ロシアの「ウクライナ侵攻」に端を発した「ウクライナ戦争」は、未だに停戦に至っていない。
ロシアのプーチン大統領は、「核兵器」の使用もちらつかせて、他国がロシアに手を出せないように脅しており、
その上で、ウクライナに攻め込んでいるのだから、全くこれは許し難い「暴挙」である。
そんな中、ウクライナのゼレンスキー大統領は、未だにウクライナ国内に留まり、ウクライナ国民を鼓舞して、ロシアへの必死の抵抗を続けている。
当初は「コメディアン出身」として、やや軽く見られがちだったゼレンスキー大統領は、今やウクライナという国のために、命を懸けて戦う「英雄」となっている。
では、「ロシア革命」を成し遂げたレーニンは、如何にして「英雄」となったのであろうか。
今回も、「革命家・レーニン」の生涯について、NHK-BSの「ザ・プロファイラー」を基に、紐解いてみる事としたい。
それでは、ご覧頂こう。
<1898(明治31)年…レーニン、流刑地のシベリアで、「同志」クルプスカヤと結婚>
1897(明治30)年、レーニンは、ロシアの首都・サンクトぺテルブルクで、
共に「革命」を志す「同志」達と共に、「労働者階級解放闘争同盟」を結成し、本格的に「革命家」としての道を歩み始めたが、
その矢先、レーニンは秘密警察に逮捕されてしまった。
そして、レーニンはそのまま、シベリアに「流刑」となってしまったが、
当時のシベリアというのは、サンクトペテルブルクから見れば、まさに「地の果て」のような場所である。
翌1898(明治31)年、レーニンが当時28歳の頃、レーニンは流刑地のシベリアで結婚した。
レーニンと結婚したのは、サンクトペテルブルクの共産主義サークルで出逢っていた、あのクルプスカヤであった。
クルプスカヤの活動も、秘密警察に目を付けられており、彼女も逮捕され、シベリアに流刑となっていたのである。
そして、シベリアで「再会」したレーニンとクルプスカヤは、結婚したのであった。
こうして、レーニンは「同志」クルプスカヤを妻としたが、以後、クルプスカヤは終生、レーニンを支え続ける事となる。
<1900(明治33)年…刑期を終えたレーニン、妻・クルプスカヤと共にヨーロッパに亡命~亡命先で、革命新聞「イスクラ」や、著書『何をなすべきか』を発行し、ロシア国内に向けて発信>
1900(明治33)年、「シベリア流刑」の刑期を終えた、当時30歳のレーニンは、妻・クルプスカヤと共に、そのままヨーロッパに亡命した。
以後、レーニンは1905(明治38)年にロシアに一時帰国した時を除いては、ずっとヨーロッパでの亡命生活を続ける事となる。
その間も、クルプスカヤはレーニンに付き従い、彼を支えていたが、「逃亡者」となったレーニンの活動資金は、レーニンの母親からの「仕送り」で賄われていた。
レーニンは、亡命先の拠点である、ドイツのミュンヘンで、
革命新聞「イスクラ」を発行し、自説を述べたが、
それに加えて、レーニンは『何をなすべきか』という著書を書いた。
そう、レーニンが少年時代に熱中した、チェルヌイシェフスキーが書いた本『何をなすべきか』と、同じタイトルである。
自分の愛読書と同じタイトルの本を書き、レーニンは「革命」思想を展開している。
「革命を思想的に統合できる一貫した文書こそ、活動のため欠く事の出来ない一面である」
レーニンは、そう述べていたが、「革命」を起こすためには、まずは文章を書き、自らの考えを開示する事が大事であると考えていた。
レーニンが発行した新聞や著書は、秘密工作員によってロシア国内に運び込まれ、
ロシアの労働者や農民達は、その新聞や著書によって、レーニンの考え方を共有していた。
今で言う所の、SNSを使って発信し、フォロワーを増やして行くという方法と、非常に良く似ている。
だが、この時代はインターネットなどは勿論存在せず、テレビやラジオも無い時代であり、「活字」こそが、最大のメディアであった。
しかも、レーニンは「お尋ね者」だったので、こういう「地下出版」で、地道に発信して行くしか無かった。
「我々に、革命家の組織を与えよ。さすれば、全ロシアを転覆させてみせよう」
レーニンは、著書『何をなすべきか』で、高らかに謳い上げているが、ロシアに帰れないレーニンは、文筆の力によって、ロシア国内で影響力を保ち続けていたのであった。
<1902(明治35)年…レーニンとトロツキー、亡命先のロンドンで出逢う>
1902(明治35)年、レーニンは亡命先のロンドンで、トロツキーという男と出逢った。
トロツキーも、「革命家」として活動していたところ、秘密警察に逮捕され、シベリアに「流刑」となっていたが、トロツキーは収容所から脱走し、ロンドンまで亡命して来ていた。
それまで、トロツキーはレーニンとは面識は無かったが、レーニンが発行した新聞「イスクラ」を読み、レーニンの考え方に共感していたという。
つまり、トロツキーはレーニンの「フォロワー」の1人だったのである。
そして、後年、トロツキーはレーニンの右腕となり、活躍するが、それはまだ、だいぶ先の話である。
レーニンとトロツキーは、出逢った当初、考え方の違いから、激しく対立してしまうのである。
<1903(明治36)年…「ロシア社会民主労働党」の第2回党大会で、「ロシア社会民主労働党」は「ボリシェヴィキ(多数派)」「メンシェヴィキ(少数派)」に分裂~レーニンとトロツキー、一旦、袂(たもと)を分かつ>
1903(明治36)年、ロンドンで、当時33歳のレーニンも参加していた「ロシア社会民主労働党」の、第2回党大会が開かれた。
しかし、この時の党大会は、大荒れとなってしまった。
当時、「ロシア社会民主労働党」は、「一部の職業革命家が主導する急進的な革命」を目指すのか、それとも、「大衆に緩やかに根差した穏健的な革命」を目指すのという、2つの意見に分かれており、党大会は大荒れに荒れていたのである。
レーニンの意見は前者であり、「革命は、一部の職業革命家が主導すべきである」という自説を、決して曲げなかった。
この時、レーニンは「独裁的」だとして批判されたが、
レーニンは、相手の事を「裏切り者!!」「クソ野郎!!」などと言って、徹底的に罵倒してしまった。
レーニンは頭脳明晰で、相手には議論では絶対に負けなかったが、それは、形勢不利と見れば、そんな風に、相手の事を徹底的に罵倒してまで、絶対に自分の立場を譲らなかったからでもあった(※もしかしたら、プーチンも、こういう奴なのかもしれない)。
また、この時、トロツキーはレーニンとは反対の立場を表明し、「穏健的な革命」を主張したが、
この時、レーニンはトロツキーに対して、
「空虚な言い回しと、大言壮語をとどろかせる豚野郎!!」
という、何とも酷い言葉で、最大限の罵倒をしてしまった。
「何も、そこまで言わなくても…」
と、トロツキーも思っていたかもしれない。
そして、「ロシア社会民主労働党」は、党大会の締めくくりとして、党員による投票を行なったが、
結果は、「反対派」が「レーニン派」の投票を上回り、「レーニン派」は「少数派」となってしまった。
だが、レーニンはこの時、「自分達こそが、多数派(ボリシェヴィキ)である」と言い張った。
結局「ロシア社会民主労働党」は、「急進的な革命」を目指す「ボリシェヴィキ(多数派)」と、
「穏健的な革命」を目指す「メンシェヴィキ(少数派)」に、分裂してしまった。
レーニンは、以後、「ボリシェヴィキ(多数派)」の指導者となったが、
トロツキーは「メンシェヴィキ(少数派)」に属した。
こうして、レーニンとトロツキーは、考え方の違いから、一旦、袂(たもと)を分かつ事となった。
<「日露戦争」(1904~1905)にロシアが敗北し、ロシア国内で「ロマノフ王朝」への批判が高まる~「血の日曜日事件」(1905)を知った、レーニンの反応は…?>
こうして、「ボリシェヴィキ」を率いて「革命」を目指していたレーニンに対し、思わぬ所から「追い風」が吹いた。
「日露戦争」(1904~1905)が勃発したのだが、ロシアは「アジアの小国」と馬鹿にしていた日本に、敗北してしまったのである。
1905(明治38)年、ロシアの誇る「バルチック艦隊」が、日本海海戦で大敗を喫し、ロシア帝国の根拠地・旅順港も陥落した。
「日露戦争」での敗北は、当時のロシア国民に、大きな衝撃を与える事となった。
当時のロシア社会は、酷い「格差社会」であり、大部分の国民は、貧しい生活を強いられていた。
一方、「ロマノフ王朝」を頂点とする、ロシア帝国の王侯貴族達は、贅沢な暮らしをしていた。
そのロシア帝国が、日本に無残な敗北を喫してしまったが、ここで民衆の不満は、ニコライ2世が君臨する、ロシア帝国の政府へと向けられる事となった。
1905(明治38)年1月、ロシア帝国の首都・サンクトペテルブルクで、10万人の民衆によるデモが有った。
しかし、この大規模デモに対し、ロシア皇帝直属の軍隊が、無差別に発砲し、民衆側に多数の死傷者が出てしまった。
所謂「血の日曜日事件」であるが、軍隊が国民に対して銃口を向けたという衝撃は物凄く大きく、
ロシア国民の、皇帝や政府に対する不満は、更に高まる事となった。
この「血の日曜日事件」を、当時35歳のレーニンは、亡命先のスイスの都市・ジュネーブで知った。
レーニンは、「血の日曜日事件」を評して、こんな事を言っている。
「革命を信じていなかった人でさえ、それを信じ始めている」
事実、「血の日曜日事件」は、その後「ロシア第一革命」(1905)に発展したのである。
また、レーニンは、こうも言っている。
「権力を奪取するためには、あらゆる手段を使わなければならない」
レーニンは、この時、その言葉を実践すべく、久し振りにロシア国内に舞い戻り、「ロシア第一革命」を先導しようとしたが、
この時のレーニンの「革命」は失敗に終わり、レーニンは再び、亡命生活を送る事を余儀なくされた。
<1905(明治38)年…レーニンとスターリンが出逢う~活動資金の「調達」のために手段を選ばないスターリンの「剛腕」を、レーニンは高く評価>
さて、「ロシア第一革命」(1905)が勃発し、一時、サンクトペテルブルクに舞い戻っていた頃、
レーニンは、1人の「同志」と出逢った。
それが、「革命家」として活動し、何度も秘密警察に逮捕され、何度も「流刑」となっていた男、当時28歳のスターリンである。
スターリンも、レーニンと同様の「お尋ね者」だったが、スターリンには、鋼鉄のように強い意志が有った。
スターリンは、レーニン率いる「ボリシェヴィキ」の党員となったが、
党の活動資金を「調達」するため、銀行の馬車や郵便局を襲い、強盗を繰り返し、現金を強奪していった。
スターリンは「目的のためには、手段を選ばない」という「剛腕」ぶりを発揮したが、
レーニンは、スターリンの「剛腕」を高く評価し、スターリンを党の要職に就けた。
以後、スターリンはレーニンの信任を得て、レーニンの忠実な「同志」として、活躍して行く事となる。
<1909(明治42)年…レーニン、亡命先のパリで、イネッサ・アルマンドと出逢う~以後、レーニン・クルプスカヤ・イネッサの奇妙な「三角関係」が続く>
1909(明治42)年、亡命先のパリで、レーニンは1人の女性と出逢った。
それが、「革命」を志し、ボリシェヴィキの党員となっていた、フランス系ロシア人のイネッサ・アルマンドであった。
イネッサ・アルマンドは、当時、5人の子供を育てる人妻だったが、
イネッサは、ボルシェヴィキを率いて活躍するレーニンに、強く惹かれて行ったという。
当時、イネッサはレーニンに対し、こんな手紙を書いている。
「私は、貴方の話を聞くのも、貴方の事を見るのも、本当に大好きでした。私は、貴方に本当に恋してしまったのです」
そう、これは紛れもないラブレターだったが、イネッサはレーニンに心を奪われ、レーニンの事を好きになってしまったのである。
一方、レーニンの方もイネッサに惹かれ、レーニンは、人妻であるイネッサを「愛人」にしてしまった。
では、それを知ったレーニンの妻・クルプスカヤは、どんな反応を見せたのかといえば、
クルプスカヤはレーニンに対し、こんな事を言った。
「私は、貴方と別れるわ。貴方とイネッサを、一緒にさせてあげる」
クルプスカヤは、自らは身を引き、レーニンとイネッサが一緒になれるようにすると言ったのである。
だが、レーニンはそれを拒否し、クルプスカヤとも別れなかった。
以後、レーニン・クルプスカヤ・イネッサの「三角関係」となったが、
何と、クルプスカヤとイネッサは、「親友同士」となったという。
こうして、常識では計り知れない、奇妙な「三角関係」は続いて行った。
<岡田准一・三遊亭円楽・いとうせいこう・井上咲楽の、レーニンの「プロファイル」は?>
ここで、「ザ・プロファイラー」のレーニン回のゲスト達は、再びレーニンの事をプロファイルしていたが、
司会の岡田准一が、「ここまでのレーニンをご覧になって、いかがですか?」と、話を振ると、
いとうせいこうは、「新聞を発行して、ロシア国内の人達に影響を与えたり、その方向性を決めさせたりとか、やっぱり、レーニンは凄く『言葉』に力が有った人だったと思いますね」と、言っていた。
いとうせいこうの言う通り、人間というのは、やはり「言葉」が大切であり、
人を動かすためには、「言葉」が何よりも重要であると、レーニンは、よくわかっていたのではないだろうか。
いとうせいこうは、更に、こんな事を言っていた。
「それと、トロツキーに対して、豚野郎って言ってましたからね(笑)。そんな事って、普通は仲間に言ってはいけないんだけど、レーニンという人は、豪放磊落な所が有って、そういう事を言っても許されてしまうような部分が有ったのかもしれませんね」
レーニンは、相手を罵倒したり、色々と酷い事も言っているが、
それでも、その「人柄」によって、何となく許されてしまうような所が有ったのではないかと、いとうせいこうは言っていた。
また、いとうせいこうといえば、日本語ラップの先駆者として知られているが、そのラップの話に絡めて、こんな事も言っていた。
「例えば、フリースタイルのラップとかでも、相手に対して、あまりにも酷い悪口を言ったりしている人が居ると、聞いていても、思わず笑ってしまうような時が有ったりするんですよ。レーニンの場合も、そんな風に、『正しく見えるか、面白く言ったか』というのをアピールするのに長けた、パフォーマンス能力が有った人なんだと思います」
つまり、レーニンは、今で言う所の「ライブパフォーマンス」が非常に上手く、
そこが、人々を惹き付けていた大きな要因ではないかと、いとうせいこうは分析していた。
その後、岡田准一は、三遊亭円楽に対し、
「学生運動も、ご経験されていた円楽師匠は、どう思われますか?」
と、話を振ったところ、三遊亭円楽は、こんな風に答えていた。
「確かに、相手を論破する力が無いと、上には行けない。レーニンには、間違いなく、相手を論破する力は有ったと思う。それと、実務派と呼ばれる人も、上には行けるけど、そこにカリスマ性が有ると、もうひとつ上に行けるんだよ。レーニンには、そういうカリスマ性が有ったんじゃないかな」
これまで見て来た通り、レーニンは頭脳明晰で、議論にも強く、その上に演説も巧みであった。
それに加えて、「カリスマ性」も有ったので、レーニンはリーダーとして、多くの人達を惹き付けたのではないかと、円楽師匠は分析した。
「確かに、それでヒトラーも、トップに立ちましたからね…」
いとうせいこうも、ヒトラーを引き合いに出して、「カリスマ性」の重要性について、頷いていた。
今に照らして見れば、良いか悪いかは別にして、ロシア国内では、プーチンという人も、「カリスマ性」が有るという事なのかもしれない。
そうでなければ、プーチンなど、とっくの昔に、ロシア国民の手によって、権力の座から引きずり降ろされていた筈である。
そして、レーニン・クルプスカヤ・イネッサの、奇妙な「三角関係」については、
井上咲楽は、「もし、私の立場だったら、有り得ないなって、思ってしまうんですけど…」と、前置きした上で、こう語った。
「でも、レーニンの知的さとか、自らの命を犠牲にしてまで戦うという行動力とか、そういう物に惹かれて、惚れてしまう女性は、沢山居ただろうなとは、思いますね。多分、レーニンと何らかの関係が有るという事が、当時のステータスになっていたかもしれませんね」
女性の目線から見て、レーニンとは、やはり女性を惹き付ける、何とも言えない魅力が有ったに違いないと、井上咲楽は分析した。
三遊亭円楽は、その事に関して、こんな事を言っていた。
「やっぱりね、命がけの瀬戸際だと、血が騒ぐんですよ。祭りなんかが、そうでしょ?雄(オス)としての本能が目覚めるというか。『社前より裏が賑わう村祭り』ってな言葉も有るぐらいだからね」
円楽師匠が言うには、レーニンのような「革命家」は、毎日、「生きるか死ぬか」という、ギリギリの瀬戸際で戦っており、闘争本能を剥き出しにして生きていたからこそ、常人とは違うオーラのような物が有ったのではないかと、分析した。
日本でも、幕末の時代の志士などは、まさに「命懸け」で戦っていたので、上記の条件に当て嵌まるであろうし、
今まさに、「ウクライナ侵攻」で戦っている、ウクライナのゼレンスキー大統領も、同じであろうと、私は思う。
そう考えると、円楽師匠の分析は、「確かに、その通りだな」と、私は思った。
ここで、「ザ・プロファイラー」の番組が用意した、レーニンの等身大パネルが示された。
「井上さん、どうですか、レーニンはカッコ良くないですか?」
と、岡田准一が井上咲楽に話を振ると、彼女は「渋すぎますね」と言って、笑っていたが、
「身長は、そんなに高くないんですね」
という感想を漏らした。
レーニンは、身長は約165cmだったという。
「今でいう所の『モテ要素』は無いかもしれないけど、でも、やっぱり魅力が有ったと思います」
と、井上咲楽は言っていた。
岡田准一は、この頃のレーニンについて、こんな分析をしていた。
「多分、レーニンは闘わざるを得なかった、『乾いている人』だったんじゃないですかね。ずっと満足しないというか、何処か、寂しさと孤独を抱えていたというか…。そういう人って、何か魅力的に見えたりするじゃないですか」
岡田准一の言葉を受けて、いとうせいこうは、
「確かに、バーなんかでも、ずっと下を向いて、1人で酒を飲んでいる人なんかを見ると、『あの人、どんな人なんだろう?』って、気になったりするもんね」
と言って、その意見に賛同した。
「そうなんですよね。ご飯も、たらふく食べて福々しい人よりも、何か寂しさと孤独を抱えていて、『俺、乾いてます』みたいな所が見える人って、やっぱり魅力的に見えるというか。レーニンって、そんな人だったのかなと、僕は思いますね」
岡田准一の分析も、なかなか鋭い物であると、私は思う。
先程も書いたが、「革命家」というのは、明日の命も知れぬ、孤独な闘いをしている人であるし、
そんなレーニンの姿が、多くの人達を惹き付けていた、という事は有ったかもしれない。
だが、「孤高の人」レーニンが、遂に歴史の表舞台に立つ時が、やって来るのである。
(つづく)