1918(大正7)年に、ベーブ・ルースが達成した「1シーズン2桁勝利&2桁本塁打」は、
その後、日米の野球界に登場した、数多くの名選手達が、長い間、誰も達成する事が出来なかった、「アンタッチャブル・レコード」だったが、
それから104年の時を経て、2022(令和4)年8月10日、ロサンゼルス・エンゼルスの大谷翔平が、遂に、ベーブ・ルース以来104年振り2人目という、「1シーズン2桁勝利&2桁本塁打」を達成した。
大谷翔平は、1世紀の時空を超え、ベーブ・ルース以来の「投打二刀流」の大選手として、球史に名を残す事となった。
私は、大谷翔平の「2桁勝利&2桁ホームラン」という快挙を記念し、
今回、このブログで特集記事を書かせて頂いているが、
「前編」では、1918(大正7)年のベーブ・ルースの「2桁勝利&2桁ホームラン」を中心に、ベーブ・ルースとアメリカ大リーグの「投打二刀流」の歴史について描き、
「中編」では、日本プロ野球における「投打二刀流」の歴史について書いた。
そして、今回は「後編」として、大谷翔平の活躍にスポットを当てる事とするが、今回、書くのは北海道日本ハムファイターズ時代(2013~2017年)の大谷翔平の物語である。
それでは、ご覧頂こう。
<幼少期~花巻東高校時代の大谷翔平~2年夏(2011年夏)・3年春(2012年春)に甲子園に出場~高校時代の大谷翔平が掲げた「目標」とは!?>
大谷翔平(おおたに・しょうへい)は、1994(平成6)年7月5日、3人きょうだいの「末っ子」として、岩手県奥州市に生まれた。
大谷翔平の両親は、父親は社会人野球の選手として活躍し、母親もバドミントンの選手として活躍するという経歴を持っており、大谷はスポーツ万能の両親を受け継いだという事であろう。
なお、「翔平」という名前の由来であるが、大谷の父親が大好きだという源義経の、所謂「義経の八艘飛び」などから連想される、義経の颯爽としたイメージから「翔」の字を用いており、「平」の字は「平泉」から取られたという。
大谷翔平は、幼少期から野球が大好きな少年であり、
勿論、大谷は少年野球チームに入ったが、その少年野球チームで大谷は忽ち、頭角を現し、
大谷は「エースで4番」として大活躍していた。
そう、大谷は少年時代から既に「投打二刀流」だったのだが、
プロ野球に入るような人は全員、子供の頃から「エースで4番」だったものである(※それぐらい、ズバ抜けていないと、プロ野球に入るのは難しい)。
それはともかく、大谷は大好きな野球に夢中な少年時代を過ごした。
2009(平成21)年、大谷翔平が中学3年生の時、
エース・菊池雄星投手を擁する花巻東高校が、春のセンバツで準優勝、夏の甲子園でベスト4進出という、快進撃を見せた。
大谷は、この菊池雄星投手に憧れ、花巻東高校に進学する事を決めた。
そして、大谷は花巻東高校に入学し、菊池と同様、甲子園で活躍する事を夢見ていた。
ところで、今ではとても有名な話だが、
大谷翔平は、後期う時代に「目標達成シート」なる物を書いており、
具体的に、「これからの高校時代、そして野球人生で、自分が何を為すべきか」という事を、事細かに目標設定していた。
なお、大谷翔平が高校に入学した当時は、
「日本一になる」「日本人最速となる160kmを記録する」「ドラフトで菊池雄星を越える8球団から1位指名を受ける選手になる」
という事を、それぞれ目標に掲げていた。
大谷翔平は、花巻東高校の2年夏(2011年夏)、初の甲子園出場を果たしたが、
大谷は初戦の帝京高校戦に、ライトで先発出場し、その後、投手としても登板したが、
花巻東は、帝京と大熱戦の末、7-8で敗れてしまい、大谷としては、ほろ苦い「甲子園デビュー」となった。
大谷の「日本一」への夢は、3年生となる2012(平成24)年に、持ち越される事となった。
2012(平成24)年春のセンバツにも、花巻東は出場したが、
花巻東は、初戦でエース・藤浪晋太郎を擁する、強豪・大阪桐蔭と激突した。
ここに、「藤浪晋太郎VS大谷翔平」という、同学年(3年生)同士の対決が実現したが、
試合は、大阪桐蔭が9-2で花巻東に大勝し、花巻東は、またしても初戦敗退となってしまった。
そして大谷は、3年夏の甲子園出場を目指し、高校野球生活最後の戦いに挑んだ。
2012(平成24)年夏の甲子園出場をかけた、岩手県大会の準決勝、
花巻東-一関学院の試合で、大谷翔平は、何と「時速160km」の剛速球を投げ、日本全国に、その名を轟かせた。
「時速160km」というのは、勿論、高校野球史上最速である。
「何か、大谷っていう凄い投手が花巻東に居るらしいぞ」
この時、大谷翔平は日本全国の野球ファンの熱い注目を浴びる存在となり、
勿論、プロ野球全球団のスカウトも、俄然、大谷に熱い視線を送っていた。
だが、大谷は投手としての才能が凄いのは勿論だが、打撃の能力も抜きん出ており、
大谷は「打つのも投げるのも、大好き」という選手だった。
当然、プロ野球に入れば、投手に専念するものと、当時は多くの野球ファンが思っていたが、
大谷は、この頃、本気で「投打二刀流で、やって行きたい」と、決意していたのである。
だが、その大谷を擁する花巻東は、岩手県大会決勝で盛岡大附属高校に敗れてしまい、最後の3年夏に、大谷は甲子園に出場する事は出来なかった。
こうして、大谷の高校野球生活は終わったが、
「大谷は、プロ野球の何処のチームに行くのか!?」
という事が、俄然、注目されるようになった。
しかし、その大谷翔平は、とても意外な方針を明らかにするのである。
<2012(平成24)年10月21日…大谷翔平「MLB挑戦」を表明!!しかし…?>
当時、大谷翔平は、自分の進路について、大いに迷っていた。
実は、大谷にはプロ野球全球団のスカウトだけではなく、MLB(メジャーリーグ)のスカウトも注目しており、
大谷も「日本のプロ野球に行くか、それともアメリカ大リーグに挑戦するか」で、非常に気持ちが揺れ動いていた。
そして、プロ野球ドラフト会議の直前、2012(平成24)年10月21日に、大谷翔平は、
「MLB挑戦」
という意思を表明した。
大谷は、ボストン・レッドソックス、テキサス・レンジャーズ、ロサンゼルス・ドジャースなどのMLB球団との面談を経た上で、
「日本のプロよりも、メジャーリーグへの憧れが強く、マイナーリーグからの挑戦も覚悟の上で、メジャーリーグに挑戦したい」
という事を明言したのである。
これは、言い換えれば、
「日本のプロ野球の球団が、ドラフトで指名したとしても、私は日本のプロ野球の球団に入るつもりはありません」
と、宣言したに等しい。
大谷の決断に、当時の野球ファンは賛否両論だったが、
「厳しい道になるかもしれないけど、大谷が決めた以上、頑張って欲しい」
という意見が多かった。
そして、大谷の「MLB挑戦」の意思表明を見て、日本のプロ野球各球団が、大谷のドラフト指名から撤退して行った。
だが、大谷の「MLB挑戦」の流れに、敢然と異を唱えたのが、北海道日本ハムファイターズの、栗山英樹監督であった。
栗山監督は、ドラフト会議を前にして、
「大谷君には本当に申し訳無いけれど、指名をさせていただきます」
と明言していた。
日本ハムは、たとえ大谷に入団を断られる可能性が高いとしても、
「球界の宝である大谷を、ドラフト指名もしないまま、黙って見過ごすわけには行かない」
という、悲壮な覚悟を持っていた。
この日本ハムの姿勢に、大谷サイドは非常に困惑していた。
「日本のプロ野球には行かないって、あれほど言ってるのに…」
こうして、日本ハムと大谷翔平とMLB各球団の思惑が交錯する中、
2012(平成24)年10月25日、運命のドラフト会議の時を迎えた。
<2012(平成24)年10月25日…日本ハムが大谷翔平をドラフト1位で「強行指名」~当初、入団に難色を示していた大谷に「投打二刀流育成プラン」を示し、大谷が日本ハム入団を決断!!⇒「北海道日本ハムファイターズ・大谷翔平」が誕生>
果たして、2012(平成24)年10月25日、運命のドラフト会議当日、
他球団が、大谷翔平のドラフト指名を見合わせる中、
北海道日本ハムファイターズの、ただ1球団のみが、事前の予告どおり、敢然と大谷翔平をドラフト1位で指名した。
会場は大きくどよめき、テレビで見守っていたプロ野球ファンも、
「一体、この後、どうなるんだろう…」
という気持ちであった(※当時は私も、そう思っていた)。
そして、日本ハム・栗山監督は、大谷の自宅を訪れ、
「この度は、大谷君がMLB挑戦の意向を示していながら、勝手にドラフト指名してしまい、申し訳ございません」
と、頭を下げていた。
大谷サイドは、恐らく当初は、日本ハムのドラフト1位指名を迷惑がっていたと思われるが、
この後、日本ハムは大谷を全力で、熱心に口説き落としにかかった。
この後、日本ハムと大谷は、何度も面談を行ない、日本ハムの大谷に対する説得は、1ヶ月以上に及んだ。
そして、日本ハムは「奥の手」として、大谷に対し、
『大谷翔平君 夢への道しるべ〜日本スポーツにおける若年期海外進出の考察〜』
なる資料を手渡し、
「今すぐに、アメリカ大リーグに行くよりも、日本のプロ野球で、しっかりと実績を積んでからアメリカ大リーグに行く方が、絶対に良い」
と、日本ハム独自の「投打二刀流育成プラン」を示し、
「大谷君の、投打二刀流の大成を、日本ハムが全面的にサポートする。そして、然るべき期間を経てから、大谷君をアメリカ大リーグに送り出す」
という方向性で、大谷を熱心に口説いた。
その日本ハムの熱意と、「投打二刀流育成プラン」に、大谷の心は動かされた。
そして、遂に大谷は、決断を下した。
2012(平成24)年12月5日、大谷翔平は、
「日本ハム入団」
の意思を表明した。
遂に、日本ハムが大谷の心を動かしたわけだが、
やはり、あの「投打二刀流育成プラン」が、決め手になったようである。
これは、日本ハムの粘り勝ちだったと言って良いが、日本ハムは、
「大谷を、絶対に投打二刀流として成功させる」
という、重い命題を背負う事にもなった。
2012(平成24)年12月25日、大谷翔平は日本ハムと入団契約を交わし、
大谷は、栗山監督と共に、入団会見に臨んだが、
大谷の背番号は、かつてダルビッシュ有が日本ハム時代に付けていた「11」に決まった。
こうして、「日本ハム・大谷翔平」が誕生し、日本プロ野球の「大谷翔平伝説」が幕を開ける事となった。
<2013(平成25)年の大谷翔平~遂に「投打二刀流」でデビューし、「投打二刀流」が賛否両論を巻き起こす>
こうして、紆余曲折を経て、日本ハムに入団した大谷翔平であるが、
大谷は、プロ野球の世界で「投打二刀流」に挑戦する事を、改めて表明した。
そして、日本ハムのキャンプでも、大谷は一番の注目の的だったが、
当時、プロ野球OBや、プロ野球ファン達は、大谷の「投打二刀流」挑戦を巡り、賛否両論であった。
中でも、あの「通算400勝」の大投手・金田正一は、
「大谷翔平の投打二刀流には、断固反対である」
と表明し、大谷の「投打二刀流」反対派の急先鋒となっていた。
当時、金田はこんな事を言っていた。
「プロ野球で、投打二刀流をやろうなんて、プロ野球の世界は、そんなに甘い物ではない」
「結局は、二兎を追う者は、一兎も得ずという事になってしまう可能性が有る」
「中途半端に、投打二刀流なんて、絶対にやめた方が良い。日本ハムは、プロ野球界を愚弄している」
などと、激しい言葉で日本ハムを「糾弾」していた。
誰よりも、プロ野球の世界で活躍した金田だからこそ、プロ野球の世界の厳しさを、身をもって知っているだけに、そのような言葉を発したのであろうか。
という事で、様々な意味で注目された、2013(平成25)年のプロ入り1年目の大谷翔平であるが、
大谷は、甲子園球場での「阪神VS日本ハム」の交流戦で、因縁の「藤浪晋太郎VS大谷翔平」の対決が実現するなど、
高卒1年目から、宣言どおりの「投打二刀流」で出場し、
投手としては「13試合 3勝0敗0セーブ 防御率4.23」、打者としては「打率.238 3本塁打 20打点」という成績を残した。
高卒1年目で「3勝」を挙げ、「3本塁打」を記録したというのも、なかなか凄いが、大谷本人としては、
「まだまだ、もっとやれた筈だ」
と、思っていたのかもしれない。
ちなみに、この年(2013年)の日本ハムは、前年(2012年)の優勝から一転して「最下位」に転落してしまった。
【2013(平成25)年の大谷翔平(日本ハム)の成績】
<投手>
13試合 3勝0敗0セーブ 46奪三振 防御率4.23
<打者>
77試合 189打数45安打 3本塁打 20打点 4盗塁 打率.238
<2014(平成26)年の大谷翔平~プロ野球史上初、アメリカではベーブ・ルース以来「96年振り」の「2桁勝利&2桁本塁打」を達成!!>
2014(平成26)年、プロ2年目を迎えた大谷翔平にとって、この年は「飛躍の年」となった。
大谷は、この年(2014年)「投打二刀流」を更に進化させ、
遂に「2桁勝利&2桁本塁打」という、プロ野球史上初の大記録を達成し、世間をアッと言わせたのである。
これは、アメリカ大リーグを含めても、1918(大正7)年のベーブ・ルース以来「96年振り」の快挙であると、当時、大いに話題になった。
2014(平成26)年の大谷翔平の「投打二刀流」の成績の内訳は、
投手としては「24試合 11勝4敗0セーブ 防御率2.61」、打者としては「打率.274 10本塁打 31打点」という物であった。
大谷は、「投打二刀流」に対して、懐疑的な声に対し、結果を出して、黙らせてみせたのである。
なお、この年(2014年)の日本ハムは「3位」という成績であった。
【2014(平成26)年の大谷翔平(日本ハム)の成績】
<投手>
24試合 11勝4敗0セーブ 179奪三振 防御率2.61
<打者>
87試合 212打数58安打 10本塁打 31打点 1盗塁 打率.274
<2015(平成27)年の大谷翔平~投手として初の「最多勝」「最優秀防御率」「最高勝率」を獲得するも、打者としては「5本塁打」と低迷~「投手専念論」が再燃>
2015(平成27)年、プロ3年目の大谷翔平は、投手として圧倒的な成績を残した。
大谷は、この年(2015年)「22試合 15勝5敗0セーブ 196奪三振 防御率2.24」という投手成績を残し、
大谷は初の「最多勝」「最優秀防御率」「最高勝率」のタイトルを獲得した。
「大谷は、プロ野球で一番、凄い投手だ!!」
という事を、もはや誰もが認めるようになっていた。
だが、この年(2015年)の大谷は、打者としては全くの不振に終わり、
「打率.202 5本塁打 17打点」という、全く不本意な成績に終わってしまった。
「大谷が、凄い投手なのは、よくわかった。しかし、打者としては限界が見えた。大谷は、やはり投手に専念した方が良いのでは?」
というような、「投手専念論」が再燃する事となってしまったが、
当時は、私も「大谷は、投手に専念した方が良いんじゃないかな…」と、思ってしまったものである。
なお、この年(2015年)の日本ハムは「2位」であった。
なお、この年(2015年)のシーズンオフに行われた、
「世界野球プレミア12」において、大谷翔平は「侍ジャパン」のメンバーに選ばれ、
大谷は「侍ジャパンのエース」として、圧倒的な投球を見せた。
この投球を見て、「やはり、大谷はアメリカ大リーグでも、間違いなく通用する」と、誰もが思ったに違いない。
【2015(平成27)年の大谷翔平(日本ハム)の成績】
<投手>
22試合 15勝5敗0セーブ 196奪三振 防御率2.24
<打者>
70試合 109打数22安打 5本塁打 17打点 1盗塁 打率.202
<2016(平成28)年の大谷翔平~日本ハム時代の大谷翔平のハイライト~「投打二刀流」で2度目の「2桁勝利&2桁ホームラン」を達成、日本ハムを優勝に導き、MVPを獲得!!>
2016(平成28)年、プロ4年目の大谷翔平にとって、
この年(2016年)は、「日本ハム時代のハイライト」となった。
結果から先に言えば、この年(2016年)の大谷は、
「投打二刀流」で2度目の「2桁勝利&2桁ホームラン」を達成し、
大谷翔平の大活躍により、日本ハムは4年振りの優勝を達成したのである。
前年(2015年)不振に終わった打撃も向上し、大谷は「投打二刀流」として、最高の結果を残した。
この年(2016年)のパ・リーグは、当初、ソフトバンクが首位を独走し、
日本ハムは、首位・ソフトバンクに、一時は最大「11ゲーム差」を付けられていた。
しかし、大谷の「投打二刀流」の大車輪の活躍で、日本ハムはソフトバンクを猛追し、
2016(平成28)年7月3日のソフトバンク-日本ハム戦では、大谷は「1番・投手」の「リアル二刀流」で出場、
大谷はこの試合で「初回先頭打者本塁打」を放ち、8回10奪三振無失点で、勝利投手となった。
なお、プロ野球史上、「1番・投手」での出場は、1971(昭和46)年の外山義明(ヤクルト)以来、45年振りの出来事であった。
その後も、大谷は「投打二刀流」で大活躍を続け、
日本ハムは大谷の活躍に引っ張られるように快進撃を見せた。
そして、シーズン終盤、遂に日本ハムはソフトバンクを逆転し、首位に立つと、
2016(平成28)年9月28日の西武-日本ハム戦で、大谷は「1安打完封勝利」を収め、日本ハムはリーグ優勝を決めた。
この年(2016年)大谷翔平は、投手としては「21試合 10勝4敗0セーブ 174奪三振 防御率1.86」、打者としては「打率.322 22本塁打 67打点」という成績を残し、自身2度目となる「2桁勝利&2桁本塁打」を達成した。
そして、日本ハム優勝の立役者となった大谷は、見事に「MVP」を獲得した。
2016(平成28)年の日本シリーズは「日本ハムVS広島」の対決となったが、
日本ハムが、初戦から広島に連敗した後の第3戦、大谷翔平がサヨナラ打を放ち、日ハムが初勝利を挙げると、
こきから一気に流れが変わり、この後、日本ハムは札幌ドームで3連勝し、日本ハムが「日本一」に王手を掛けた。
そして、マツダスタジアムでの第6戦にも、日本ハムは勝利し、
この結果、日本ハムが4勝2敗で広島を破り、栗山英樹監督率いる日本ハムが、10年振りの「日本一」を達成した。
まさに、大谷翔平にとって、2016(平成28)年は最高のシーズンとなったが、
大谷は「投打二刀流」として、いよいよ、誰も到達した事が無い領域に、足を踏み入れたと言って良い。
【2016(平成28)年の大谷翔平(日本ハム)の成績】
<投手>
21試合 10勝4敗0セーブ 174奪三振 防御率1.86
<打者>
104試合 323打数104安打 22本塁打 67打点 7盗塁 打率.322
<2017(平成29)年の大谷翔平~怪我により、不本意な成績に終わった、日本ハムでの「ラストシーズン」~そしてシーズン終了後に「MLB挑戦」を表明>
2017(平成29)年、プロ5年目を迎えた大谷翔平であるが、
この年(2017年)の大谷は、左太もも裏を痛めるなど、終始、怪我が多い1年であり、
投打共に、全く振るわず、当初としては「5試合 3勝2敗 防御率3.20」、打者としても「打率.332 8本塁打 31打点」という成績に終わった。
「打率3割」こそ打っているが、打者としての出場は「65試合」に終わってしまった。
ファンとしては、些か寂しい成績であり、日本ハムも、前年(2016年)の「日本一」から一転し、「5位」に転落した。
【2017(平成29)年の大谷翔平(日本ハム)の成績】
<投手>
5試合 3勝2敗0セーブ 29奪三振 防御率3.20
<打者>
65試合 202打数67安打 8本塁打 31打点 0盗塁 打率.332
この年(2017年)のシーズンオフ、
2017(平成29)年11月11日、大谷翔平は「ポスティング・システム(入札制度)」を利用し、
「MLB(アメリカ大リーグ)に挑戦する」
という意思を表明した。
大谷翔平は、日本ハム入団時の「投打二刀流育成プラン」により、更に実力を開花させ、
日本プロ野球界で、文句無しの実績を残し、満を持して、アメリカ大リーグに挑戦する事となった。
という事で、もしも大谷が日本ハムに入団していなければ、果たして、ここまで成長していかたかどうか…と、私は思っているのだが、結果としては、
「大谷は、日本ハムに入ったのは、大正解だった」
と、私は思う。
こうして、日本ハムで「投打二刀流」として5年間(2013~2017年)を駆け抜けた大谷翔平は、アメリカ大リーグという新たな舞台に、挑んで行く事となった。
【大谷翔平の日本ハム時代の通算成績(2013~2017年)】
<投手>
85試合 42勝15敗0セーブ 624奪三振 防御率2.52
<打者>
403試合 1035打数296安打 48本塁打 166打点 13盗塁 打率.286
(つづく)