1960(昭和35)年、「日米安保条約改定」を成し遂げた岸信介首相は、
「60年安保闘争」を引き起こし、国家に混乱を招いた責任を取り、退陣した。
そして、岸信介の後継の座に就いたのは、池田勇人であった。
一方、岸とは因縁が有った大野伴睦は、結局、岸の「意趣返し」に遭い、首相の座を逃した。
こうして、「池田勇人の時代」が幕を開けたが、その後、首相の座は池田勇人・佐藤栄作・田中角栄の順に、引き継がれて行く。
そして、岸信介の娘・洋子と結婚した安倍晋太郎も、自民党の政治家としてキャリアを重ね、
安倍晋太郎・洋子夫妻の次男・安倍晋三は、楽しい青春時代を過ごしていた。
という事で、「安倍晋三の生涯と、戦後日本政治史」の第3回は、「池田勇人・佐藤栄作・田中角栄の時代」と「安倍晋三の青春時代」を描く。
それでは、ご覧頂こう。
<「神武景気」(1955~1956年)、「岩戸景気」(1959~1961年)の「日本経済イケイケの時代」に、「国民所得倍増計画」を掲げる池田勇人が颯爽と登場>
「60年安保闘争」では、日本の国論を二分する大混乱が起こり、
日本は「政治の季節」を過ごしたが、一方、その頃の日本経済は絶好調であった。
貧しかった終戦直後の時期を過ぎ、当時の日本国民は、「戦後日本の復興」のため、懸命に働いていた。
そして、日本経済はグングンと上向いて行き、「神武景気」(1955~1956年)、「岩戸景気」(1959~1961年)という、空前の好景気の時代を迎えた。
国民生活の水準は向上し、日本の歴史上、初めてと言って良い、「消費社会」が到来したのである。
そんな時期に登場したのが、池田勇人(いけだ・はやと)首相であった。
池田勇人首相が掲げたのは、
「国民所得倍増計画」である。
池田勇人は、とにかく日本経済を向上させ、日本をより一層、豊かにして行くという大目標を立て、それに向かって邁進して行った。
という事で、「池田勇人の時代」を見てみる事としよう。
<「吉田学校の優等生」だった、池田勇人と佐藤栄作~吉田茂内閣で蔵相を務め、「貧乏人は麦を食え」(1950年)と、舌禍事件を起こしていた池田勇人>
前回の記事でも述べたが、池田勇人・佐藤栄作は、吉田茂の子分だった。
吉田茂は、官僚出身だった池田勇人・佐藤栄作に目をかけ、池田勇人には蔵相、佐藤栄作には官房長官を任せていた。
2人は、吉田の子分の中でも、殊の外、優秀であり、池田と佐藤は、
「吉田学校の優等生」
とも言われていた。
だが、その池田勇人は、蔵相時代、ある問題発言をしてしまい、「大炎上」してしまった事が有った。
1950(昭和25)年、吉田内閣の蔵相だった池田勇人は、
「貧乏人は麦を食え」
と、言い放ったというのである。
この発言の真意は、弱者切り捨てという事では無く、
「所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に沿った方へ持って行きたい」
という物だったようだが、マスコミによって、発言を切り取られ、
「貧乏人は麦を食え」
と発言したとされ、池田は一斉にマスコミに叩かれた。
発言を曲解されてしまい、池田も心外だったと思われるが、この発言の他にも、
「中小企業が倒産したり、結果、自殺したりする人が出ても仕方が無い」
という発言もしてしまった。
勿論、先の「貧乏人は麦を食え」発言と合わせ、この発言も「大炎上」してしまったが、
このように、蔵相時代の池田は、些か軽率な発言が多かったと言われても仕方あるまい。
<池田勇人内閣の時代(1960.7~1964.11)~「国民所得倍増計画」と「東京オリンピック」の時代>
さて、かつては色々と問題発言をしてしまった池田勇人であるが、
岸信介首相の後を受け、1960(昭和35)年7月19日、第1次・池田勇人内閣を発足させた。
この時、池田首相は、初の女性大臣(厚相)として中山マサを起用し、官房長官には大平正芳を起用している。
池田は、「60年安保闘争」の直後だけに、出来るだけ「低姿勢」で臨もうと心掛けており、
内閣人事にも、そんな池田の意向が反映していたと思われる。
池田勇人首相が掲げたスローガンは、「国民所属倍増計画」「寛容と忍耐」という物である。
「とにかく、日本経済を拡大・発展させて行く」
という事が、池田内閣の方針であり、極論すれば、それ以外の問題は全て棚上げしたとも言える。
こうして、「政治の季節」の後、池田政権の下、日本は「経済の季節」へと突入して行く。
上り調子の日本経済は、池田首相の時代に、ますます発展して行った。
日本は「高度経済成長」の時代へ突き進んで行った。
そんな中、大変ショッキングな事件が起こった。
1960(昭和35)年10月12日、東京・日比谷公会堂にて、
自民党・池田勇人、社会党・浅沼稲次郎、民社党・西尾末広の3党首による演説会が開催されていたが、
社会党委員長・浅沼稲次郎の演説中、当時17歳の山口二矢が突然、壇上に上がり、浅沼委員長を刺殺してしまったのである。
あまりにも衝撃的な、「浅沼委員長刺殺事件」だったが、池田勇人も、目の前でこの惨事を目撃してしまい、大変な衝撃を受けた。
山口二矢は、右翼団体に所属しており、
「左翼の浅沼を殺さなければならない」
と思い詰め、白昼堂々、それを決行してしまった。
日本の政治史上に残る、衝撃の大事件であるが、政治家をテロで抹殺するという事は、断じて有ってはならない事である。
池田勇人首相は、1960(昭和35)年12月、1963(昭和35)年12月に、
それぞれ衆議院解散総選挙を行なったが、いずれも自民党が大勝し、自民党が「絶対安定多数」を占める事となった。
これにより、第1次~第3次・池田勇人内閣時代を通して、安定した政権運営を行なう事が出来たが、
「国民所得倍増計画」も順調に達成されて行き、日本経済は更に上向いて行った。
その間、池田首相の右腕として活躍したのが、自民党の政調会長を経て、池田内閣で蔵相を務めた、田中角栄である。
池田勇人・首相、田中角栄・蔵相という強力コンビの下、
・「LT貿易」開始(1962) ※日中の「政経分離」での経済協力協定
・「GATT11条国」移行(1963)
・「IMF8条国」移行(1964)
・「OECD」加盟(1964)
日本は、上記の通り、国際的な経済協力関係を築き上げる事に成功し、
日本は「先進国クラブ」の仲間入りを果たしたとも言われた。
戦争には敗れた日本だが、経済の発展により、遂に日本は先進国の地位を取り戻したと言って良い。
また、1964(昭和39)年の「東京オリンピック」開通に向けて、インフラの整備も急速に進んだ。
1963(昭和38)年12月21日には「首都高速道路」が開通したが、「首都高」の開通は急ピッチで進められ、
用地買収の手間を省くため、橋脚を東京都内の川に建てるなど、突貫工事で進められ。
これにより、あっという間に「首都高」が開通するという離れ業をやってのけた。
そして、1964(昭和39)年10月1日には、遂に「新幹線」が開通したが、
「新幹線」は「夢の超特急」と称され、日本人の長距離移動を容易にする事となり、日本社会を劇的に変えたと言って良い。
「新幹線」開通は、「東京オリンピック」開会式の直前であり、「東京オリンピック」にギリギリで間に合ったが、
ともかく、日本の技術力の高さ、素晴らしさを、「新幹線」は、これ以上ない形で示していた。
1964(昭和39)年10月10日、遂に「東京オリンピック」開会式を迎えた。
雲一つ無い晴天の下、東京・国立競技場で、「東京オリンピック」開会式が行われたが、
それは、戦後日本の奇跡的な復興を象徴する、大イベントであった。
池田勇人も、この日を迎える事が出来て、万感胸に迫るものが有っただろうが、
実は、この時、池田勇人は喉頭癌に冒されていた。
日本のために、まさに身命を賭して戦って来た池田勇人は、この「東京オリンピック」を見届けると、閉会式の翌日に退陣を表明した。
首相というのは、本当に生命を削るような激務という事であろう。
<成蹊小学校に入学し、家庭教師・平沢勝栄の指導を受けていた、安倍晋三少年~父・安倍晋太郎は、一度、衆議院選挙に落選の憂き目に遭う>
さてさて、池田勇人内閣時代、安倍晋三は幼少期を過ごしていたが、
当時の晋三少年の夢は、
「プロ野球選手になる事」
だったという。
その頃、父・安倍晋太郎は政界入りを果たしたばかりの新人政治家だったが、
晋三は、何不自由なく、ノビノビと育てられていた。
1961(昭和36)年、安倍晋三少年は、私立・成蹊小学校に入学した。
以後、晋三は成蹊小学校-成蹊中学校-成蹊高校-成蹊大学と、
全て成蹊学園で、エスカレーター式に進学して行く事となる。
典型的な「お坊っちゃん育ち」であるが、当時の晋三は、友達と仲良く遊ぶ、ごく普通の子供だった。
そんな中、晋三の父・安倍晋太郎に試練が訪れる。
1963(昭和38)年12月の衆議院総選挙で、晋太郎は落選してしまったのである。
「2回続けて落選してしまっては、復活の目は無くなってしまう」
晋太郎の義父・岸信介と、岸の弟・佐藤栄作は、晋太郎の苦境を救うため、
岸と佐藤の仲介により、晋太郎と選挙区(山口1区)が重なっていた、周東英雄の後援会長と努めていた、藤本万次郎を、晋太郎の後援会長に向かえる事とした。
こうして、安倍晋太郎は捲土重来を期す事となった。
そんな中、1964(昭和39)~1965(昭和40)年、
晋三が小学校4~5年生にかけての2年間、当時、東大生だった平沢勝栄が、晋三の家庭教師を務めている。
平沢勝栄は、後に自民党の議員として政治家となるが、この時以来、安倍晋三とは深い繋がりが有った。
前述の通り、この時、晋三の父・安倍晋太郎は選挙に落ちて「浪人中」だったが、
安倍家は明るさを失わず、晋三もスクスクと育って行った。
<アメリカのジョン・F・ケネディ大統領の時代(1961.1~1963.11)>
さて、日本が池田勇人首相の下、経済的発展に邁進していた頃、
アメリカは、ジョン・F・ケネディ大統領の時代を迎えていた。
1960(昭和35)年11月に行われた、アメリカ大統領選挙は、民主党のジョン・F・ケネディと、共和党のリチャード・ニクソンの争いとなったが、ケネディとニクソンの間で行われた、史上初のテレビ討論で、
若々しいケネディが、「テレビ映りの良さ」も有って、視聴者に好印象を与えた。
そして、大統領選挙ではケネディがニクソンに勝利し、ケネディがアメリカ大統領に当選した。
アメリカ国民は、当時43歳の若きケネディに大いに期待したが、それと同時に、ケネディの妻・ジャクリーンの美しさにも注目が集まった。
1961(昭和36)年1月20日、ケネディは第35代アメリカ大統領に就任した。
この時の、アメリカ大統領就任演説で、ケネディは、
「国が貴方に何をしてくれるのかを問うのではなく、貴方が国に対して何が出来るのかを問うて欲しい」
と訴え、拍手喝采を浴びた。
ケネディ大統領は、とにかく演説が上手い人であり、それが彼の人気の秘訣になっていた。
1962(昭和37)年10月、アメリカとソ連の間で、「キューバ危機」が勃発した。
アメリカと目と鼻の先に有るキューバに、ソ連が核ミサイルの基地を建設しようとしていたのだが、
アメリカのケネディ大統領は、これに対して断固とした姿勢を示し、
「もしも、ソ連がキューバから核ミサイル基地を撤去しなければ、戦争も辞さず」
と、強硬な態度を取った。
これにより、米ソは「核戦争」の一歩手前となる、所謂「キューバ危機」となったが、
最終的には、ソ連が折れて、基地は撤去され、辛くも「核戦争」は回避された。
世界中を恐怖のドン底に陥れた「キューバ危機」の後、アメリカ・ケネディ大統領と、ソ連・フルシチョフ書記長の間で、ホットラインが敷かれ、両国首脳が直接対話出来るようになった。
「キューバ危機」を、断固とした姿勢で乗り切ったケネディ大統領の名声は高まり、
ケネディ大統領は、絶大な人気を誇るようになった。
ケネディ大統領と、ファースト・レディのジャクリーン夫人は、常に大人気であり、
夫妻の行く所、常に黒山の人だかりであった。
だが、そんなケネディ大統領が、悲劇に見舞われてしまう。
1963(昭和38)年11月22日、ダラスを遊説中だったケネディ大統領は、ジャクリーン夫人と共にオープンカーに乗り、集まった民衆の歓呼に応えていたが、
その最中、ケネディ大統領は、何者かによって撃たれ、暗殺されてしまった。
この時、日本とアメリカは、史上初の衛星中継によって繋がれていたが、
「ケネディ大統領暗殺」
という衝撃的なニュースが、初の衛星中継によって伝えられる事となってしまった。
現職アメリカ大統領の暗殺という悲劇は、非常に謎が多く、未だに真相は明らかになっていない。
だが、大変、闇が深い事件であるという事だけは確かである。
<1964(昭和39)年7月…自民党総裁選で、池田勇人が佐藤栄作、藤山愛一郎を破り、3選を果たすが…?>
1964(昭和39)年、自民党総裁選が行なわれ、
池田勇人・佐藤栄作・藤山愛一郎の3人が立候補したが、
結果は、「池田勇人242票、佐藤栄作160票、藤山愛一郎72票」であり、
池田が、過半数を4票だけ上回り、辛くも3選を果たしたが、
この時、佐藤は大いに善戦したものの、河野一郎が池田支持に回った事が決め手となり、池田が勝利した。
だが、佐藤栄作が存在感を発揮し、一躍「次期総裁候補」に名乗りを上げた。
<佐藤栄作内閣の時代(1964.11~1972.7)~「史上最長の安定政権」の時代~「日韓基本条約」「小笠原諸島返還」「沖縄返還」を成し遂げる>
1964(昭和39)年11月、退陣表明した池田勇人首相は、
後継として、先の自民党総裁選で善戦した佐藤栄作を指名した。
佐藤栄作は、岸信介の弟であり、安倍晋三から見れば「大叔父」にあたる。
前述の通り、佐藤栄作は池田勇人と共に「吉田学校の優等生」と言われていた。
1964(昭和39)年11月、佐藤栄作内閣が発足した。
結果として、佐藤栄作政権は1972(昭和47)年7月まで、「7年8ヶ月」も続く事となるが、
これは、後に安倍晋三政権が更新するまでは、「史上最長政権」であった。
佐藤栄作首相は、史上稀に見る長期安定政権を築き上げ、特に外交で多大な成果を残している。
1965(昭和40)年、「日韓基本条約」が調印され、
これにより、日本と韓国は国交正常化を果たしたが、
この時、日本の植民地支配に伴う補償請求に関して、
「韓国政府が国民に補償義務を負う」
と、明記されていた。
だが、それにも関わらず、韓国が未だに日本に対し、色々と言って来ているというのは、周知の事実である。
1968(昭和43)年6月26日、それまでアメリカの占領下にあった小笠原諸島が、日本に返還され、
23年振りに「小笠原諸島返還」が実現された。
佐藤政権の下、次々に外交面で成果が出されて行ったが、
残る大目標は「沖縄返還」である。
佐藤栄作首相は、政権発足当初から、
「沖縄返還」を、政権公約として掲げていた。
「太平洋戦争」末期の激戦地だった沖縄は、アメリカに占領されたままだったのだが、
佐藤首相は、何としても沖縄を日本に取り戻す事を悲願にしていた。
そして、アメリカと粘り強く交渉を続けた結果、遂にそれは実現した。
1972(昭和47)年5月15日、遂に「沖縄返還」が実現され、
「沖縄県」として日本に戻されたが、とは言っても、沖縄にはアメリカ軍基地の大部分が残されたままであり、
沖縄県民にとっては、手放しではう喜べない状況だったようである。
ちなみに、アメリカが何故、「沖縄返還」に応じたのかといえば、当時、アメリカは泥沼の「ベトナム戦争」が続いており、
米軍基地を沖縄に残すという条件で良いなら、という事で、これを認めたとの事である。
私も、沖縄には行った事が有るが、未だに沢山の米軍基地が有り、それが強く印象に残っている。
兎にも角にも、佐藤栄作は「沖縄返還」という公約を実現させる事が出来た。
このように、外交面で多大な実績を残して来た佐藤栄作首相であるが、
長期安定政権を築いてはいたものの、今一つ、日本国民からの人気は低かった。
その要因の一つとして、
「新聞記者が、偏向報道をしている」
と、佐藤栄作は思っており、彼は新聞が大嫌いであった。
1972(昭和47)年6月17日、佐藤栄作はテレビの記者会見で、退陣表明を行なったが、
「偏向的な新聞は、大嫌いだ。新聞記者は全員、出て行って下さい」
と言って、新聞記者を全て追い出してしまった。
そして、新聞記者が全員去った後、テレビカメラに向けて、「退陣」を表明した。
こうして、7年8ヶ月に及ぶ、「佐藤栄作の時代」は終わりを迎えた。
<1967(昭和42)年…安倍晋太郎、衆議院議員に「返り咲き」を果たす~1969(昭和44)年…「安倍晋太郎VS林義郎」の激戦を制し、連続当選>
さて、佐藤政権下の1967(昭和42)年の衆議院総選挙に、
「背水の陣」の安倍晋太郎は、決死の覚悟で臨み、当選を果たし、
安倍晋太郎は国会議員に「返り咲き」を果たした。
以後、晋太郎は亡くなるまで、ずっと連続当選を続けたが、この時の「返り咲き」が無ければ、果たして、その後の彼の政治家人生が有ったかどうかは、わからない。
まさに、人生の分岐点であった。
2年後の1969(昭和44)年、安倍晋太郎と同じ選挙区で、
周東英雄の後継として、林義郎が立候補し、地元の有力者の支持は林に集まった。
「安倍晋太郎VS林義郎」
の戦いが勃発し、晋太郎は苦戦を強いられたものの、結果は晋太郎がトップ当選となった。
この時、支持基盤が弱かった安倍晋太郎は、在日韓国人に支持を求め、それが当選に繋がったと言われている。
ともあれ、安倍晋太郎は危機を乗り越え、以後、自民党の有力政治家の道を歩み始める事となる。
<田中角栄内閣の時代(1972.7~1974.12)~「日中国交正常化」を成し遂げ、「日本列島改造論」を掲げた「今太閤」、「金脈問題」により失脚>
7年8ヶ月の及ぶ、佐藤栄作首相の長期政権が幕を閉じた後、
颯爽と登場して来たのが、田中角栄(たなか・かくえい)である。
新潟出身で、土建屋上がりだった田中角栄は、
「日本列島改造論」
なる物を掲げ、当時、注目を集める存在だったが、
佐藤栄作退陣後、1972(昭和47)年7月5日に行われた自民党総裁選では、
「三角大福」
と称されていた、
三木武夫・田中角栄・大平正芳・福田赳夫の4人が立候補し、激戦となった。
そして、その激戦を制し、田中角栄が自民党総裁選に勝利した。
自民党総裁選に勝利した田中角栄は、戦後最年少(当時)の54歳で首相の座に就き、
1972(昭和47)年7月7日、第1次・田中角栄内閣を発足させた。
田中角栄は、最終学歴は高等小学校卒業であり、そこか一代で土建屋を興して財を成し、政治家に転じて、自民党の有力政治家から、遂には首相にまで登り詰めたのである。
まるで、豊臣秀吉ばりの出世物語だという事で、当時の田中角栄は、日本国民にも大人気であり、
「今太閤」
などとも言われていた。
その田中角栄が目標に掲げていたのが、
「日中国交正常化」
である。
田中首相は、外相・大平正芳と共に、この目標に向かって邁進した。
田中角栄首相は、就任後、僅か2ヶ月にして、中国に渡り、
中国の毛沢東・周恩来などと粘り強く交渉を重ね、
1972(昭和47)年9月29日、遂に、
「日中国交正常化」
が実現された。
まさに電光石火の早業であるが、
「決断と実行」
を、まさに地で行った田中角栄は、この時、日本国民の英雄のように祭り上げられた。
だが、田中角栄は、栄光の頂点から、一転して、ドン底に突き落とされてしまう。
田中首相の「日本列島改造論」は、地価や物価の高騰を招き、
「狂乱物価」
を引き起こし、国民から非難が高まったが、
それに追い打ちを掛けるように、1974(昭和49)年、「文藝春秋」にて、評論家・立花隆が、
「田中角栄の金脈問題」
を追及する記事を発表し、田中角栄は窮地に追い込まれた。
そして、これがキッカケとなり、1974(昭和49)年12月、首相の座に就いて僅か2年余りで、田中角栄首相は退陣に追い込まれてしまった。
「今太閤」の、あまりにも早い、栄光の頂点からの転落劇であった。
<安倍晋三青年、成蹊大学に進み、アーチェリー部で青春時代を過ごす>
一方、安倍晋三青年は、佐藤栄作首相~田中角栄首相の時代、
成蹊小学校-成蹊中学校-成蹊高校と、順調に進学して行き、
1973(昭和48)年、安倍晋三は成蹊大学へと進学した。
そして、成蹊大学に進学した安倍晋三は、体育会のアーチェリー部に所属する事となった。
晋三は、アーチェリー部で青春時代を過ごし、
アーチェリー部では、仲間達と共に、充実した楽しい日々を送っていた。
大学生になった晋三は、そろそろ将来の進路を考え始めていたが、
彼は、この頃は政治家になるつもりは無かったという。
なお、この頃、晋三の父・安倍晋太郎は、「岸派」を引き継いで「福田派」を形成していた、福田赳夫の下に付き、「福田派」の1人として、田中角栄と「角福戦争」を戦う、福田赳夫を支えていた。
そして、田中角栄の失脚により、いよいよ、安倍晋太郎にも飛躍の時がやって来る事となる。
(つづく)