プーチン大統領のロシアによる「ウクライナ侵攻」から、10日が経過した。
ゼレンスキー大統領率いるウクライナは、ロシアの侵攻に耐え、必死の抵抗を続けている。
ロシアとウクライナは、何度か停戦協議を行なっているが、まだ停戦には至っていない。
どうやら、プーチンはウクライナの「全土制圧」を目指し、それを遂行するまでは、「ウクライナ侵攻」を止める気は無いように見える。
一方、ウクライナも、黙ってロシアに併合される事は望んでおらず、それが必死の抵抗に繋がっている。
ロシアとウクライナの間の隔たりは、依然として大きいままである。
私は、ロシアの「ウクライナ侵攻」について、その歴史的背景を読み解くべく、今、このブログで「ロシア・ソ連」と「ウクライナ」の歴史について書いているが、
今回は、「ロシア革命編(後編)」である。
1917(大正6)年2月、「ロシア革命(2月革命)」が勃発し、300年以上続いた「ロシア帝国(ロマノフ王朝)」は遂に崩壊したが、その後、権力を掌握したのは、ケレンスキー率いる「臨時政府」であった。
そして、その「臨時政府」を打倒すべく蹶起したのが、レーニン率いる「ボリシェヴィキ」である。
という事で、「ロシア革命編(後編)」を、ご覧頂こう。
<1917(大正6)年3月2日(ユリウス暦。グレゴリウス暦では1917年3月15日)、ニコライ2世の「退位」により、ケレンスキー率いる「臨時政府」がロシアの実権を掌握したが…?~帰って来たレーニンが登場し、「ケレンスキーVSレーニン」の戦いが始まる>
1917(大正6)年2月23日(ユリウス暦。グレゴリウス暦では1917年3月8日)、
ロシア帝国の首都・ペトログラード(サンクトペテルブルク)で、「ロシア革命(2月革命)」が勃発した。
民衆の大規模なデモ隊に、軍隊が味方に付いたため、政府もそれに抗しきれず、遂に政府は崩壊したのである。
そして、「2月革命」によって成立した「臨時政府」により、ロシア皇帝・ニコライ2世は「退位」させられたが、
これによって、300年以上も続いた「ロシア帝国(ロマノフ王朝)」は崩壊した。
「2月革命」によって成立した「臨時政府」を率いていたのは、
社会革命党のケレンスキーであった。
しかし、ケレンスキーの「臨時政府」は、ロシアが参戦していた「第一次世界大戦」の「戦争継続」を表明し、民衆を落胆させた。
そもそも、ロシアの民衆は「パンをよこせ!!」「戦争をやめろ!!」と言って、「2月革命」を起こしたというのに、これでは一体、何のための「革命」だったのか…。
民衆は「臨時政府」に失望したが、ケレンスキーは、「ロシア帝国(ロマノフ王朝)」時代に締結していた、英仏露の「三国協商」の約束を、重んじる事にしていたようである。
まだドイツとの戦いが継続している以上、ロシアだけが戦線を離脱するわけにはいかないというのが、ケレンスキーの考え方であった。
だが、そこへ「あの男」が戻って来た。
そう、10年以上もスイスに亡命しており、ずっと地下活動で「革命」を訴えていた、レーニンである。
1917(大正6)年4月、レーニンがロシアに帰国すると、民衆は歓呼の声でレーニンを出迎えた。
これは、ケレンスキーにとっては、非常な脅威である。
ここに、「ケレンスキーVSレーニン」の戦いが幕を開けたが、
では、一体どうやって、レーニンは亡命先のスイスから戻って来る事が出来たのであろうか?
それを探るために、時計の針を少し巻き戻して見る事とする。
<レーニン・スターリン・トロツキーの「ボリシェヴィキ」3大スターの苦闘>
これまで何度か述べて来た通り、1903(明治36)年、「ロシア社会民主労働党」が、路線対立によって分裂した際に、
レーニンは「ロシア社会民主労働党」の分派である「ボリシェヴィキ(多数派)」の指導者となった。
この「ボリシェヴィキ」で、レーニンの仲間として、強力な一派を形成したのが、
レーニン・スターリン・トロツキーの、所謂「ボリシェヴィキ」の「3大スター」である。
「ロシア革命」で、彼らが歴史の表舞台に立った事により、ロシアの歴史は大きく動いて行く事となる。
しかし、彼らが台頭して行くまでは、苦闘の連続であった。
<レーニンとトロツキーの出逢い~「革命」の路線を巡って対立し、レーニンは「ボルシェビキ」、トロツキーは「メンシェヴィキ」に分かれる>
トロツキーは、1879(明治12)年11月7日、当時、ロシア帝国領だったウクライナのヘルソン県で、ユダヤ系の農民の子として生まれた。
トロツキーは故郷ニコラエフの学校で、「社会主義」の洗礼を受けた。
彼は、学校を首席で卒業するほど、優秀な学生だったが、大学には進まず、「南ロシア労働者同盟」を結成し、革命家として活動を始めた。
1898(明治31)年、当時19歳だったトロツキーは、革命運動が警察に目を付けられ、警察に逮捕された。
そして、トロツキーは4年間の「シベリア流刑」の判決を言い渡されたが、
1902(明治35)年、トロツキーはシベリアから脱走し、ロンドンへと亡命した。
その時に使用した偽造パスポートで使用した名前が「トロツキー」であり、以後、彼は終生、その名前で通した(※ちなみに、トロツキーの本名は、レフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュテインである)。
トロツキーは、亡命先のロンドンで、レーニンと出逢った。
当時、レーニンは「ロシア社会民主労働党」の党員であり、トロツキーも同党の党員だったため、そこで彼らは出逢ったのである。
だが、レーニンとトロツキーは、「革命」の路線を巡って対立した。
1903(明治36)年、「ロシア社会民主労働党」が「ボリシェヴィキ(多数派)」「メンシェヴィキ(少数派)」に分裂した際に、
レーニンは「ボリシェビキ」、トロツキーは「メンシェヴィキ」に、それぞれ属し、一旦、彼らは袂(たもと)を分かっている。
なお、映画『ニコライとアレクサンドラ』でも、この時、レーニンとトロツキーが対立している様子が描かれている。
<レーニンとスターリンの出逢い~革命家として7度逮捕⇒6度流刑⇒5度脱走…という「実績」を残す~銀行強盗などで党の活動資金を「調達」し、アゼルバイジャンのバクーの石油労働者の組織化に成功し、レーニンの信頼を得たスターリン>
一方、スターリンは、1878(明治11)年12月21日、ロシア帝国領のグルジア(※現・ジョージア)で、
貧しい靴職人の父と、農奴の母という両親の間に生まれた。
スターリンは、グルジアの首都・チフリス(現・トビリシ)の神学校で学んだが、その神学校で、スターリンも「社会主義」の洗礼を受けた。
そして、スターリンは「社会主義」の秘密組織に加入して活動していたが、その事が発覚してしまい、スターリンは神学校を退学処分させられてしまった。
その後、スターリンは、チフリス市の「ロシア社会民主労働党」に入党したが、
スターリンも、警察に目を付けられており、1901(明治34)年、スターリンに逮捕状が出された。
以後、スターリンは地下活動に入ったが、その後のスターリンは1913(大正2)年までの間に、
「7度逮捕⇒6度流刑⇒5度脱走」という、物凄い「実績」を作った。
その頃のスターリンは、警察によって指名手配される、有名な「お尋ね者」であった。
1905(明治38)年、「血の日曜日事件」をキッカケに、「ロシア第一革命」が勃発したが、
当時、スターリンは、レーニン率いる「ボリシェヴィキ」に属していた。
そして、党の活動資金を得るために、スターリンは銀行強盗や、国の現金輸送車の襲撃などを繰り返し、党の活動資金の「調達」に活躍していた。
当時、「ボリシェヴィキ」は、地下組織だったので、活動資金を得るためには、そういう「非合法」な事をやるしか無かったのである。
この時、レーニンとスターリンは初めて出逢っているが、スターリンの「活躍」がレーニンの目に留まり、
「お前、なかなかやるじゃないか」
という事で、レーニンはスターリンを高く評価したという。
この時(1905年)の、レーニンとスターリンの出逢いは、後のソ連時代に「神話」として、絵画に描かれている。
なお、映画『ニコライとアレクサンドラ』では、レーニンとスターリンの「出逢い」について、こんな風に描かれている。
「ロシア社会民主労働党」の集会に、レーニンと、レーニンの妻・クルプスカヤが参加していた時、
スターリンが、レーニン夫妻の前に、初めて登場した。
「私は、スターリンと申します。暫く、シベリアに行っていました」
スターリンは、レーニンとクルプスカヤに、そう言って自己紹介すると、
レーニンは、ニコリともせず、「私もだ」と、答えた。
レーニン・スターリン・トロツキーは、皆、シベリアに「流刑」された経験が有り、それが革命家としての「箔付け」のようになっていた。
映画『ニコライとアレクサンドラ』では、前述の通り、レーニンとトロツキーが対立する場面が描かれたが、
映画では、スターリンの初登場も、それと同じ場面として描かれている。
トロツキーと意見が対立し、憮然としていたレーニンに対し、スターリンは、
「彼は、分かっていない。貴方が正しい」
と言って、賛意を示していた。
こうして、スターリンはレーニンの「同志」となった。
1912(明治45)年、スターリンは、アゼルバイジャンのバクーで、石油労働者の組織化に成功した。
この時のスターリンの活躍ぶりは目覚ましく、より一層、スターリンはレーニンの信頼を得たが、
その功績により、レーニンはスターリンを「ボリシェヴィキ」の党中央委員に推挙した。
なお、この頃から、「ボリシェヴィキ」の党機関紙「プラウダ」で、
彼は「鋼鉄の人」という意味を持つ「スターリン」という筆名を名乗り、以後、終生、この名前で通した(※スターリンの本名は、ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリである)。
つまり、レーニン・スターリン・トロツキーは皆、本名ではなく、筆名(ペンネーム)なのであるが、
社会主義者というのは、「筆名」を名乗る習慣が有った(※彼らは、警察に目を付けられていたので、本名を名乗って活動すると、逮捕される恐れが有ったからである)。
<亡命者・レーニンの苦難の日々~レーニンとクルプスカヤ夫妻、シベリア流刑後、ヨーロッパ各地を逃げ回り、「その時」を待つが…?>
さて、レーニンであるが、彼の人生は「亡命」と「逃亡」の日々の連続であった。
1895(明治28)年、ロシアの首都・サンクトペテルブルクで、「労働者階級闘争同盟」を結成したレーニンは、警察に逮捕され、シベリアに流刑となったが、その地で、かつての「同志」だったクルプスカヤと再会し、レーニンとクルプスカヤは結婚した。
1900(明治33)年、当時30歳のレーニンは、ドイツへ亡命し、シベリアで準備していた新聞「火花」を発行し、労働者の団結を呼び掛けた。
1905(明治38)年、「血の日曜日事件」をキッカケに、「ロシア第一革命」が勃発した際に、当時35歳のレーニンは5年振りにロシアに帰国し、サンクトペテルブルクで革命を指導した。
だが、この時の武力革命は失敗に終わり、レーニンは妻・クルプスカヤと共に、再びスイスに亡命し、以後、レーニン夫妻は警察の目を逃れ、ヨーロッパ中を逃げ回った。
レーニンの再びの亡命生活中(1905~1917)、警察に逮捕されていたトロツキーは、シベリアへの流刑が決まったが、
シベリアに護送される途中、トロツキーは脱走し、ヨーロッパ各地への逃亡生活を送ったが、
この時、トロツキーはレーニンと合流し(※この時、初めてレーニンとトロツキーは共闘関係になった)、トロツキーは「ボリシェヴィキ」の党機関紙「プラウダ」の発行に関わった。
映画『ニコライとアレクサンドラ』でも、この時の事が描かれているが、この時、トロツキーは「プラウダ」で、
「『党が民意を握り、エリートが党を握る』というのが、レーニンの見解である。エリートを握る中央委員の頂点はレーニンである」
という記事を書き、これを発表するよう、レーニンに迫った。
トロツキーは「レーニンが、ボリシェヴィキの党首として、権力を独り占めにしようとしている」と、「プラウダ」紙上で警告しようとしていたのである。
だが、レーニンはこれを拒否した。
この時、レーニンはトロツキーに対し、こう言い放った。
「良いか、君が何を言おうと自由だが、私が君を撃つのも自由だ。放火、殺人、テロ…力を得るためなら、何でもする。何年かかろうとも、必ず力を手に入れるのだ!!」
レーニンは、権力を手に入れるためには、手段は選ばないと、トロツキーに言ったのである。
この辺のレーニンの強権的な体質は、今のプーチンに通ずるものが有ると思われる。
<長すぎる亡命生活に意気消沈するレーニンと、レーニンを励まし続けた妻・クルプスカヤ>
だが、その後もレーニンの「革命」のための活動は上手く行かず、「ボリシェヴィキ」の会合でも、
「スターリンが逮捕され、またシベリア送りになった」とか、「ボリシェヴィキの武器庫が警察に発見され、警察に武器が押収された」とか、冴えないニュースばかりであった。
「ボリシェヴィキ」の活動もジリ貧であり、会合はいつも、暗い雰囲気のままである。
レーニンも、いつ終わるとも知れない地下活動に、段々と精神的に疲弊して来ていた。
ある時、レーニンは、妻のクルプスカヤに、こんな「弱音」を吐いた。
「私は、もう時代遅れだ。何を言っても、何を書いても、誰も見向きもしない…。亡命者は、正気を失う運命だ。金の無い変人は、帰る国も無い。私は慈善病院で死に、共同墓地に入れられるのだろう…」
しかし、常にレーニンに寄り添い続けたクルプスカヤは、
「いいえ!そうはならないわ」
と言って、懸命にレーニンを励ました。
1917(大正6)年の時点で、レーニンは当時47歳になっていた。
だが、この後、レーニンの人生は、思いもよらない「急展開」を見せるのである。
<1917(大正6)年2月…「2月革命」の成功で「ロシア帝国(ロマノフ王朝)」が崩壊~ケレンスキーの「臨時政府」と、ロシア各地に「ソビエト(労兵会)」が誕生し、ロシアは「二重権力」状態に>
1917(大正6)年の「2月革命」により、「ロシア帝国」が崩壊し、
社会革命党のケレンスキー率いる「臨時政府」が誕生したが、「臨時政府」が「戦争継続」を表明し、民衆が失望したという事は、既に述べた。
そして、当時のロシアは、「臨時政府」の他に、革命化した軍隊や労働者が組織した「ソビエト(労兵会)」が、ロシア各地に誕生していた。
従って、「2月革命」後のロシアは、「臨時政府」と「ソビエト(労兵会)」の「二重権力」状態であった。
そんな風に、混沌としていたロシアに、遂に「あの男」レーニンが帰って来たのである。
<1917(大正6)年…ドイツが用意した「封印列車」に乗り、レーニンが12年振りにロシアに帰国~レーニンは「4月テーゼ(綱領)」を発表し、「全ての権力をソビエトへ」と主張>
1917(大正6)年4月、レーニンとクルプスカヤの夫妻は、ドイツ政府が用意した「封印列車」に乗り、12年振りにロシアに帰国を果たした。
ドイツが、何故レーニンに手を貸し、「封印列車」を用意したのかと言うと、当時、ドイツとロシアは、まだ「第一次世界大戦」で交戦中であり、
ドイツとしては、「革命家のレーニンをロシアに帰して、ロシア国内を混乱させる」という意図が有ったようだ。
こうして、「一刻も早くロシアに帰りたい」と思っていたレーニンと、ドイツ政府の利害が一致し、レーニンはロシアに帰って来た。
映画『ニコライとアレクサンドラ』では、レーニンとクルプスカヤが「封印列車」でロシアに帰って来た時、
大挙して集まっていた民衆が、大歓声でレーニンを出迎える場面が描かれているが、
最初、レーニンは「え!?何だ、この人達は、俺の事を出迎えてるのか?」と、怪訝そうな表情であった。
レーニンは、あまりにも「地下活動」が長すぎたため、こんな風に民衆に出迎えられる事が、不思議だったようである。
一方、長年、レーニンを支えていたクルプスカヤの方は、夫が大歓声で迎えられているのを見て、満面の笑みであった。
この時、驚愕から立ち直ったレーニンは、集まった民衆を前に、毅然とした調子で、
「全ての権力を、ソビエトへ!!」
と、高らかに宣言し、民衆の歓呼の声を浴びていた。
そして、レーニンは「全ての土地を国有化し、農民へ分配する事」「戦争の即時終結」を、高らかに宣言した。
これが、レーニンの「4月テーゼ(綱領)」である。
こうして、レーニンの登場により、「ロシア革命」は新たな段階に入り、歴史は大きく動き始めるのである。
<1917(大正6)年10月24日(ユリウス暦。グレゴリウス暦:1917年11月7日)、「ロシア革命(10月革命)」が勃発し、レーニン率いる「ボリシェヴィキ」が権力を奪取!!~世界史上初の「プロレタリア革命」が成就>
レーニンが帰って来た事により、「ボリシェヴィキ」は勢い付いた。
一方、ケレンスキー率いる「臨時政府」は、複数党の連立政権だったため、基盤が弱く、いつも右往左往しており、ロシア国民の信頼を失って行った。
「ボリシェヴィキ」は、レーニンの「4月テーゼ(綱領)」が、民衆の圧倒的な支持を受けており、形勢は徐々に「ボリシェヴィキ」に傾いて行った。
1917(大正6)年9月、「臨時政府」は「ボリシェヴィキ」に対する弾圧を強め、レーニンは一時、フィンランドへと亡命した。
だが、ロシア軍の最高司令官・コルニーロフのクーデターを、「臨時政府」はボルシェヴィキの力を借りて鎮圧したため、民衆の「ボリシェヴィキ」に対する支持は、更に高まった。
そして、遂に「その時」はやって来た。
1917(大正6)年10月、レーニンは密かにフィンランドからロシアへと帰国した。
そして、1917(大正6)年10月24日(ユリウス暦。グレゴリウス暦:1917年11月7日)、
レーニンは、赤衛軍(革命軍)の指揮をトロツキーに任せ、遂にレーニン率いる「ボリシェヴィキ」が、「臨時政府」に対し、武装蜂起を行なった。
そして、「ボリシェヴィキ」が「臨時政府」を打倒し、「ボリシェヴィキ」が権力の奪取に成功した。
これが、「ロシア革命(10月革命)」である。
「10月革命」を成功させたレーニンは、直ちに、
「全ロシア・ソビエト会議」を開催し、臨時政府打倒とソビエト権力の樹立を宣言すると、
「平和に関する布告」、「土地に関する布告」を採択した。
ところで、以前も書いたが、レーニンが大きな影響を受けた、マルクスの「唯物史観」では、
「まずは市民革命(ブルジョワ革命)が起こり、その後にプロレタリア革命が起こる」
という事が「予言」されていたが、この時、レーニンはその「予言」を実現させたという事となった。
即ち、「2月革命」が「市民革命(ブルジョワ革命)」、「10月革命」が「プロレタリア革命」である。
こうして、遂に世界史上初の「プロレタリア革命」は成就された。
当時47歳のレーニンは、「10月革命」成功の夜、トロツキーに対し、
「長い迫害と地下生活から、こんなに急に権力が握れるとは…。眩暈(めまい)がするよ」
と、語っている。
こうして、レーニンの人生も「激変」したが、この瞬間、ロシアと世界の歴史も、大きく変わった。
ここに、史上初の「社会主義政権」が誕生したのである。
(つづく)