妹・実衣(宮澤エマ)と、その夫・阿野全成(新納慎也)と一計を案じ、僧侶の全成に義高の霊が降りて来て、全成が義高に成り変わって、

「私の事は忘れて、どうか、前に進んで欲しい」

と言ったりするという「芝居」を行なったりしたが、その「芝居」は大姫に見破られてしまった。

「あんな小細工をして、私に、義高様の事を忘れさせようとするなんて、許せない!!」

大姫は、却って、怒りを深めただけになってしまった。

 

 

その頃、かつて愛する人・木曽義仲(青木崇高)と生き別れになり、

今は、和田義盛(横田栄司)と「再婚」していた、巴御前(秋元才加)の元を、大姫(南沙良)が訪ねて行った。

大姫は、自分と同じように、愛する人と生き別れになっていた巴御前なら、自分の気持ちをわかってくれると思っていたのである。

だが、巴御前は、前述の通り、今は新しい夫・和田義盛と幸せに暮らしていた。

「大姫様のお気持ちは、私もよくわかります。私も、義仲様の事を忘れる事など、出来ません。でも、私は前に進み、今は幸せに暮らしています。大姫様も、前に進んで欲しいと、義高様も願っているのではありませんか?」

巴御前は、そう言って大姫の事を励ました。

これによって、大姫も、

「自分も、前に進まなければ…」

と、決意するに至った。

 

 

 

 

その頃、大姫(南沙良)の父・源頼朝(大泉洋)は、「鎌倉政権」と朝廷の結び付きを強めたいと考えていた。

父親の意を汲んだ大姫は、父・頼朝に対し、

「私は、父上のお役に立ちとうございます」

と言って、自ら、天皇の后として入内したいという気持ちを伝えた。

これには、頼朝も大喜びして、早速、朝廷に対し、沢山の貢ぎ物を送り、愛娘・大姫を天皇に入内させる画策をした。

こうして、準備を整え、盛装した大姫(南沙良)は、母・政子(小池栄子)と共に、京の都を訪れ、大姫の入内の仲介役となっていた、丹後局(鈴木京香)の元を訪ねた。

しかし、あの後白河法皇(西田敏行)「側近」として権勢を振るい、海千山千の朝廷を左右する立場にあった、強者の丹後局(鈴木京香)は、

「坂東の田舎者が…。ちょっと偉くなったからと言って、帝に入内しようなどとは、厚かましいにも程が有るわ!!」

と、政子・大姫の親子を一喝した。

「そなたは、そもそも、本当に朝廷に入って行くという、お覚悟は有るのですか?」

丹後局は、大姫に尋ねたが、丹後局の一喝に、すっかりビビッてしまった大姫は、怯えきってしまい、顔も上げる事が出来なかった。

心を病んでいた大姫にとって、朝廷に入るというのは、あまりにも荷が重すぎたのである。

彼女は、その事を嫌という程、思い知った。

大姫の心の傷は、更に深くなってしまった。

 

 

 

結局、耐え切れなくなってしまった大姫は「逃亡」してしまうが、

逃亡した大姫を、三浦義村(山本耕史)が発見し、保護した。

三浦義村は、大姫に対し、

「帝に嫁いだ所で、それが何になりましょう。人は、己の幸せのために生きる。当たり前の事です…」

と言って、大姫を慰めていた。

『鎌倉殿の13人』で、この場面を見て、

「三浦って、意外に良い奴だな」

と思ってしまったが、実は、三浦としては、「北条ファミリー」の大姫が入内し、三浦家のライバル・北条家が、大きな力を持つ事を、阻止したいという思惑も有ったと思われる。

それぐらい、三浦義村は「食えない奴」であった。

 

 

 

その後、心身ともに衰弱し、すっかり生きる気力を失ってしまった大姫(南沙良)は、僅か二十歳という若さで亡くなり、この世を去ってしまった。

亡くなる間際、大姫は母・政子(北条政子)に対し、

「私は、死ぬのはちっとも怖くないの…。だって、これでまた、義高様に逢えるんですもの…」

と言っていたが、それを聞いた政子は、

「そんな…。母を悲しませるような事を言わないで…」

と、涙ながらに言っていた。

こうして、悲劇の姫君・大姫は亡くなり、「鎌倉」は深い悲しみに包まれた。

この場面は、涙無しには見られない、とても悲しい場面であった。

 

(つづく)