「ロシア・ソ連」と「ウクライナ」の歴史⑭ ~「アナスタシア伝説編」~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

ロシアの「ウクライナ侵攻」が始まってから、1ヶ月近くが経過した。

相変わらず、ロシアの「ウクライナ侵攻」は続いているが、ロシアとウクライナの間では、断続的に「停戦協議」が続いている。

だが、未だに合意には至っておらず、相変わらずウクライナは戦火に巻き込まれたままである。

一刻も早く、戦闘状態が終わって欲しいと切に願っているが、未だに出口は見えない状況である。

 

 

さて、1917(大正6)年に「10月革命」を成し遂げ、ロシアの政権を奪取した、

レーニン率いる「ボリシェヴィキ」は、翌1918(大正7)年に「ロシア共産党」と改称し、

反対勢力を次々に排除して行く姿勢を強めたが、

同年(1918年)7月7日、ロシア帝国最後の皇帝・ニコライ2世一家を全員銃殺で「処刑」するという、何とも残酷な仕打ちもしている。

という事で、今回は、ニコライ2世アレクサンドラ皇后夫妻の4女・アナスタシア「生存伝説」にまつわる話を、ご覧頂こう。

 

<アナスタシアは生きていた!?~根強く噂された、「アナスタシア生存説」~「自分はアナスタシアだ」と名乗る人物が…?>

 

 

 

 

前回の記事で、詳しく書いたのだが、

1918(大正7)年7月17日に、「ボリシェヴィキ」は、最後のロシア皇帝・ニコライ2世一家を、

全員銃殺により、「処刑」してしまった。

「ボリシェヴィキ」としては、ロマノフ家が「反革命派」の旗印にされては困るという意図も有って、そのような残酷な事をしたわけだが、

当時の年齢は、ニコライ2世は50歳、妻・アレクサンドラ皇后は47歳、

4人の娘達、「OTMA」(オルガ・タチアナ・マリア・アナスタシア)は、23歳、21歳、19歳、17歳という若さであった。

末っ子で、長男のアレクセイは、当時14歳である。

 

 

 

ニコライ2世一家は皆、亡くなるには、あまりにも早すぎた。

前回の記事でも書いたが、ニコライ2世一家は、まずはシベリアのトボリスクに流され、

そこで軟禁生活を送った後、「ボリシェヴィキ」によって、エカテリンブルクへと移送された。

結果として、そのエカテリンブルクが、ニコライ2世一家の「終焉の地」となってしまったが、

上の写真は、トボリスクでのニコライ2世一家を写した物であり、

下の写真は、トボリスクからエカテリンブルクに移る際の、アナスタシアを捉えた物である。

これが、アナスタシア「生前最後の写真」と言われている。

 

 

 

前述の通り、ニコライ2世一家の「処刑」の際、アナスタシアは、まだ17歳であった。

彼女は、あまりにも若く、まだまだ生きたかったであろう。

そのアナスタシアは、「実は、アナスタシアは、あの処刑の際に危うく難を逃れ、後々まで生きていた」という、有名な「アナスタシア生存説」が、根強く噂されていた。

それは、何故かといえば、この時に「処刑」されたニコライ2世一家の埋葬場所は、長らく「極秘」とされており、

ニコライ2世一家の遺骨は、長い間、見付からなかったからである。

しかも、当時「ボリシェヴィキ」は、「ニコライ2世のみを処刑した」と発表していたとの事である。

そのため、ニコライ2世以外の家族の生死については、長い間、謎に包まれていた。

そんな事情が有った事に加えて、

「せめて、アナスタシアだけでも、生き残っていて欲しい」

という人々の願いが、「アナスタシア生存説」を生んだとも言えよう。

 

 

その後、「私は、実は生き残ったアナスタシアだ」と名乗る、「自称・アナスタシア」が、後年、次々に現れた。

中でも最も有名なのが、アンナ・アンダーソンという人であり、

彼女は、ニコライ2世一家の「処刑」の様子を、事細かに話してみせるなど、かなり「信憑性」が有ると思われたが、

結局、彼女はアナスタシアとは何の関係も無い「偽物」であると、後年、判明した。

 

 

 

「ソ連」崩壊後の1991(平成3)年、エカテリンブルク近郊の森の中で、大量の遺骨が発見されたが、

DNA鑑定の結果、その遺骨は、ニコライ2世一家の遺骨である事が判明した。

その時、アナスタシアの遺骨も見付かったが、マリアアレクセイの遺骨は発見されなかったという。

だが、2007(平成19)年、エカテリンブルク近郊の別の場所で、マリアアレクセイの遺骨も発見された。

こうして、「処刑」の後、90年の時を経て、ニコライ2世一家全員の遺骨が発見され、

ニコライ2世一家は、改めてロシア正教の礼に則り、埋葬された。

なお、ニコライ2世一家が処刑された「イパチェフ館」の跡地には、ニコライ2世一家の霊を慰めるための「血の上の教会」が建てられている。

 

<アナスタシアは、どんな子だったのか?~とても活発で、芸術的才能に溢れた少女だった、アナスタシア>

 

 

 

 

では、アナスタシアとは、一体どんな子だったのであろうか?

ニコライ2世アレクサンドラ皇后夫妻の間には、4人の女の子が次々に生まれたが、

上から順に、オルガ・タチアナ・マリア・アナスタシアという4姉妹は、その頭文字を取って、「OTMA」と称され、ロシア国民からも愛されていたという事は、以前の記事で、既に述べた。

今一度、「OTMA」の生年月日をご紹介すると、

 

・オルガ(1895/11/15)

・タチアナ(1897/5/29)

・マリア(1899/6/26)

・アナスタシア(1901/6/18)

 

…という事であるが、4姉妹はそれぞれ2歳ずつ、歳が離れている。

度々、書いているが、この4姉妹は大変仲が良かった。

中でも、アナスタシアというのは、大変、個性的な女の子だったという。

 

 

アナスタシアが4歳の時に描いたという絵が残されているが、

とても可愛らしい絵であり、ごく最近の子が描いたような印象も受ける。

アナスタシアには、芸術的な才能が有り、絵を描いたり、ダンスを踊ったりするのが好きな子だったようである。

彼女は、とにかく元気いっぱいで、いつも駆け回っているような、活発な子だった。

 

上の写真は、アナスタシア「付け歯」を付けて、所謂「変顔」をしている写真であるが、

勿論、「OTMA」の4姉妹の中で、こんな事をしていたのは、アナスタシアだけであった。

彼女は、王女らしくないというか、王族の枠には収まりきらないような、活動的な子であり、

「私は、将来は女優になりたい」

などと言って、周囲を驚かせたりもしていた。

 

 

もう一つ、アナスタシアの有名な写真が有る。

アナスタシアは、写真を撮るのが趣味だったのだが、

ある時、アナスタシアは、鏡に写った自分の姿を写真に撮った。

これは、今で言う所の「自撮り」である。

この「自撮り写真」は、1914(大正3)年10月に撮影されたものであり、アナスタシアは当時13歳である。

これは、「世界初の、10代の女の子の自撮り写真」として、歴史に残っている。

このように、アナスタシアは、とても自由な発想をする人であった。

 

<シベリア(トボリスク)監禁生活で、家族で助け合って生きていた、ニコライ2世一家>

 

 

「ロシア革命」によって、ロマノフ王朝は崩壊してしまい、

ニコライ2世一家は、囚われの身になってしまったが、

政治的には色々な問題は有ったかもしれないが、ニコライ2世一家は、心はとても優しい人達だった。

アレクサンドラ皇后や、4人の娘達は、しばしば、戦地の慰問に訪れたりして、傷病兵を見舞ったりしていたが、

勿論、アナスタシアも、そんな時には母や姉達と共に、熱心にお見舞いをしたりしていた。

だが、一度、民衆の恨みや憎しみが皇帝一家に向かってしまうと、ニコライ2世一家の運命は暗転し、

全ての特権は剥奪され、監禁生活を送る事になってしまった。

これは、ニコライ2世一家にとっては、思いもよらぬ事であった。

 

 

だが、シベリアに流され、囚われの身となった境遇にあっても、ニコライ2世一家は、

お互いに助け合い、支え合いながら、懸命に生きていた。

そういう苦しい時こそ、この家族の絆は、より一層、深まったと言えるのではないだろうか。

アナスタシアも、持ち前の明るさを失わず、家族みんなを笑わせたりして、皆を元気付けていたという。

過酷な状況にあっても、「家族」が居たからこそ、乗り越える事が出来たと言えよう。

 

 

だが、逆境に耐え、懸命に生きていたニコライ2世一家も、

1918(大正7)年7月17日、遂に全員が銃殺されてしまった。

この時、「処刑」を実行した連中は、メチャクチャに銃を乱射したため、

当初、何人かは致命傷を免れ、アナスタシアも息が有ったようであるが、結局、最後は全員が殺害されてしまった。

この時、辛うじて最後まで生きていたが、結局は一番最後に殺害されたのが、アナスタシアだったという話も有る。

いずれにせよ、この時、ニコライ2世一家は全員、この世を去った。

アナスタシアも、さぞかし無念だったに違いない。

生まれて来る時代や、両親は、自分では選べないが、

ニコライ2世アレクサンドラ皇后の間に生まれたアナスタシアも、このように数奇な運命を辿る事となった。

 

<「アナスタシア伝説」を題材にした映画①~イングリッド・バーグマンがアナスタシアを演じた『追想』(1956年)>

 

 

 

 

 

 

さて、ニコライ2世一家が全員銃殺されてしまったが、

実はアナスタシアは生きていたという、「アナスタシア生存説」は、ずっと根強く囁かれていた。

その「アナスタシア生存説」を題材に、数々の映画や物語が作られている。

その代表的な物としては、絶世の美女、イングリッド・バーグマンが、アナスタシアを演じた、1956(昭和31)年の映画『追想』が挙げられるが、イングリッド・バーグマンが演じるアナスタシアは、とても気品が有る(※実際のアナスタシアは、とても活発な女の子だったが)。

「もしも、アナスタシアが生きていたら…」

という願いを具現化したのが、この『追想』であると言えよう。

なお、イングリッド・バーグマンと、ユル・ブリンナーが共演しているが、

もしも、アナスタシアが本当に生き残っていたとしたら、果たして、この映画をどんな思いで見たであろうか。

 

<「アナスタシア伝説」を題材にした映画②~メグ・ライアンがアナスタシアの声を演じた、ディズニー映画『アナスタシア』(1997)>

 

 

 

 

 

そのまた遥か後年、1997(平成9)年に、「アナスタシア生存説」を題材に、

ディズニー映画(アニメ映画)の『アナスタシア』が公開されたが、

「ロシア革命」で、危うく「処刑」を免れたアナスタシアが、色々な困難を乗り越え、最後は恋人と結ばれるという、

典型的な「ディズニー映画」のプリンセス・ストーリーとして描かれている。

なお、『アナスタシア』で、主役のアナスタシアの声を演じたのが、当時、大人気だったメグ・ライアンである。

私は当時、メグ・ライアンの大ファンであり、アナスタシア「伝説」にも非常に興味が有ったので、

この組み合わせの映画であれば、見ないという選択肢は無いと思い、勿論、見させて頂いた。

この頃でも、「アナスタシアには、生きていて欲しかった」という、人々の願いが残っていたという事に、今更ながら驚かされる。

ちなみに、映画『アナスタシア』には、妖怪のような悪役として、あのラスプーチンも登場する。

 

<「アナスタシア伝説」を題材にした映画③~『名探偵コナン 世紀末の魔術師』(1999)~ロマノフ王朝の秘宝「インペリアル・イースター・エッグ」を巡り、「名探偵コナン」と「怪盗キッド」が対決>

 

 

もう一つ、「アナスタシア伝説」を題材にした、異色の(?)映画をご紹介させて頂く。

それが、1999(平成11)年に公開された、『名探偵コナン 世紀末の魔術師』である。

これは、劇場版『名探偵コナン』の第3弾であるが、

この当時、私は『名探偵コナン』の映画を、毎年、映画館に見に行っていた。

その私が、最も面白いと思ったのが、この『世紀末の魔術師』であった。

 

 

 

 

では、何がそんなに面白かったのかといえば、

『世紀末の魔術師』は、ロマノフ王朝の秘宝「インペリアル・イースター・エッグ」を巡り、

「名探偵コナン」「怪盗キッド」が対決するという内容のストーリーであり、

この物語では、ニコライ2世一家の「悲劇」が題材にされているという点が、非常に面白かった。

歴史的事実を題材にして、それこそ大人も子供も楽しめるような、非常に出来の良い映画であり、

「まさか、名探偵コナンで、ニコライ2世の物語が出て来るとは…」

というのが、意外性が有って面白かったのである。

という事で、「世紀末の魔術師」というタイトルには、一体、どんな意味が込められているのかについては、見てからのお楽しみである。

 

<未だに多くの物語の題材になる、「伝説の王女・アナスタシア」~未だに、世界中の人々の心の中で生き続ける、アナスタシア>

 

 

 

 

 

という事で、今回は「アナスタシア伝説」について書かせて頂いたが、

前述の映画の他にも、「伝説の王女・アナスタシア」は、未だに沢山の物語の題材となっており、

宝塚歌劇団でミュージカルになったりもしている。

一体、何故こんなに、アナスタシアが多くの人達を惹き付けているのかといえば、

17歳の若さで、この世を去らなければならなかったという「悲劇性」もさる事ながら、

何度も述べて来た通り、「アナスタシアには、何処かで生きていて欲しい」という、人々の願いが、ずっと消えなかったからではないかと、私は思うのである。

あの「処刑」の時、アナスタシアも、とても怖い思いをしたと思うが、今もなお、アナスタシアは、世界中の人々の心の中に、生きているのである。

そして、ロシアとウクライナが、今、とんでもない事になってしまっているが、

きっと、今頃アナスタシアも、天国で「未だに、こんな事をやってるのね…」と、ため息をつき、嘆いているに違いない。

 

(つづく)