ロシアの「ウクライナ侵攻」が始まってから、1ヶ月近くが経過した。
相変わらず、ロシアの「ウクライナ侵攻」は続いているが、ロシアとウクライナの間では、断続的に「停戦協議」が続いている。
だが、未だに合意には至っておらず、相変わらずウクライナは戦火に巻き込まれたままである。
一刻も早く、戦闘状態が終わって欲しいと切に願っているが、未だに出口は見えない状況である。
さて、1917(大正6)年に「10月革命」を成し遂げ、ロシアの政権を奪取した、
レーニン率いる「ボリシェヴィキ」は、翌1918(大正7)年に「ロシア共産党」と改称し、
反対勢力を次々に排除して行く姿勢を強めたが、
同年(1918年)7月7日、ロシア帝国最後の皇帝・ニコライ2世一家を全員銃殺で「処刑」するという、何とも残酷な仕打ちもしている。
という事で、今回は、ニコライ2世とアレクサンドラ皇后夫妻の4女・アナスタシアの「生存伝説」にまつわる話を、ご覧頂こう。
<アナスタシアは生きていた!?~根強く噂された、「アナスタシア生存説」~「自分はアナスタシアだ」と名乗る人物が…?>
前回の記事で、詳しく書いたのだが、
1918(大正7)年7月17日に、「ボリシェヴィキ」は、最後のロシア皇帝・ニコライ2世一家を、
全員銃殺により、「処刑」してしまった。
「ボリシェヴィキ」としては、ロマノフ家が「反革命派」の旗印にされては困るという意図も有って、そのような残酷な事をしたわけだが、
当時の年齢は、ニコライ2世は50歳、妻・アレクサンドラ皇后は47歳、
4人の娘達、「OTMA」(オルガ・タチアナ・マリア・アナスタシア)は、23歳、21歳、19歳、17歳という若さであった。
末っ子で、長男のアレクセイは、当時14歳である。
ニコライ2世一家は皆、亡くなるには、あまりにも早すぎた。
前回の記事でも書いたが、ニコライ2世一家は、まずはシベリアのトボリスクに流され、
そこで軟禁生活を送った後、「ボリシェヴィキ」によって、エカテリンブルクへと移送された。
結果として、そのエカテリンブルクが、ニコライ2世一家の「終焉の地」となってしまったが、
上の写真は、トボリスクでのニコライ2世一家を写した物であり、
下の写真は、トボリスクからエカテリンブルクに移る際の、アナスタシアを捉えた物である。
これが、アナスタシアの「生前最後の写真」と言われている。
前述の通り、ニコライ2世一家の「処刑」の際、アナスタシアは、まだ17歳であった。
彼女は、あまりにも若く、まだまだ生きたかったであろう。
そのアナスタシアは、「実は、アナスタシアは、あの処刑の際に危うく難を逃れ、後々まで生きていた」という、有名な「アナスタシア生存説」が、根強く噂されていた。
それは、何故かといえば、この時に「処刑」されたニコライ2世一家の埋葬場所は、長らく「極秘」とされており、
ニコライ2世一家の遺骨は、長い間、見付からなかったからである。
しかも、当時「ボリシェヴィキ」は、「ニコライ2世のみを処刑した」と発表していたとの事である。
そのため、ニコライ2世以外の家族の生死については、長い間、謎に包まれていた。
そんな事情が有った事に加えて、
「せめて、アナスタシアだけでも、生き残っていて欲しい」
という人々の願いが、「アナスタシア生存説」を生んだとも言えよう。
その後、「私は、実は生き残ったアナスタシアだ」と名乗る、「自称・アナスタシア」が、後年、次々に現れた。
中でも最も有名なのが、アンナ・アンダーソンという人であり、
彼女は、ニコライ2世一家の「処刑」の様子を、事細かに話してみせるなど、かなり「信憑性」が有ると思われたが、
結局、彼女はアナスタシアとは何の関係も無い「偽物」であると、後年、判明した。
「ソ連」崩壊後の1991(平成3)年、エカテリンブルク近郊の森の中で、大量の遺骨が発見されたが、
DNA鑑定の結果、その遺骨は、ニコライ2世一家の遺骨である事が判明した。
その時、アナスタシアの遺骨も見付かったが、マリアとアレクセイの遺骨は発見されなかったという。
だが、2007(平成19)年、エカテリンブルク近郊の別の場所で、マリアとアレクセイの遺骨も発見された。
こうして、「処刑」の後、90年の時を経て、ニコライ2世一家全員の遺骨が発見され、
ニコライ2世一家は、改めてロシア正教の礼に則り、埋葬された。
なお、ニコライ2世一家が処刑された「イパチェフ館」の跡地には、ニコライ2世一家の霊を慰めるための「血の上の教会」が建てられている。
<アナスタシアは、どんな子だったのか?~とても活発で、芸術的才能に溢れた少女だった、アナスタシア>
では、アナスタシアとは、一体どんな子だったのであろうか?
ニコライ2世・アレクサンドラ皇后夫妻の間には、4人の女の子が次々に生まれたが、
上から順に、オルガ・タチアナ・マリア・アナスタシアという4姉妹は、その頭文字を取って、「OTMA」と称され、ロシア国民からも愛されていたという事は、以前の記事で、既に述べた。
今一度、「OTMA」の生年月日をご紹介すると、
・オルガ(1895/11/15)
・タチアナ(1897/5/29)
・マリア(1899/6/26)
・アナスタシア(1901/6/18)
…という事であるが、4姉妹はそれぞれ2歳ずつ、歳が離れている。
度々、書いているが、この4姉妹は大変仲が良かった。
中でも、アナスタシアというのは、大変、個性的な女の子だったという。
アナスタシアが4歳の時に描いたという絵が残されているが、
とても可愛らしい絵であり、ごく最近の子が描いたような印象も受ける。
アナスタシアには、芸術的な才能が有り、絵を描いたり、ダンスを踊ったりするのが好きな子だったようである。
彼女は、とにかく元気いっぱいで、いつも駆け回っているような、活発な子だった。
上の写真は、アナスタシアが「付け歯」を付けて、所謂「変顔」をしている写真であるが、
勿論、「OTMA」の4姉妹の中で、こんな事をしていたのは、アナスタシアだけであった。
彼女は、王女らしくないというか、王族の枠には収まりきらないような、活動的な子であり、
「私は、将来は女優になりたい」
などと言って、周囲を驚かせたりもしていた。
もう一つ、アナスタシアの有名な写真が有る。
アナスタシアは、写真を撮るのが趣味だったのだが、
ある時、アナスタシアは、鏡に写った自分の姿を写真に撮った。
これは、今で言う所の「自撮り」である。
この「自撮り写真」は、1914(大正3)年10月に撮影されたものであり、アナスタシアは当時13歳である。
これは、「世界初の、10代の女の子の自撮り写真」として、歴史に残っている。
このように、アナスタシアは、とても自由な発想をする人であった。
<シベリア(トボリスク)監禁生活で、家族で助け合って生きていた、ニコライ2世一家>
「ロシア革命」によって、ロマノフ王朝は崩壊してしまい、
ニコライ2世一家は、囚われの身になってしまったが、
政治的には色々な問題は有ったかもしれないが、ニコライ2世一家は、心はとても優しい人達だった。
アレクサンドラ皇后や、4人の娘達は、しばしば、戦地の慰問に訪れたりして、傷病兵を見舞ったりしていたが、
勿論、アナスタシアも、そんな時には母や姉達と共に、熱心にお見舞いをしたりしていた。
だが、一度、民衆の恨みや憎しみが皇帝一家に向かってしまうと、ニコライ2世一家の運命は暗転し、
全ての特権は剥奪され、監禁生活を送る事になってしまった。
これは、ニコライ2世一家にとっては、思いもよらぬ事であった。
だが、シベリアに流され、囚われの身となった境遇にあっても、ニコライ2世一家は、
お互いに助け合い、支え合いながら、懸命に生きていた。
そういう苦しい時こそ、この家族の絆は、より一層、深まったと言えるのではないだろうか。
アナスタシアも、持ち前の明るさを失わず、家族みんなを笑わせたりして、皆を元気付けていたという。
過酷な状況にあっても、「家族」が居たからこそ、乗り越える事が出来たと言えよう。
だが、逆境に耐え、懸命に生きていたニコライ2世一家も、
1918(大正7)年7月17日、遂に全員が銃殺されてしまった。
この時、「処刑」を実行した連中は、メチャクチャに銃を乱射したため、
当初、何人かは致命傷を免れ、アナスタシアも息が有ったようであるが、結局、最後は全員が殺害されてしまった。
この時、辛うじて最後まで生きていたが、結局は一番最後に殺害されたのが、アナスタシアだったという話も有る。
いずれにせよ、この時、ニコライ2世一家は全員、この世を去った。
アナスタシアも、さぞかし無念だったに違いない。
生まれて来る時代や、両親は、自分では選べないが、
ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の間に生まれたアナスタシアも、このように数奇な運命を辿る事となった。
<「アナスタシア伝説」を題材にした映画①~イングリッド・バーグマンがアナスタシアを演じた『追想』(1956年)>
さて、ニコライ2世一家が全員銃殺されてしまったが、
実はアナスタシアは生きていたという、「アナスタシア生存説」は、ずっと根強く囁かれていた。
その「アナスタシア生存説」を題材に、数々の映画や物語が作られている。
その代表的な物としては、絶世の美女、イングリッド・バーグマンが、アナスタシアを演じた、1956(昭和31)年の映画『追想』が挙げられるが、イングリッド・バーグマンが演じるアナスタシアは、とても気品が有る(※実際のアナスタシアは、とても活発な女の子だったが)。
「もしも、アナスタシアが生きていたら…」
という願いを具現化したのが、この『追想』であると言えよう。
なお、イングリッド・バーグマンと、ユル・ブリンナーが共演しているが、
もしも、アナスタシアが本当に生き残っていたとしたら、果たして、この映画をどんな思いで見たであろうか。
<「アナスタシア伝説」を題材にした映画②~メグ・ライアンがアナスタシアの声を演じた、ディズニー映画『アナスタシア』(1997)>
そのまた遥か後年、1997(平成9)年に、「アナスタシア生存説」を題材に、
ディズニー映画(アニメ映画)の『アナスタシア』が公開されたが、
「ロシア革命」で、危うく「処刑」を免れたアナスタシアが、色々な困難を乗り越え、最後は恋人と結ばれるという、
典型的な「ディズニー映画」のプリンセス・ストーリーとして描かれている。
なお、『アナスタシア』で、主役のアナスタシアの声を演じたのが、当時、大人気だったメグ・ライアンである。
私は当時、メグ・ライアンの大ファンであり、アナスタシアの「伝説」にも非常に興味が有ったので、
この組み合わせの映画であれば、見ないという選択肢は無いと思い、勿論、見させて頂いた。
この頃でも、「アナスタシアには、生きていて欲しかった」という、人々の願いが残っていたという事に、今更ながら驚かされる。
ちなみに、映画『アナスタシア』には、妖怪のような悪役として、あのラスプーチンも登場する。
<「アナスタシア伝説」を題材にした映画③~『名探偵コナン 世紀末の魔術師』(1999)~ロマノフ王朝の秘宝「インペリアル・イースター・エッグ」を巡り、「名探偵コナン」と「怪盗キッド」が対決>
もう一つ、「アナスタシア伝説」を題材にした、異色の(?)映画をご紹介させて頂く。
それが、1999(平成11)年に公開された、『名探偵コナン 世紀末の魔術師』である。
これは、劇場版『名探偵コナン』の第3弾であるが、
この当時、私は『名探偵コナン』の映画を、毎年、映画館に見に行っていた。
その私が、最も面白いと思ったのが、この『世紀末の魔術師』であった。
では、何がそんなに面白かったのかといえば、
『世紀末の魔術師』は、ロマノフ王朝の秘宝「インペリアル・イースター・エッグ」を巡り、
「名探偵コナン」と「怪盗キッド」が対決するという内容のストーリーであり、
この物語では、ニコライ2世一家の「悲劇」が題材にされているという点が、非常に面白かった。
歴史的事実を題材にして、それこそ大人も子供も楽しめるような、非常に出来の良い映画であり、
「まさか、名探偵コナンで、ニコライ2世の物語が出て来るとは…」
というのが、意外性が有って面白かったのである。
という事で、「世紀末の魔術師」というタイトルには、一体、どんな意味が込められているのかについては、見てからのお楽しみである。
<未だに多くの物語の題材になる、「伝説の王女・アナスタシア」~未だに、世界中の人々の心の中で生き続ける、アナスタシア>
という事で、今回は「アナスタシア伝説」について書かせて頂いたが、
前述の映画の他にも、「伝説の王女・アナスタシア」は、未だに沢山の物語の題材となっており、
宝塚歌劇団でミュージカルになったりもしている。
一体、何故こんなに、アナスタシアが多くの人達を惹き付けているのかといえば、
17歳の若さで、この世を去らなければならなかったという「悲劇性」もさる事ながら、
何度も述べて来た通り、「アナスタシアには、何処かで生きていて欲しい」という、人々の願いが、ずっと消えなかったからではないかと、私は思うのである。
あの「処刑」の時、アナスタシアも、とても怖い思いをしたと思うが、今もなお、アナスタシアは、世界中の人々の心の中に、生きているのである。
そして、ロシアとウクライナが、今、とんでもない事になってしまっているが、
きっと、今頃アナスタシアも、天国で「未だに、こんな事をやってるのね…」と、ため息をつき、嘆いているに違いない。
(つづく)